君と異界の空に落つ2 第1話
盆の頃を過ぎた夏の終わり、それでも照りつける日の光は強烈で、山の枝葉に守られながら瑞波(みずは)と進んだ耀(よう)である。二人の姿は希望に満ちて、楽し気にして見えた。
耀は黒髪の幼い童子。幼いと言っても十一、二の子供である。
瑞波は白髪の涼やか美人。歳の頃は二十の中頃に見えていた。
どちらも男の姿をしていて、瑞波が耀に従う雰囲気だ。片や人間、片や神。問題は山ほどあるが、二人は未来の伴侶として、足を踏み出したばかりであった。
明るい山を進む二人は、希望に満ちていた。降りかかる障害も眼中に無い、本当に幸せなひと時である。
あの日、穢れに穢れてしまった浄提寺(じょうだいじ)から、唯一降りたとされる大僧正。少年は祓えの神と生きる道を選んだ為に、その人の提案で、亡くなった者になる事にした。いずれ真実を話すだろうが、暫くは隠させて欲しいと語る。それほど貴方の存在は、私達には危ういから、と。
際限なく、この地に集った能力者の魂を呑み込んで、穢れてしまった異界の神を、更に呑んだ耀である。その所為で耀の体は、定期的な“浄化”が必要になっていた。そうでなくとも“神を呑む”という前例の無い事態、他の能力者に知れるのは懸念される事が多過ぎた。それは、言わば、少年の身を案じた故の、大人達の判断でもあったのだ。
大寺院にも神宮にも耀を置いておけそうにない。守られるどころか大人になるまでに、彼の体も能力も、良いように使われてしまう懸念があった。彼は傀儡にされるような玉ではないだろうけど、万が一という事もあるだろうと思われた。又は、彼を何方(どちら)かに預けてしまう事により、扱う分野が異なる事を知らない外の人間が、寺院と神宮へ上下をつけてしまいかねない事態も見えた。
今は帝の意向もあって、神仏統合へ向かう時世なのである。そんな場所に火種になりかねない人間を投下するのは躊躇われた。本人に野心があるのなら火事は本人が背負えば良いが、耀はそういう性格ではなく、傍の神の意を汲みたいと言う。
彼の傍に佇む神は、名を記されない祓えの神らしい。最も穢れた山の頂に、浄化の柱が立ったのだ、祓えの神である事を疑う者は居なかった。おかげで寺が置かれたその山は、頂上付近だけが浄化されており、そこから下だけ穢れ地という不思議な状態になっていた。
生まれてから長い事、見えざる世界に身を置いている人間達である。神の存在を疑わず、神と耀の意思を尊重し、幼子を守る事へと注力したと言って良い。既に人の体を失った雪久(ゆきひさ)と亮凱(りょうがい)と、生きていた大僧正の判断だった。耀は理解ある大人達に大切に守られるようにして、瑞波と共にひっそりと、その地を去る事にした。
初めは山の中を行った。
山歩きをする為に、師匠である雪久が、彼の為に揃えてくれた丈夫な草履なのである。この時代の足袋を履き、踝(くるぶし)から膝までの脚絆(きゃはん)を巻いて、昼は薄着で、夜は袖を掛け、彼は寒さを凌いで過ごした。
初め、熊避けの“りん”を腰に括ろうとしたのだが、瑞波が『私が居れば大丈夫です』と語るので、そんなもん? とも思った耀だ。毒蛇だけ注意すれば良い? と聞いてみた訳だけど、瑞波からの答えは似たようなものだった。
『そういう危ないものは、私が追い払っておきますよ』
『凄いね、瑞波。頼りになるね』
褒められて嬉し気にした神だった。
異言(いげん)という才能のある耀は、人外と会話を持てるらしい。人以外と話す時、そちらに合わせた発音になる。普段、この国の民が使う音韻ではなくて、どうにも真似できないような独特の音を発するようだ。何も知らない人間が聞けば気味の悪い声ではあるが、そちらの世界においては貴重過ぎる才能だった。
もう一人、雪久の同僚の亮凱(りょうがい)が、同じ力を持っていた。彼は蔵に置かれた壺へ封印されていた、“大悪魔”と会話をしてみせた。師匠である雪久が、誰にも聞かせるな、隠せ、というので、そういうものと理解して内緒にしていた力である。亮凱もまた幼い耀へと、内緒、と言っていたような気がする。
師匠に報告される前、小坊主達に先にばれたが、一様に変な顔をしてみえたので、良い気持ちにはならないらしい。だから普通の人のみならず、能力者の前においても、気を付けなければいけない事だと記憶した。だが、山の中なら気兼ね無い。
そうして山の中で過ごした数日は、実に快適な日々だった。
問題は、寺を降りる前、大僧正自らが、彼のために拵えてくれた糒(ほしい)が無くなり始めた頃である。糒とは炊いた米を天日で乾かした、この時代の保存食なのである。
そうは言っても坊主達が、逃げ降りた寺である。最終的には恐怖で逃げたが、下山は計画的なものだった。残された米は僅かなもので、糒の量は数日分だ。だからもちろん耀の頭に、それほど保(も)たない意識があった。
彼は幸い頭の方も人並みに働く方である。確かに瑞波との楽しい旅に魅せられてしまった部分はあるが、彼の中ではその後の事もちゃんと考えてはいたのである。
自分の記憶にある限り、該当しそうな“時代”を思い、実際にどのように扱われていくのかを、身を持って知る必要があるとも思った。まだまだ子供の見かけであるので、侮られる事も多いだろう。けれど、完全に山の中で一人で暮らしていくような、上人に成れる自信というのを、彼は持ち合わせていなかった。
再会と冒険を楽しむような数日を過ごした後に、彼は人里に降りていき、人里から町へ出た。何もかもを与えてくれて、送り出してくれた大僧正様を思うと、師匠達の言もあり、迷惑だけは掛けたくないと自然と思う。それと同時に同行者である瑞波の気持ちも大切で、騒がしい所は苦手です、や、不浄な場所では辛いです、も、同じくらい尊重しなければならないものだと彼は思った。
古い時代の女房のように、真っ白な祓えの神は、少年の背後、少し後ろを来るようだ。普通の人には見えないものだし、能力のある者にも視えないが、感じる者は多いらしくて、気をつけなさいと師匠は言った。
瑞波はどちらかというとそちらを気に掛けているらしく、一番は、神が憑いた人間────まだ幼い耀の事を、悪用する大人が出て来ないか……という心配をしていたらしい。
そうでなくとも耀の体には、凄まじい穢れが宿っているのだ。一見、見えない穢れでも、感じる者には“嫌悪”が浮かぶ。それは自然な守備本能で誰の所為でも無い事で、悪い事はしていないのに、悪態をつかれる耀を見て、心根の綺麗な瑞波はそれなりに心を痛め続けた。
朝、昼、晩と、瑞波は彼の穢れを祓ったが、鋭い者にはその奥にある“穢れの塊”が分かるらしい。初めは親切にしてくれたとしても、一端に触れると目が醒める。得体の知れない一端は、分かりやすく“胡散臭さ”になるようだ。
胡散臭い旅の童子は一体、何を狙っているのだろうか、と。どんなに耀の態度や言葉が丁寧なものだったとしても、次々と疑念が湧いて、嫌悪感に変わるのだ。
一瞬の付き合い、例えば買い物なら支障無い。胡散臭い子供でも、銭さえ払えば客である。子供が銭を持たされるなどそうそう無い事ではあるが、師匠が彼に着せた着物と草履が立派な事もあり、何処かの屋敷の舎人(とねり)の子供、と思われた。だから、その点については問題無かった事も、耀が意図せず苦労する原因の一つになったのだ。
彼の計画、つまり、いずれの時期か、そう遠くない時間の中で、まずはひと冬を越すための“場所”を、手に入れなければならなかった。割と死活問題である課題を解決する必要があったのに、それが思う以上に、上手く行かなかったのだ。
原因は前述の通りである。
丈夫さには自信があります、住み込みで出来る仕事はありませんか? 小坊主をやっていたので、朝晩のお勤めも果たせます。ひと冬だけで構いませんので、雇って頂く事は出来ないでしょうか? と。大きな屋敷、大きな商家、段々と規模は小さくしたが、彼が通った町々で余裕のありそうな何処の家でも、お前を雇ってやろう、という話には繋がらなかった訳だ。
この時代は好まれないが男色が理解されていて、そちらには好まれそうな顔をしていた耀だけど、そうした主人が居そうな”家”は瑞波に悉く弾かれた。あの家は嫌です、という明快な言を用いて、そうした理由と知らないうちに耀の体は守られていた。守られたとて、お飯(まんま)に与れないのでは簡単に飢えてしまうが、伴侶の体を好きにされるのは、許せなかった瑞波である。
水は公共の井戸か清流から頂けるとしても、糒が少しになってくると、流石に耀の心も焦って、まずいと思う気持ちに変わる。寺に居た時よりずっと距離を行くからお腹も減って、弁当のようなものを買う度に、銭が減って病んでいく。だからといって盗みをしようとは思わない”育ち”であるので、飢えを誤魔化し、誤魔化し進み、稼ぐ事は出来ないかと考える。
生憎、彼は師匠のように”そちらの才能”がある訳じゃない。寺に蔓延る穢れは視えたが、悪霊などが視えた事はない。先輩僧侶の春人(はるひと)は、彼方(あちら)が隠れる、と教えてくれたが、視えた所で修行も何も中途半端なままだから、何が出来る訳でもないし、そうしたご縁も来なかった。
こと、ご縁に関しては、瑞波が全力で守っていたと言っていい。ただ、瑞波はこの事を彼に教える事は無かったし、先の言と同様に『そちらには行きたくありません』。未来の伴侶との関係を構築する為に、今は深く問い詰めず、耀は言葉に従ったのだ。
霊障に悩む家でもあれば、師匠が書いた札がある。少しの銭を稼ぐ位は出来たのだろうけど、ご縁がないから持ち腐れであって、紙切れのまましまわれていた。
仕方ないので少年は、町から町へと移動する道すがら、農家の収穫の手伝いをして僅かばかりの礼を貰うという、危なっかしい生活を続けるしか他が無かった。
折しも時節は初秋である。どの地方も一年で最も富んでいて、一日の手伝いに子供一人を雇う位なら、と。訝しがられはしたものの、受け入れて貰う事が出来たのだ。
心に余裕があったのも有り難い事だけど、食事と僅かな収穫物で騙す事が出来る訳だ、耀もそこに付け込んだのでお互い様であり、食事払いの日雇いで纏まる話を知っていく。
それでも一箇所には留まれなかった。これも前述の通りである。体付きもしっかりしていて、利発で、顔の良い童子だが、一緒に過ごす時間が長いと、相手に疑念が生まれる所為だ。
その頃にはもう耀の方も、薄らと理解出来ていて、それが嫌悪に変わる前、この地を去ってしまおう、と。
夕方には籾殻(もみがら)付きの古米を少しだけ貰い、気の良い農家は他の野菜も分けてくれたりする訳で、夜のうちに移動しながら寝るのに安全な場所を見繕い、彼はずっと南の地方を目指して歩いて行った。
最悪、南の地方なら、冬になっても凍死はしない。食べ物も少しくらいは残っていると思ったし、山でも海でも魚を獲れば、生きられるような気がしたのである。出来ればそこへ行き着く前に、何処かで世話になりたいが。この体質では無理かも……と、理解し始めた彼だった。
耀は謙虚に逞しく、生きられる道を模索した。
瑞波は人間の生活に干渉出来ないが、少しでも彼が生きられるよう、人々が食べる山菜を眺めたようだ。荷物が多くて体が重いが、未来の伴侶の為である。特に、その生活に入る前、窶(やつ)れた姿を見ていた為に、人の子は食べ物が要る、と、強く意識に刻み込んだ。あれだけ焦がれた伴侶であり、もう”独り”は嫌なのだ。失ってなるものか、と、念も強くなっていた。
問題は山積みだけど、一番は衣食住なのである。
火は熾せるが山では目立ち、山賊を引き寄せる種にもなった。瑞波が警戒してくれるけど、熾すだけ熾した後に、そうした者の接近を知り、慌てて逃げる事も多かった。
いつしか、夕食は取れれば幸運、そんな雰囲気になっていき、悔しげにする瑞波を宥め、幾晩も過ごした耀である。まだ汗をかく季節であるので大きな河原で着物を洗い、水浴びをして体を清め、落ち着くように取りなした。
たった数日でも移動の距離はそこそこ稼げるものなので、晩秋に向かう最中(さなか)において気温が変わらぬ事を知り、段々暖かい地方へと移ってきたのを肌で感じた。
仕立ての良かった師匠の着物もあっという間に色褪せて、大きな屋敷や商家の家を叩く度、今度は都の落ちた貴族の子供と思われた。益々門前払いをされるようになるけれど、拾って貰えたら幸運、くらいの気持ちであったので、別段、気にする事もなく、更に南へ降りていく。
冷たいと思うかもしれないが、誰も面倒事には関わりたくないのである。これが現実、世の中で、そのくらい耀にも理解が出来る。
一方、新しい発見もあった。暖かい地方へ来ると、人々の性格も変わるようなのだ。活気に満ちていて、客気も少し、出る。美味い話、儲け話にも事欠かないようであり、同じだけ警戒心もあり、人情の質も異なってくる。
まだ細々とやれていたけど、それなりに疲労が出始めた。俺は冬を越せるだろうか、日々悩みが頭を掠めていく。耀は通り掛かった町で久しぶりに雲僧(うんそう)を見た時に、何気なく目で追ってしまって、振り向いた人と目が合った。
托鉢僧(たくはつそう)、虚無僧(こむそう)などと呼び方は異なるが、耀は師匠の雪久より”雲僧”という呼び名で習っている。空を漂う雲のように、どの組織にも属さずに、一人で修行を続ける僧を一纏めに呼ぶ名前である。
結局の所、そうした者も、何処かの寺院で修行を積んでいる場合が多く、そうでないなら風雅(ふうが)のように妖怪退治をする方だったり、と。
視えない世界に従事する者同士、通じるものがあったのかもしれない。
雲僧は大股で耀の元へと寄ってきた。僧侶と聞くには驚く程に、体格の良い男であった。
「小僧、腹でも空いたのか?」
声は深くて強かった。
男は耀を見下ろすと、付いて来い、と誘(いざな)った。