君と異界の空に落つ2 第64話
霊が視える視えないの差や状態の事を、蓋が開く、蓋を閉じる、等と表現する事がある。霊感の切り替え、つまり、視える視えないの調整を、そのように表現し、互いに理解を深めようとする気もあるか。
君は開きかけているようだから、視えずとも感じてしまうようだね、や、一旦閉じてあげたから暫くは変なものを視ずに済むだろう、等。視え過ぎて困っていた柳衣の”目”を、少しの間、閉じてくれた春人(はるひと)のように。能力が有る者はそうした事も出来るとみえて、蓋が開いた状態の、”感”の強い者の側に居ると、つられて開いてしまうものともされている。
そうか。よく考えたら栄次はずっと、神性の強い耀の側に居て、玖珠玻璃(くすはり)様を視ていたり、空音(うつね)様の神域に囚われていたりして。神使である眷属の自分の事を、自然に見聞きしてしまっても、おかしくない所に居るのかも知れない、と。丈弥(じょうや)は早足で家の方へと向かって行った。
一体、どの程度、開いてしまった状態なのか。耀にも報告しておかないとな、と、面倒見の良い彼は思う。神にだけ反応するなら、それはそれで良しかも知れない。しかし、大抵、それらは選べずに、才のある方向へ不意に開花したりする。つまり、霊感、悪霊を視る才能も、共に開いてしまったかも知れない懸念がある訳で……そうすると対処の仕方を教えてやらないと、栄次はこの先、無駄に人生を苦労する羽目になる。
苦労するだけで済むのなら良いけれど。
下手をしたら自分達のような修行をせねばならなくなるし、持ってしまった力の使い方を誤ると、返ってくる業が重たく、大変な事になる。それも運命と受け入れるなら「頑張れよ」で済むけれど……多分、違う、あいつは正道、正道を行く筈の人間で……いつか寺を訪れた都の貴族の男のように、不要だった筈の道筋に逸れてしまいそうになっているのなら、なるべく早く戻してやらねば……そんな気分になってくる。
戻れる所にあれば良いが……憂いた丈弥の視線の先に、家の戸口を開け放ち、乗り込んだらしい栄次の姿。落ち着け! と叫んだ耀の姿を覗き見て、丈弥は”ひょい”と片眉を上げていた。
そして悪いと思いつつ、口に手を添え笑ってしまう。
強すぎる力で開け放たれた戸は、中途半端な場所で止まっているし。養い親の善持(ぜんじ)さえ、引いた顔で見守るばかり。自分より体格の大きい耀を押し潰す勢いで、栄次は上に乗り上げて、ぎゅうぎゅうに抱きしめにいくのである。
吹いた。
隣の”瑞波様”の顔を見ても。
丈弥は申し訳無くも笑って、戸口に背を預けたか。
くそ。誰かに言いたいぞ。あの”耀”が押し倒されている。それも、全くその気の無い、無垢な”新しい友人”に。
これが”友情”……と思った丈弥は、自分の考えに二度、吹いた。
そうして”ふるふる”と肩を振るわせ、笑った分は働くか。
『栄次、瑞波様が嫉妬する』
さて聞こえるかどうなのか。
先のやり取りは”正”なのか、と眷属は聞いていく。
全くの第三者に声を掛けられた栄次はそこで、はた、と動きを止めてからそちらを向いたようである。
瑞波は羨ましさもあり怒りに震えていたが、丈弥にはっきり”嫉妬する”と指摘されると静かになった。え? と何処か喜んだ風の耀も反応して見えたので、耀の視線も向くと感じて瞬時に真顔になったのだ。
振り向いた耀に対すると、栄次の方が先に見た。それで、耀が振り向いた後、じわじわ照れていったので、栄次は急に空気を読んで、そっと離れてやったのだ。
聞こえてら、と腕組みをした戸口の丈弥の視線の先で、照れた瑞波と喜ぶ耀と、引いた善持に栄次に、と。
「神様も嫉妬するんだな」
素朴に呟く栄次を見ると、善持が「お前ぇ、何見てる……?」、そんな風に問うたのだ。
栄次は「神様。耀の神様。山の神様とは別の奴」。何の感慨も滲ませず、じんわりと返すので、善持も「へぁ!?」と驚きながら、見えるのか? と聞いたのだ。
「見える。凄ぇ綺麗な男。耀の事が好きなんだって」
「待て待て待て。何だって? 神様が憑いていなさる……?」
「そう。ずっと側に付いてる。俺ぁ男同士は分かんねぇけど、自分と関係無ぇなら良いんじゃねぇかと思って。家に帰って寝たらさぁ、女より綺麗な男って、実は凄ぇんじゃねぇかとも思ったんだよなぁ」
と。
気持ち悪いとか言ってごめん。栄次が素直に謝ったから。顔を赤らめていた瑞波はふっと彼の方を向いてきて、小声で『別に何とも思っておりません』と、居住まいを正して返すのだ。
一方、善持の方は”男神に好かれた養い子”、俺の息子は凄ぇ、と思って深くは考えないでいた。視えない善持には綺麗な男神、そも、神様とは綺麗なもので、栄次が言った言葉の意味を”おかしく”考え無かったからだ。
食べさせているものの、元々、歳の割には体の大きな耀である。力も申し分無くあって、剣術も習い始めた所である。都の方から流れてきたのも何か加護があっての事で、男神に守られている、と知ったら、成る程としか思わない。
きっと良い男になる。坊主にしておくには惜しい程。見える時点で拝み屋も出来るし、さえもそのつもりで育てているのだ。加えて神さんの加護まであるのなら、滅多な事にはならないだろう。「ヨウ、お前ぇも見えるのか?」と素朴に聞いた善持へと、耀は今更照れながら「視えます」と返すのだ。
「その神さんと一緒に来たのか」
感慨深く呟く善持だ。質問する体では無くて、断定した言い方だった。
「じゃあ、神さんのおかげで、お前ぇは生きて帰れたんだな」
と。
南無、南無、と呟くように耀の後ろを拝むので、ちょっと違うがまぁ良いか、と「はい」と返した耀だった。
「彼が居るから頑張れます」
「あぁ。良い関係なんだな」
と。目を細めて言った善持を、瑞波が”ちら”と眺めたか。
それから”じわじわ”と耀の言葉が効いてきたようで、袖で口元を押さえると、立ち上がって出ていった。きっと銀杏の木の下だ。好きな男の好意を知ると、むず痒い思いに駆られるらしく、ひとりで落ち着きを取り戻す為、彼は距離を取るのである。
耀と栄次の視線が神を追って行ったので、善持も男神がこの家の土間から出て行ったらしいという推測をする。それから栄次へ「飯は食ったか?」と寛大な様子を見せて、未だ、と返った言葉に頷き、彼にも飯を出したのだ。
「何だこれ……かかより美味ぇ……」
お前、いつもこんなに美味ぇの食ってんのかよ。ずりぃ、と呟くも、二杯、三杯とおかわりをして、しっかりと堪能していく栄次だった。善持も”美味い”と言われたら、当然、悪い気はしないもの。何だかんだと落ち着いた栄次を加え、三人で食べた昼食だ。
食後の茶まできっちり飲んで、耀を見倣い”ご馳走様”と、挨拶を覚えた栄次であった。念の為に「もう大丈夫なんだろう? また遊べるだろ? 走れるよな?」と。大事な事を確認してから寺を降りて仕事に戻る。
まだまだ暑い夏である。遊びたい事は沢山あった。クスの山で水浴びもしたいし、こっちの山の虫も獲りたい。もう神様が子供を取らないでくれるなら、探検したい場所が山ほどあって、この寺に泊まりに来てもみたいし……栄次がつらつら並べた事は、どれも微笑ましいものである。微笑ましくも男児らしくて、耀と善持は癒された。
集落一の聞かん坊と言われていても、中身はまだまだ子供のようだから。この際、神が視える事、霊まで視えるかも知れない事は、暫く横に置いておこう、と、丈弥も黙って見る程に。
修行をしなければ、大人になったら多少は鈍るし、それまで俺が見ていてやろうと考えた彼だった。どうにも出来なきゃ近くの神を頼るまで。瑞波様は無縁だろうが、此処には竜神様が居る。幼い神で無理だとしても、大婆様まで居るのである。
次第に恵まれ、整う様は、横で見ていても驚くが、それこそ耀の福徳と思えば、見習うべきかも知れない、と。彼が歩んだ綺麗な道を、苦労の多い綺麗な道を、思い返した丈弥であった。
集落の方でも昼飯の時間を迎えた気配が漂うと、耀が「いつでも誘いに来い」と笑うので、栄次は元気に「また来る!」と言い、喜び勇んで駆けて行った。その日のうちに耀の具合が知れ渡ったようであり、畑仕事を終えた総領が、夕方、彼を見舞いに来たか。善持は怒りを思い出した顔をしていたが、耀が老獪相手にも絶対下に出なかったので、取り成してやろうという気も起きず、寧ろ”もっとやれ”と態度に出した。
頼みの善持が集落の味方を全くしないので、総領は子供の言い分に耳を傾けねばならなくなった。耀が神と交渉する前に集落と交わした”約束”を、形ばかりでも成さなければと相手は思ったらしい。
到底信じられない話であるが、動かざるを得なかった。当日、居なくなっていた栄作の息子、栄次が語ったものもある。
あの日、居なくなった息子を知って、栄作の家では喧嘩が起きた。”かか”が「寺の子が贄になったと言ったじゃない!!」と、栄作に食って掛かったようなのだ。隣近所に響く程、罵声が闇夜に轟いた。爺さん婆さんが宥めたが、とても許せる話じゃ無かった。掟は何となく感じていても、隣村から来た女であるから、何処か自分には関係無い、我が子にも関係無い、と、思い込んでいた節があったのだ。
当事者になった時、初めて感じる絶望だ。育て難いし、煩い我が子。言う事なんか聞きやしない。居なくなっても構わない、と、日頃、感じていたとして、本当に居なくなった時、初めて気持ちを知るように。
手を離してはいけない子。間違い無くも自分の子供。他の子が行くと言ったじゃない! どうしてうちの子が取られるの!? と。
泣き崩れた女を見遣った集落の女達は、本当の意味で彼女の事を受け入れる。そうだ。この災禍を受けて、等しく不幸を負ってこそ、この集落の人間として、女として受け入れられる。
これで貴女も仲間よ、と、差し出された手は温かい。等しい不幸を背負った貴女は、私達の仲間よ、と。
泣き崩れて寝付いた”かか”を鎮痛な瞳で見下ろす”とと”は、夜中にこそりと帰宅した、息子を知って驚いた。暗闇に向かって礼を言うのがまず怖い。”見えない”丈弥が付いて来ていたのだが、当然、ととには見えないし、感じられないものだから。眠ぃ、と呟き兄妹の間に寝転ぶ栄次。栄作は朝が来るまで、一睡も出来ずに見つめていたか。
目覚めた”かか”は子供が一人増えているのを見遣ったが、痛む頭で記憶を辿り、二度見して叫んで起きた。
叫びながら我が子を抱いた。それで栄作も”本物”と知り、おっかなびっくり寄ったのだ。寝不足の栄次は不機嫌そうに「かか煩ぇ!」と返したが、その日ばかりは子の暴言も可愛いものと感じた人だ。栄次はぎゅうぎゅうに抱きしめてくる母を、鬱陶しいと思いつつ、二度寝に入る。二度寝から目覚めた後の集落のさざめきは、面倒臭い雰囲気で、かかより鬱陶しいと思った。
飯を食っている時に総領がやってきて、一体何が起きたのか、と栄次に聞いてくる。俺ぁ俺の代わりにヨウを神にやったのが、許せなかったから、ヨウを誘って集落を出て行こうと考えた。
正直に語る栄次は、大人の心を刺していく。
けれど、ヨウは「帰れ」と言った。神様と話し合うから、俺の事が”邪魔”だ、って。それで仕方なく帰ろうとしたけれど、俺もヨウも神様に捕まってしまって、と。身を乗り出した大人に対し、栄次は素朴に答えていった。山神様の社の中で化け物に追いかけられた、とか、話し合って終わりそうだったのに、ヨウが神様を斬る事になったんだ、とか。
いまいち要領を得ない部分もあったけど、善持が拾った養い子は、本当に神と相対したらしい。隣山の竜神様が助けに入ってくれたり、や、ヨウの中から出てきた男が、神様を叩き伏せてくれたんだ、等。最終的にあの童子は神の腹を掻っ捌き、今まで食べてきた子供の事を外へ出してくれたらしい。そして、何故か山神も、それに感謝したそうだ。
上手く行った、と締めくくる、栄次を恐々と見た人だ。
隣で話を聞いていた、栄作と妻と兄妹は、目の前で総領が強張った顔をしたのを見遣り、本当に上手く行ったのか? と念押しをして聞いていた。
「何だよ、信じねぇのかよ。そりゃそうだよな、俺の代わりに関係無ぇ奴、神様にくれてやろうとする奴だもな、あんたらは」
痛烈な皮肉を聞いて、黙った大人達。
戸口の外で聞いていた、他の大人も黙って見えた。
例え、栄次を生かす為でも、栄次本人は望んでいなかった。それを知ったから、お前の為に……! の言葉を飲んだのだ。集落の大人達には見知らぬ子供をやる方が、見知った子供をやるよりも、心が軽かったから。栄次の為と思いつつ、自分達の為にした事を、本人に突きつけられた気もしたか。
栄次の中では命は平等。子供だから。大人の気持ちを知らぬから。けれどそれは今までずっとこの集落が抱えてきた闇で、自分達の生活が、誰かを犠牲とする事で、成り立っていた事実をぽっと浮かび上がらせた瞬間だった。
犠牲になる奴が居て良い筈が無い。
栄次の皮肉はつまるところ、それである。如何に村一番の聞かん坊、手の掛かる問題児だとしても、この子供には”人としての正しさ”があって、実は誰より賢い子かも知れない、と。
正論を大人の汚い都合で捻じ曲げる事など簡単だ。ただ、この時は栄次の言葉が清い風を呼び込むように、聞いていた集落の大人達が抱えていた黒い心を、光刺すように縫い付けた。
彼が隠し持っていた神聖である。竜神に仕える為の、破魔の気だ。耀の中に眠ったままの破魔の気と呼応するように、乱暴さだけが現れていた、強い心の根源が、次なる聖格を現していくようだった。
その日、戻ると語ったヨウに会いに行った栄次である。ヨウが居ないと知った栄次が語った話を耳にして、善持は急いで栄次を伴い山を登った。共に社の前で眠りついたヨウを見つけると、目覚めない彼を背負ってゆっくりと降りてきた。
心配に心配を重ねた善持とは対照に、栄次はヨウを見守る瑞波と丈弥の落ち着きぶりを見て、あぁ、大丈夫なんだな、と察していたのだ。察していたものの、見舞いには毎日行った。早く目覚めて欲しかったし、早く一緒に遊びたかったから。
ヨウに剣術を習いたい。他の事も習いたい。聞きたい事も山程あるし、一緒に都にも行ってみたい。栄次にはこれからの予定が満載で、早く起きてくれねぇかなぁ、と、逸(はや)る気持ちだけ浮かんでみえた。
集落の大人達の視線など、どうでも良い。無言で自分を見つめてくる、”とと”も”かか”もどうでも良い。自分に遠慮してくる両親などは、気持ち悪いだけである。ヨウと共に寺の子になっても良いかなと、思い始めた頃だった。
集落の総領は、寺より戻り、各家の家長、男衆を集めると、寺の子が”上手くいったから”と、約束を果たす提案をした。裏山の山神は、元は良い女神であるらしい。この集落との約束で子供を飲み込む事になったが、そもそも、女神は子供など欲しく無かったそうである。頼まれたから受け取っていたまで。これから先は別のもので構わないそうなので、あの子供の言う通り、何か祭りのような事をして、食べ物か、女が好きそうな物を捧げる事にしようか、と。
男衆は総領にそうまで言わせた童子を思い、本当にそれで良いのか? と、疑問を持った顔をした。女ほど子供に興味の無い彼等であるが、親心くらいは持っている。自分の”かか”や嫁に行った自分の娘子が、悲しまずに済むと思えば尚良しで、本当に”物”で良いのか? と念押しをして聞いていく。そこで、寺の善持は料理を持っていくそうなので、そういうものでも構わぬらしい、と言ったのだ。
伝聞は家長から次々と伝えられた。翌日には集落の皆が知っている状態で、女達がこそこそと噂している様子も見えた。そこで浮いてしまった栄次の母親だ。初めはどうして入れて貰えないのかと、前日の”友人達”の態度と比べ、困惑をした。近所の婆様達も、彼女を見ると奥へ引っ込む。何か悪い事をしたかしら? と、栄作の母親へ問うけれど、少し痛ましい顔をして、彼女の事を見るばかり。余り気にしてはいけないよ、と言う、優しさのような残酷で、答えを貰えずに悩んだ一日だ。
耀の仕事は早かった。
目覚めた翌々日、穢れが増した体の扱い方を確認すると、師匠に貰った袖を着て、翡翠の数珠と寺を降りた。
懐には線香を。飲み込んだだけ使うと誓う。殆ど無くなってしまうだろうが、此処が使い所と思った顔だ。
奇しくも、盆を迎えようという時節であった。あの世とこの世の境界が、薄く、近くなる時期である。普段の朝のお勤めでは、使っていない”りん”だけど、その日は使い、お堂の菩薩に経をあげると、そのまま”りん”を鳴らしながら外へ出た。
この集落における、次なる仕事を始めるつもりだ。
供養を以て、この集落の、不幸と因縁を終わらせる。
善持が心配そうに見守る先で、耀は”りん”を響かせながら寺の坂を降りていく。