いつかあなたと花降る谷で 第2話(5)
でも、そんな暗い気持ちは暫く不要なものだと思う。
少なくとも、恋人にならずとも、フィーナは彼との生活を受けいれてくれるからだ。長い目で見て「友人」ならば、辛くならないと思っている彼である。大好きな彼女の側で、彼女を独り占めできるなら……共に生きられるなら、それで全く構わない。
浴室から戻った彼女は相変わらず可愛い顔で、マァリが結った髪型をとても気に入ってくれた雰囲気だ。鼻歌を歌い出しそうな様子を見せて、夕食の準備に取り掛かる。マァリも踏み台に登った彼女の横で、夕食の準備を共にする。堂々と隣に並べるこの時間、面倒なんて思うはずがない。
残りの人生は二人がいい。女なんて面倒臭いだけだと思っていた彼だけど、フィーナだけは特別で、大事にしたい妖精だ。ここはきっと彼の血に流れる半分の影響だろうけど、そもそも幻獣族は人間より愛情深い。たった百年足らずで死んでしまう彼らとは違い、ずっと長期的な「感覚」を持っている。長い時間を共にするのだ、だから真剣に相手を見るし、浮ついた感覚で異性を見るという「前提」もない。
そうすると人間が軽薄に見える理由も、紐づいていく訳で……マァリは人の社会から離れ、段々、幻獣としての感覚を強くして、段々、息がしやすく生きやすい世界へと解放されていくようだった。
キッチンに立った二人は庭の野菜でサラダを作り、朝に仕込んだパンを焼き、ミオーネに貰った卵をスープに溶いていく。魚をソテーして香草を添えたなら、なんとも豪華な夕食だ。
早速隣の部屋へ運んで、それぞれ味を楽しんで、食後は花蜜のジャムを落としたお茶を飲む。絶妙な甘酸っぱさのお茶を手に取りながら、マァリはフィーナへ街へ降りる算段の話を振った。
「ねぇフィーナ、街へ行く話なんだけど」
うん、と向かいのフィーナは彼を見上げて、明日にする? なんて足の軽いことを言う。確かに翼竜も手に入ったし、時間をおく理由もないから、マァリも「そうしようか」と返すけど。人間の社会で耳にした沢山の女性の「都合」を思うと、やっぱりこういう純粋なところが可愛い、と思うのだ。
別に、相手がフィーナなら、誕生日が近いとか、バーゲンセールが近いとか、どうせ何処そこへ行くのならついでにそこにも行きたい、だとか。迷惑だなんて思わないし、むしろ聞いてあげたいと思うけど。
口には出さずに優しく笑んで、マァリは「少し先の街まで行かない?」と。
「宿代は俺が出せるから、王都の手前まで行ってみようよ」
「え……王都の手前?」
「そう。フィーナはいつもだと、どの辺まで降りていくの?」
「すぐそこの村までよ。ルトって名前だったと思う。でも待って。行ったことがあるかというと、小さい頃、お父さんと、その一つ先の街までならば、遊びに行ったことがある気がするのよ」
むーん、と思い出す素振りを見せて、フィーナはマァリにそう返す。
「ルト村ね。確かにここに登ってくるときに、最後にお世話になった村の名前だ」
「村の人、マァリが戻ったらびっくりするんじゃない?」
「びっくりっていうか、怖がられるかもしれないね。愛想のない男だったし、暗い奴に見えただろうし」
「そうなの?」
「うん、多分。フィーナに受け入れてもらえるか、すごく緊張していたからね。返事する余裕もなかったし、帰れって言われたらどうしようかな、って、ぐるぐる頭の中で考えていたからさ」
うふふ、なにそれ、面白い。
フィーナは両手で顎を支えて、屈託なく笑って聞くらしい。
いや、俺は本当に緊張したよ? と、マァリは真剣に言うけれど。
「まぁ、挨拶し直したりとか、そういうのもしたいから。村から隣町までは歩くけど、そこから先は乗合馬車も出るし、宿に泊まったりして遊ばない?」
美味しいものも食べたいしさ、と、言った瞬間のフィーナの顔に、勝ちを確信したマァリである。
「だめ?」
あざとく首を傾げて、彼は問う。
フィーナは思惑通り、ダメじゃない、と首を振り「お金、少しあったと思うわ」と収納の部屋の方を振り向いた。
「フィーナのは取っておきなよ」
「マァリにばかり負担させるのは……」
「全然負担じゃないよ。使うところがなかったから、結構あるしさ。無くなったらまた働けばいいし、前、世話してくれたお礼ってことでどう?」
ずっとお礼がしたかったし、今回は俺の我儘に付き合ってもらう訳だから。お願い、と、あざとく言えばフィーナは少し沈黙し、うーん、と渋りはしたものの最終的に頷いてくれたのだ。
「わかったわ。じゃあお言葉に甘えて」
「そうして。はぁ。やっと借りが返せると思ったら、なんか一気にほっとした」
「えぇぇ、マァリ大袈裟」
「全然大袈裟じゃないよ、もう。俺、本当に助かったんだから。死んでも良いやって思ってたけど、フィーナにお世話になって、そういう気持ちがなくなった」
「そうだったの? 私、なにもしてないけど……」
「怪我も治してくれたし、ご飯も住むところも提供してくれて……なにもしてないって思う方がどうかしてるよ」
「だって代わりに私、一緒に暮らせて楽しかったのよ? 怪我をして落ち込んでいた人に、言ってはいけないことかもしれないけれど」
お礼なんてそれで十分で、むしろ貰いすぎだと思ってた。
カップに口をつけ、恥ずかしそうに語るので、全然足りない、だから俺に任せて、と、マァリは強気で話を結ぶ。こうして街に降りる予定をまとめた彼は、必要だったら着替えだけ準備してね、と彼女に伝え、夕食の片付けをまた一緒にしていった。
ここ最近の担当は、マァリが洗い物をして、フィーナが受け取り、布巾で拭く、という風である。フィーナがどんなに「私が洗う」と伝えても、いいからいいから、と、彼が先に始めてしまうのだ。冷たいのに……と心配すると、次からは魔法で温めて、彼は飄々とこなしてしまいフィーナの心配を消していく。
本当に働き者ねぇ、と感心を込めて呟けば、惚れてくれたら嬉しい、なんて軽口まで吐いてくる。マァリは大分、緊張しながら攻めに転じているけれど、本気じゃないと考えているフィーナにしたら「軽口止まり」。
だから。
「惚れると思うわよ。すごく魅力的に見えるもの。でも、私が相手じゃ勿体ないわね」
私は嬉しいけれど。
ここまで言うのに全く気持ちが入っていないのだ。
惚れると言ってもらえて、魅力的とも言ってもらえて、嬉しいと返してくれるのに、私じゃ勿体ないと言う。マァリは洗い物を終えた手を手拭き用のタオルで拭きながら、このまま腰に手を回せたら良いのに、と、今日も無言で考える。
どちらかというと、フィーナが自分に勿体ない、だ。思っても言わない賢い彼である。こんなに距離が近くて、嫌がられてもいない訳だし、ボディタッチをしに行って印象付けたい所だけれど。彼女の情緒の方がどうにも追いついていなそうなので、男を出すのは悪手だろうなと、行動を思いとどまっている。
街に行く目的は美味しいものを食べることだけど、旅行みたいなものなので、そこで少しでも前進できたら、と。期待したり願ってしまうのは人間のサガなのか、と、水浴びをしに浴室へ行く彼女の姿を、目で追いながら考えた。
子供の裸に悪戯したい訳ではないが……裸になったフィーナが恥ずかしがるところは見たい、と思う。すんなり素直に考えていて、んん゛っ、と喉を鳴らし、気を取り直した彼である。
部屋へ戻ると鞄を用意して、此処に来るときに着てきた服を椅子の上に放り投げ、財布を確認し、小分けにして準備する。荒事には巻き込まれたくないし、野蛮なところを見せたくもない。だから捨てても困らない用の、小銭を分けた巾着を用意する。絡まれたら素直にそれをやって、さっさと逃げるに限るのだ。
自分の青白い髪は目立つだろうが、帽子がついた上着がある。あとはフィーナの髪色を隠したいところだけれど、手前の町で買えばいいか、と、予定をつけた彼だった。
でも、翌朝、フィーナが外出用に出してきた服は、マァリのように帽子がついた地味な色の服である。身長が低いから、どこから見ても「子供」だけれど、地味な服を着たマァリの隣に馴染む、地味な服装の子供、を完璧に演じられる体である。
「そんな服、持ってたの?」
驚く彼に返す彼女は、「お父さんがね。街に行くときは、妖精は目立つから隠れなさい、って」と。フィーナの父親はフィーナの価値を、しっかり分かっていたらしい。
「賢いお父さんだね。実は俺、ちょっと心配してたんだ。でもその服なら大丈夫そうだね。安心した」
フィーナは感心するマァリに「ありがとう」と微笑んで、子供がポンチョを着たように、可愛らしい姿になった自分のことを、くるりと回ってよく見せてくれたのだ。
多分、彼女の気持ちとしては、後ろ姿も抜かりない? と確認したかっただけだろうけど、サイズ感やら仕草やら、なにやら矢鱈と可愛いわけで、マァリの心を撃ち抜いたのを知らないままで過ごしたようだ。
マァリは彼女に見惚れた時間を回収するように、はっと気を取り戻したら契約を交わした飛竜を呼んだ。自分は腕に、飛竜は首のところへと、契約印を刻んであるので魔力を流せばすぐである。
フィーナと共に庭に出て、彼が飛んでくるのを少し待つ。
程なく、純白の白い巨体が、上空から滑らかに降りてきた。
どうせ方向は一緒だし、フィーナに触れたい彼はそのまま、前日のように「乗って」と”しれっ”と彼女に言ってみた。彼女は彼女で昨日の飛びにくさを思い出したらしい、お願いします、と素直に語りマァリの腕に収まった。
感動したマァリの気持ちはバレなかっただろうけど、フィーナの気持ちは少し進んで、恋人ってこんな感じなのかしら? と。それでもまだまだ本格的な情緒の変化ではないけれど、男性の腕の中に収まってしまう自分のことを、いつもとは違う気持ちで見ていたらしい。
飛竜に乗せて貰えばルト村まですぐである。
村の手前の森に降り、マァリが飛竜に「ありがとう」と伝えて彼を返すのを、一緒に眺めながら手を振ったフィーナだった。
「さて。じゃあ、村の人に挨拶、挨拶」
「私も久しぶりだから挨拶しなきゃ」
こうして二人はのんびりと、旅行を開始したのである。