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短編小説 「灯台守」

 一つの船が着いた時、私は胸を高鳴らせ。
 降りてきた少年を見た時に、私の心は地に落ちた。

 見た目は多少は好みだった。性格までは分からない。
 村の取り決めで役目を負った。沖合の灯台守(とうだいもり)に。
 船着場に着いて、灯台へ足を踏み入れた時、降りてきた軽い足音がゆっくり止まった気がした。
 俺を見て困ったように微笑む女の目元には、小さな皺があり、今の俺の母親と同じくらいの年齢に見えていた。
 正直に言うのなら、心が萎えた。
 生涯、此処で暮らすのに、この女と二人きりなのだから。
 せめてもう少し若い女か、同じくらいの女が良かった、と。
 俺の気持ちを察したように、女は小さく後ろに戻る。
 疲れたでしょう? 部屋に案内しますね、と。
 自分が気持ちを出したのが悪いのだろうが、壁をつくられただけ、それはそれで面白くなく感じた。
 俺達の生活は、こうして始まった。

 少年……若い少年は、もう殆ど私と同じくらいの身長だったけど、目の力が強い、端正な人だった。
 私が生まれた村の男達とは、似ても似付かぬ雰囲気で、初めから自分の足で立ち、自分の目でものを見て、確かな判断をするような。
 荒々しいと言えばそうだが、動きには知性が見えた。
 良かった。若そうだけれど、賢そうな少年だ。私があれこれ世話を焼くより、教えたっきり、一人で何でもこなしてくれそうだ。
 互いの居室、共用の部屋。好きな事をして過ごして良い事。此処には何でもある事を。
 日の当たるテラスでは野菜を育てて良いし、物資は七日毎に船着場に届けられる事。私が教えられ、彼に伝えていく事は、その程度しか無いけれど、必要な事である。
 あとは極力関わらず、平穏に日々を過ごすだけ。
 読み通り彼は自分の事は何でも一人で出来た。私の手伝いは不要であって、教えていない事も自然と理解した。
 このくらいの年齢の時は、横から言われるのは嫌だっただろうか。
 そう理解したふりをして、関わる事を避けていた。
 灯台には大きな書庫があり、読みきれない程、量がある。男性が好むと書かれる、異国のボードゲームも多い。それぞれの部屋には広いテラスと浴槽があり、その日の気分に合わせてお湯でも水でも溜められる。
 村で生活するより余程恵まれた環境で、灯台守として選ばれた事、憐れんだ目で見送ってくれた人達へ、僅かに罪悪感が浮かぶ程。
 食べるものにも着るものにも過ごす事にも困らない、これ程、快適な場所なのだから。彼も一人で過ごす時間を充実させたまま、居てくれますように、触れ合わずに済みますように、なんて。
 私にも私の好みがあって、過ごす時間を充実させたまま、静かに逝きたい願いがあった。
 このまま心を揺らさぬように。
 期待していた何かを嘲笑い。
 彼の視界に入らぬように息を潜めて、若すぎる同居人と、そこそこ上手くやっていた。

 同じ灯台守の女は淡白な性格だった。
 村の女は、あれをやって、これをやって、だっただろうか。
 自分の母親でさえ、息子は只の労働力。
 好かれるからやっていたけれど……今回は途中で目が覚めた。
 初め、灯台守として選ばれた事を、よく分からないでいた自分だけれど、元恋人の”今”を見て、選ばれて良かった、と。
 あれだけ悲しんでくれた筈の姿はそこに無く、昔の友の子供を抱いて、幸せそうに笑っていたか。
 記憶の奥にちらつく影を、頭を振って追い出した。
 今は今。昔とは違う。せいぜい俺は灯台守として、沖合の灯台で、別の村の女と暮らせば良いだけだ。
 二度とも選ばれるとはと思ったが、それにしても、と少しは思う。
 折角話し相手が居るのに、女は部屋から殆ど出ない。
 食べ物にも着るものにも過ごす時間にも困らない、が、こんなものなのだろうか? と、灯台守の”仕事”を思う。
 仕事。
 仕事らしい仕事は無いが、此処に居るのが仕事のようなもの。
 こんなものなのだろうか。
 食事も作れる。掃除も出来る。書物を開けば文字も読め、困るような事が無い場所だ。
 俺は女に何か聞かねば出来ない事が無いのに気付く。
 だが、そうするともう駄目なのだ。接点を築く余地が無い。
 まぁ、それでも良いか、と初めは思う。
 年増を抱くのは嫌だな、と。不遜な事も考えた。
 だけど無いよりはマシだろうか、と、不遜な事も考える。
 どうしたって元恋人の瑞々しさを思うから、枯れ始めた女の具合を想像するのも億劫だった。
 ある時、俺は部屋の中に、隠し部屋があるのに気気付く。そこで歴代の灯台守の、日記のようなものを見つけた。
 他人の人生なんて普段は興味も無い。
 灯台守という人生だから、興味を持っただけ。
 他にやる事は無いのか。仕事は無いのか、と。余りに暇だから疑念を持っただけ。
 手にした俺は悔やむ程、甘い時間を見せつけられた。
 灯台守として同居人の女と歩んだ、甘芋のように甘い時間が、どの日記にも記されていた。
 俺は真面目にそれらを読んだ。雑音に思えるそれらの記しの中に、大事な仕事が隠れていたなら困るから。
 数日かけて読み終えた日記の趣旨は、どれも”恋人”との過ごし方。
 俺は部屋で頭を抱えた。
 くだらない内容に、時間を取られた事よりも悔しい事がある。
 何が悔しいかと言えば、それらを羨ましいと思えるくらいには、感化されてしまった自分が居た事だ。
 恋人との甘い時間……知っている。
 それをあの年増とやるのか……気が萎える。
 萎えるが、他に女が居ない。居ないのでは仕方ない。
 確かに悶々とする時期ではある。その割に余裕があるのは、もう少しだけ生きた記憶が自分の中にあるからだ。
 仕方ない。仕方ないだろう。だって他に女が居ない。
 皺が見える顔を無視すれば……体も……目を閉じさえすれば。
 何でも良いような気になった。
 そのくらい女には価値がある。
 俺は心を入れ替えて、彼女と接点を持とうと考えた。
 船着場に届けられてくる、食料を部屋の前まで運んだり。
 どんなものを作って食べているのか、教えを乞うふりをして、彼女の料理を強請ったり、共に作って欲しいと頼んだり。
 これなら自然と仲良くなれると考えていた俺だった。
 果たして……彼女の守りは堅かった。
 この俺が途方に暮れるくらいには。
 恋人として決めたからには誠実を貫いた俺だけど、恋人を得る前ならばそれなりに女には人気があった。二人きりで遊びに行くのは頻繁にしていたし、それだけ女に好まれそうな事柄を知っていたつもりがあった。
 時期を見て少し踏み込み、熱を見せれば、簡単に落とせた筈だ、案外、単純だから。
 けれど何も通用しない。それだけ女の守りが堅い。
 翌日、共用部屋のテーブルに置き手紙がされていて、大抵、聞いた事への返事はそこへ記されていた。
 聞いた料理の作り方。
 読みたい本がある場所や。
 食べたい野菜の育て方。
 暇な夜の過ごし方。
 会話を楽しむ余地も無く、ただ、気配は柔らかい。
 子供だと思われていると知った。
 そこまで子供じゃないけれど。
 なら、背を抜かせば良いのかと、俺は気長に時期を見る。
 どうせ死ぬまで二人きり。どこかで彼女も折れると考えた。
 ほんの少し、寂しそうにする彼女の面影が、気にならないかと言われれば、気にはなる。
 そうして時期を見た俺はその日、自然を装って、彼女を壁に押し付けた。
 ……そこまで絶望されるとは思わなかった。
 震えた肩も、指先も、血の気を失っていく唇も。
 気付かなかったふりをして、すぐに彼女に自由をやった。
 別に俺は悪者じゃない。
 悪者じゃないけれど……悪い事をしたのだろう。
 女に嫌われた事が無い俺は、それなりに傷付いた。
 嫌われたというよりは、恐れられたという風だ。
 そこまで猿じゃない。
 強姦なんて誰がするか。
 そう思い直したが、案外、気持ちは引き摺った。
 野蛮な男と思われたのだろう。
 それ以来、益々、彼女は、部屋から出て来なくなっていく。

 少年が段々と花開いていく過程を見遣る。
 私には関係ない。関係ないけど、少し眩しい。
 自分は枯れていくだけだから、そういう意味では羨ましい。
 もっと早くに出会えたら良かった……考える事さえ無意味だと思う。
 灯台守は仕事だから。貴方も私も”仕事だから”と。
 羨んでいる事を悟られないように、見ないように、忘れるように、距離を取って静かに過ごした。
 どうせ彼が来る前と同じ。一人きりでも困らない。
 一人で此処へ来て、前任者から話を聞いた。
 灯台守として、幸せに暮らす事。
 会った時には真っ白な頭をしていた男性だ。程なく何かが羽ばたく気配があって、彼が亡くなった事を悟ったか。
 いよいよ自分の番だ。どんなに素敵な人が来るのだろう。
 部屋に置かれた姉さん達の、日記の内容を思い出す。
 まだ会ってもいないのに、私は勝手に恋をした。
 恋焦がれ、恋焦がれ、待てども待てども相手は来ない。
 そういう時もあるのだろう、と、私は気長に待ち望む。
 大丈夫、君も幸せになる。前任者が語るから。
 女としての旬を過ぎ、流石に焦ってきた頃だ。
 それでもきっと素敵な人が来てくれると思い込んだ。
 どの日記にも自分の好みの人が……と。容姿や性格、そうした諸々。
 本当に好みの人がやってきた、と、あったから。
 遠くから近付いてくる一隻の船の上、人影を見つけた時に、私の胸は高鳴った。あぁ、ついに、ついに恋人が……遅いじゃない、待ったわよ、と。
 船から降りた少年を見て、私の足は自然と止まる。
 確かに、確かにそれは、私の”好み”だったのだろう。
 若い時ならいざ知らず、こんなに歳を取ってから。
 瑞々しい肌をした少年の顔を見て、私の心は一気に降下した。
 方や、目元に皺が刻まれ始めた年齢だ。
 相手はどうだろう。十五か十六か。
 どう見てもそこらに思えて、気持ちが落ちる。
 きっと彼も思うのだろう。俺の相手は年増か、と。
 がっかりされるのが怖くなり、急に手先が冷えていく。
 甘えられる訳がない。姉さん達のように。甘えて、この少年に、身を預けられる訳がない。
 灯台に迎え入れ、男部屋へ案内すると、多分、同じなのだろう、部屋の間取りを教えてあげた。
 此処では何不自由なく暮らせる事。
 互いの部屋にだけ、出入りが出来ない事を。
 扉一つの幅で隔てて、見えない壁があるようだ。
 最後の砦なのだろう。誰の慈悲かは分からない。
 昔は”どうして?”と思っていたけど、逃げ込める部屋は必要だ。
 そこは追われずに済む領域だ。私には必要なものだから。
 だから、慈悲。
 心から、慈悲と思えた。
 嫌なら……気まずいのなら……部屋に篭ってしまえば良い。
 そうして私は慈悲に甘えて、極力、関わらないようにした。
 関係が浅ければ、万に一つの間違いを、犯さずに済みそうだ、と考えたから。
 男盛りになる程に、触れ合いたそうにする、彼の態度や眼差しにも気付かないふりをした。
 それは誰でも良いもので、私じゃなくてもいいものだから。
 此処には私しかいないから、妥協という類のものだ。
 若い頃に恋焦がれた素敵な男性がそこには居るが、相手の気持ちは私のものとは全くの別物で、自分だけ恋心を晒すのは恥ずかしい事である。
 村でも歳の離れすぎた夫婦は歓迎された事がなく、恥ずべきものとされていた。単純に夫婦の見栄えが悪いからだと思っていたが、いざ当人になってみると、これは確かに恥ずかしい。
 せめて冷静な自分を保ちたいのだ。恥ずかしい人間にはなりたくない。
 妥協を愛と勘違いするような、恥ずかしい女には、なりたくないというだけの、小さな自尊心。
 目の前の素敵な男は作り話か幻想だ。
 私が触れていいものじゃない、と目を伏せた。
 その頃にはもう何度も枕を濡らした後で、どうして若い男なのか、若くなければ良かったのに、と。同じくらいなら良かったという、鈍い痛みを去なすだけ。
 姉さん達がしたように、甘えてみたかっただけなのだ。村では溢(あぶ)れてしまった私だったから、日記を読んで期待した。
 期待はしない方が良いものだ、と、学んだだけ良しとしようか。そうして上辺だけの関係のまま、終われる事を願っていた。
 上辺の関係は上々だった。
 少なくとも私はそのように感じていたと思う。
 早くこの時が過ぎ去るように願いに願ったせいかもしれない。
 私たちはあっという間に歳をとり、いつしか触れたそうな目で見られる事もなくなった。
 目元の皺は益々増えて、口周りも深くなってきた頃か。彼は端正なままだったけど、私はすっかり衰えていた。
 至極冷静に考えて……触れたいと思われる”範囲”を超えたかな、と。
 何もかもを諦めた後、緩やかに枯れていった私は、思ったよりも心が元気になってきた事に気付き始めた。
 安心した事が大きかったのだろう、醜態を晒す危機が去ったから。
 部屋の外に出る事が多くなり、好きな場所で好きに過ごしたか。
 私には彼が来る前に、気に入っていた場所が沢山あった。
 例えば、星空が見える小さな露台。花々が咲く小さな庭を、見下ろせる書庫の端。夕日が沈む水平線を一望できる倉庫裏。
 万人に好かれるような場所ではないものの、心落ち着く場所として、好いていたのはそういう所。
 若い頃は景色を眺めて寂しさを慰めたものだけど、落ち着いた晩年は純粋な美しさに見惚れていたか。
 それなりに寂しかったけど、悲しい事も無くはないけれど、悪くない人生だったと思える風景だ。
 彼の事は何とも言えない。
 お互い、残念だったかもしれないね、か。
 偶然、居合わせる事はあっても、互いに譲り合っていた感覚だ。他にも過ごせる場所はあるから、そこに拘る理由もない。
 一緒に居る理由もない。
 何も無い人生だった。
 何も無いと言うにはあれで、私は”綺麗な人生だった”と書き換えた。
 安堵しきった私に対して、彼は少し違ったみたいだ。
 態度が柔和になったと感じたようで、関係を持つ余地が生まれたと解釈したらしい。
 生憎、私は考え方が逆だったから……
 何の前触れもなく、力を見せつけられた時、思いの外、震えてしまって、酷い動揺を見せてしまった。
 目の前が真っ暗になるというのは、きっと、あぁいう事を言うのだろう。
 幸いだったのは、彼が良い人だった事。
 違う、喜んでいる反応じゃない、と気付いてくれて、気まずそうに離れてくれた。
 謝罪もしてくれた。
 謝られたら、涙が溢れた。
 見ないようにしていたもの、忘れたつもりになっていたものを、目の前に引きづり出されて、照らし出されたような気がして……
 謝らせたい訳じゃなかった。
 謝りたいのは私の方だ。
 よろよろと部屋へ戻って、もう、出る事は無くなった。
 あまりお腹も空かなくて、食料が届く日になったとしても、食べなくてもいいやと思って動かない。
 動けなかった。
 食べずとも体は大丈夫なようであり、致し方なく出ようと思えば、自分の分の配給がドアの側に置いてある。
 謝罪のつもりなのだろう。彼が運んでくれたと感じられた。女用の部屋は、男用の部屋の一階、上だ。それなりに重いものを運んでくれた訳で、有り難かったけど、お礼を伝える気にはならない。
 顔をあわせる気にもならない。嫌いになった訳じゃない。
 ただ、申し訳なかっただけだ。彼と同じ。罪悪感で。
 罪悪感で押しつぶされそうな心のままに、私はその日が来るまでを、部屋の中で静かに過ごした。
 その日、長年抱えた罪が、許されたような気がして起き上がる。
 日が登った爽やかな朝。水平線の色は白だ。
 青い空気が漂う中を、窓際に向かって歩み進んだ。
 白いレースの薄布が、風を受けて棚引いた。
 若い頃に暇をして、自分で縫った手作りだ。
 あれが欲しいと思ったら、配給に混ざって届けられる。初めは不思議と思ったものも、そういうものだと受け入れた。
 広い窓から入り込む、風は冷たく、心地良かった。
 登った日は美しく、白に黄色が混ざった色だ。
 あぁ、やっと解放される……
 踏み出した足の先から体が軽くなるように、私は窓の先へと進み出る。
 多幸感に包まれた。
 長く待ち望んだ”幸せ”だ。
 私は”飛び立った”のだろう。そこから先の記憶は無い。
 灯台守とはそういうものだ。
 彼は……気付いてくれただろうか。
 私も貴方も”はずれ”だったけど、次は幸せになれますように。
 意識も何もかもを放り出し、私は軽やかに舞ったのだろう。
 次は幸せになれますように。
 貴方が幸せでありますように。

 早朝、胸騒ぎを覚え、俺は寝台から体を起こした。
 歳を取った体は正直で、思うように動かなくなっていた。
 それを思い切り動かして、止まらない動悸を思う。
 待て。行くな。まだ何も伝えていない、と。
 何故そう思ったか。
 涙が止まらない……止まらない……
 冷静な頭のまま、涙腺だけが壊れたようだ。
 飛び立った、逝ってしまった、と脳裏に浮かぶ。
 女の部屋の前まで駆けた。
 治らない呼吸を無視して。
 おい! と声を掛けてみるが、応える声は矢張り、無い。
 互いの名前も知らないままに、関係は終わってしまった。
 関係すら持てなかった。
 俺たちの共同生活は”終わり”である。
 涙が止まらなかった。虚無が心を侵していく。
 彼女は蝶になった。蝶になって飛び立った。
 青白い蝶だった。光の中、ささやかに、輝いているような蝶だった。
 俺は見てもいないのに、それを知ったような気がする。
 虚無に続く脱力に、幾日、ぼんやりしていたか。
 人の気配が無くなった灯台に、ある時、小さなノックが響いた。
 ごめんくださ〜い、と間延びした、若い女の声である。
 俺は驚き、出迎えた。
 皺が目立つ自分の手、ドアを押し開ける老人は、困惑した表情で若い女を出迎えた。
 一昔前ならば、喜んだだろう美少女だ。
 だが、もう何の感情も浮かばぬ程に、体も心も老いていた。
 何なら、戻らない過去を美化するように、彼女の方が美しかった、と考えた頭である。
 柔和な顔を取り繕うと、若い女も安堵したようだ。何かする事はありますか? と、それらしい疑問を口にした。
 昔の自分が重なった。
 此処での”仕事”は何だろう? と。
 特に無い、と俺は答えた。好きに過ごせば良いだけだ、と。きっとそのうち、あんたの”恋人”が、此処にやってくるだろうから。
 聞いた女は呆けた顔をした。
 その仕草が幼く思え、思わず微笑が浮かぶほど。
 もう何年も笑っていないが、笑いながら俺は気が付いた。
 そうして、やっと灯台守の仕事に気付くのだ。
 若い女へ灯台内の部屋のつくりを教えてやって、共用になる部分、互いの部屋へは入れない事、配給の周期を教えてやった。
 いまいち理解しない顔をして女部屋へ消えた女だが、翌日、興奮した顔をして、俺が部屋を出るのを待っていたようである。
 駆け寄られた経験のない俺は、たじろいだ。
 たじろぎながら、女の話を聞いた。
 曰く、女部屋の方に、先代の灯台守達の日記があったらしい。
 日記、と聞いて懐かしい記憶が浮かぶ。
 そうだ。そういえば俺も、先代の日記をたくさん読んだ。
 羨ましいより妬ましいほどの、幸せの記録である。
 俺は手に入れられなかったけれど。
 女の隣で苦笑が浮かぶ。
 そんな俺をどう見たか。女の目が輝いた。
 全身で”羨ましい”を表現した顔だった。
 私もあなた方のような幸せな時間を過ごしたい、と。
 要約すると、そんな話のようだった。
 頼んでもいないのに、女は”夢”を語り始めた。
 私もあなた方のように、甘い時間を過ごしたい。
 晴れた日の夜は露台に座り、共に星空を見上げたい。橙に染まる海を眺めて、優しい言葉で語らいたい。雨の日は書庫の窓から見える花を愛で、体が冷えていたのなら寄り添って温めあいたい、と。
 どれも身に覚えのない事で、開き掛けた口が閉じる。
 女は尚も夢を語った。いかに俺が理想の男だったかを。
 誰から見た俺が”そう”だったのか。
 彼女は”何”を日記に書いたのか。
 語り終えた女へと、俺は恐る恐る聞いた。
 他にも日記はあるのか? それは誰が書いたものなのか。
 女の目は輝いたまま、皆の日記がある、と言う。
 男側もそうなのだ。どうして俺は気付かなかったのだろう。無い訳がないという事に。
 黙った俺を見上げた女は、何かを伝えなければと思ったらしい。
 素敵な恋物語でした。先代の灯台守は、十数年程待ったらしい。待って、待って、恋焦がれ、理想通りの方がやってきた、と。
 書き始めがそれだったらしい。
 頭を殴られた気分になった。
 一度も寄り添う事なく終わった、俺たちの”理想の”一生だ。
 彼女は先代達の日記を真似て、なんて残酷なものを書いたのか。それが心からの夢だったなら、どうして歩み寄ってくれなかったのか。
 たった十数歳差、気にする事はあったのだろうか、と。
 あったのだろう。
 だから、一度も触れる事を許さなかった。
 許さなかったくせに、幸せそうな日記を書いた。
 負けたくなかったからだろうか。
 それとも、夢を壊したくなかったから、か。
 後代達に。
 後代達に、此処で生きる事に不幸はなかった、と。
 彼女が淡白だったのは、俺と仲良くしたくなかったからだ。
 間違いない、と思ったら、涙が溢れそうになる。
 決して、嫌な女じゃなかった。
 控え目で静かな女である。
 控え目過ぎて俺を無視した。無視しなきゃ辛かったからだと思う。
 日記の内容にある程度、簡単に実現してやれた。
 でも、若い俺とじゃ嫌だったのだろう。困ったように微笑んだ女の目元の皺が、急に思い出されて苦しくなった。
 俺は態度に出したのだろう。何度も心で思った事だ。なんだ。外れか。俺の相手は年増か、と。
 懺悔しかなかった気がする。俺は女に暇を乞うた。
 女は何と思ったのだろう。幸せな記憶を抉った、と……?
 違う。そんなんじゃないんだ、と。俺は心で女にも詫びた。
 あまりにも傲慢で、残酷だった俺の態度。
 年増と残念がったくせに、他に居ないんじゃ、と妥協した。
 彼女は共に星空を見上げ、夕陽を見下ろし、花を愛でたかっただけ。肌寒くなったなら、温めあいたかっただけである。
 それもきっと毛布を被り、ホットミルクを飲みながら。単に身を寄せ合いたかっただけで、男女のそれも望まなかったはず。
 何も知らない彼女はそのまま、綺麗なままで逝ったのだろう。
 自分が想像できるだけの、”幸せな男女像”を綴った後に。
 実際は何も無かった。何も無かったんだ。すまない……と。
 ひとしきり泣いた後、冷静になった頭に”それ”が浮かんだ。

 俺が生まれた村には灯台守の役目があった。
 役目に選ばれるのは、二十前の男である。
 一度目、俺はそれに選ばれた。
 その時の俺には恋人が居た。
 美しい女である。村一番の美人だった。
 俺も相応に女には人気があったから、ある意味、似合いの夫婦とみなされていた。
 それが、役目に選ばれた事で大きく狂う。
 月の夜、選ばれた男は灯台があると言われる沖を目指し、一隻の船を出し村を去る。
 取り決めには従うが、舞い戻ろうと思った俺だ。
 辿り着けなかったとなれば、選び直されると考えた。
 占いババに花を掛けられ、祝い酒を飲まされる。灯台守に選ばれるのは名誉な事だから。
 似合いの恋人を引き裂く奴が何を言う、と俺は思った。
 何が名誉な事なのか。恋人の居ない男を選べよ、と。
 俺は自分の恋人に、耳打ちをして想いを伝えた。きっと舞い戻るから、ちゃんと添い遂げよう、と伝えた。
 夜、沖に向かった船でも、泳ぎ慣れた海岸だ。
 砂浜が見えなくなった距離でも、俺なら勘で泳ぎ戻れる。
 体力にも自信があった。程よい距離で、船から降りた俺だった。
 霧が立ち込め始めた海を、岸に向かって泳ぎ出す。
 夜のうちに戻ったのでは多少は”ばつ”が悪い。だから裏の岸で一晩、過ごしてから朝に戻ろう、と。
 記憶は此処までだ。
 次に目を覚ましたら同じ村。
 無事に戻って来られたらしい。安堵した掌は小さく見えた。
 驚いて飛び起きる。寄ってきた女は”恋人”だった。
 昨日の今日でいささか老けた。
 それにしても老け過ぎだ。
 どうしたのか……と黙った俺を、後ろから抱いた腕……
 俺は元恋人と、元友人の”子供”として、同じ村で二度目を生きるらしい。
 そのまま育った俺は二度目の灯台守になる。
 結局、役目からは逃げきれないのかと、絶望まではいかないが、がっかりしたような記憶があった。
 割とすぐに順応できたのは、”両親”が仲睦まじかったから。
 嫉妬するより何よりも、呆れた気持ちが前に出た。
 貴方の帰りを待ちます、と、殊勝な事を言っていた。
 嘘つき……とも思ったが、死んだ俺が悪いのだろう。
 恋人を失った彼女の事を、”父親”は気長に慰めた。
 おかげで彼女は落ち込んだ気を持ち直し、以来、ずっと仲の良い夫婦なのだよ、と。昔の友人達が”馴れ初め”という体で、”息子”の俺に囁いた。
 恋人だった女は別の男のものになり、友人だった彼らとは友人には戻れない。同じ年代の子供らと話が合う訳もなく、俺は虚無が広がる心を持て余しながら生きていた。
 ある時、占いババが俺を灯台守に指定した。
 救いだったかもしれない。今ならそう思う。
 村にはもう未練が無かった。他の村の女ってどんなだろう? と。
 知り尽くした場所よりも、知らない場所の方がそそられた。
 一度目と同じ、花を掛けられ、祝い酒を飲まされて船に乗る。
 違うのは降りなかった事。
 その日も月が綺麗な夜で、そのうち霧が漂った。
 どれだけ潮に流されたのか、沖を漂った感覚だ。
 眠くなって一眠り。目が覚めたら灯台だった。
 白い壁。岩礁の上に。随分立派な建物だ。
 此処で冒頭の出会いに戻る。
 正直に厭った”俺”が居た。

 待て。

 と、鳥肌が急に立つ。
 疑問を感じた俺は、疑問に対する回答が、自分のせい、であるのに気付く。
 彼女が待たされる事になったのは、俺が拒否したせいでは……? と。
 自信のあった遠泳を、失敗したのは何故だろう。
 嵐でもない凪いだ海。溺れる方が難しい。
 占いババに掛けられた花の呪いか? 馬鹿な、と思う。
 酒だ。酒のせいだと思う。
 酒のせいで俺は溺れて、多分、海に消えたのだ。
 記憶が無くてもそういう事だ。
 灯台守は役目である。役目は仕事……仕事なのだ。
 年数を数えてみる。
 女は十数年と伝えたが、多分、ぴたりと合うのだろう。
 ぞわり、と、再び悪寒が襲う。
 待っていたんだ……彼女はずっと……俺が一度死んだから……

 登ってきたのは冷たいものだ。
 覆い被さる罪悪感。
 待たせた俺は何て思った?
 年増と暮らすのは嫌だな、と……
 若かったんだ、と釈明をする。
 自分が待たせたせいなのに。
 そんなつもりは無かった……と、顔を覆って懺悔する。
 彼女を控え目と表現しても、裏では卑屈と思ったものだ。
 男女の関係なんてそんなもの。砂浜に引いた線と同じだ。
 ほんの少しの勇気があれば簡単に進めるもので、そこまで勿体ぶるような事じゃない。
 経験が多い俺は単純に考えた。彼女にはそう思えなかった。ただそれだけの事なのに。
 若い女は俺が犯した罪を、洗いざらい引き出した。
 彼女に対して思った事を……酷い考えを浮き彫りに……
 彼女に対してしてきた事を……酷な行いを知らしめて……
 そんなつもりは無かった……と後悔しても、ただ綺麗に去った姿だけ、脳裏に焼きついた。
 親しくなれなかった事を、彼女のせいにした。
 彼女だけは最後まで、あんなに綺麗だったのに。

 その日、私は自分の部屋で、男が去った事を知る。
 ふと頭の後ろの方に、黒い蝶が飛び立つ絵が浮かんだからだ。
 私が此処へきて、日記の話をした後に、男は酷く狼狽し、部屋に篭りきりになっていた。
 悪い事をしたのかも、と、何度か謝罪に出向いたか。
 その度に男は弱々しい声で、君のせいじゃない、俺のせいだから。気にするな、君のせいじゃない、と呟いた。
 初めに教えて貰った配給が届く前。男はひっそり自分の部屋で、あの世へ渡ったのだろうと思う。
 此処は不思議な場所である。
 あの世へ渡る手前の”家”だ。
 私は”死んだ”と思って此処へきたけど、まるで生きているかのように生活をする。
 死人に配給とは如何に、と思ったけれど、まるで生きているかのように存在する事が、大切なのかと思うに至る。
 先代の男が逝った事で、次代の男が来るのだろう。
 先代の灯台守たちが、日記に記した恋物語。
 ただの人柱だと思っていたのに、これほど恵まれたものはあるのだろうか、と。
 素敵な男が来るらしい。
 多分、相思相愛になる相手。
 私も早く恋がしたい。不謹慎だけど、そう思う。
 今日も穏やかな波を見つめて、恋人が来るのを待とうと思う。
 先代たちが辿った通り。幸せな”一生”を過ごすのだ────。




 村の占いオババが言った。
 今代の灯台守はあんただよ、と。
 年頃の女の中で、村の男にあぶれた女。
 そんな予感がしていたから、頷く私は盃を受けた。
 皆、何を言われずとも、予感を胸に策を巡らす。
 自分が灯台守として選ばれたくないからだ。
 結婚する年頃になるまでに、相手がいないと選ばれる。
 だから、女は必死になって、相手を得ようと努力する。
 どうせそのまま番になるなら、少しでも良い男が良い。
 良い男が無理ならば、そこそこの男で我慢もするが……
 結局、灯台守という、人柱にはなりたくない訳で、我慢と言いつつ内心は、男に感謝するものだ。
 選ばれた私を見下げつつ、同時に安堵する。
 貴方が選んでくれて良かった、と。案外、村の大人達は、仲睦まじく暮らすのだ。
 娘を失う両親だけど、特別怒ったりなどしない。
 お前が伴侶を得られない、残念な女だったから仕方ない、だ。
 子供の頃から薄々と感じていた疎外感。
 同年代の女達に、とうに生贄として選ばれていた私である。
 他の女は協力をして、私だけが残るように、上手に画策していった。
 本来、それから抜け出すように、振る舞うべきの自分なのだろう。
 でも、私はそれで良かった。
 好みの男がいなかったから。
 誰かを陥れてまでも、居残りたいと思えない。
 村の残酷な女達にも愛想が尽きていた。
 娘が悪いと見下してくる、両親にも辟易だ。
 私は盃を受けた後、船に乗せられ流された。
 オババの仕事に興味があった私は、毒が混ぜられているのを知っていた。
 酒の味で誤魔化されるが、舌に僅かに刺激が残る。
 そのうち意識を失って、海原に葬られる私である。
 死までの恐怖がないのはありがたい。
 そのまま迷わず逝けたら良い。
 だから、眠りから醒めて目の前に、灯台が現れた時には驚いた。
 本当に”灯台守”の仕事があったのか、と。
 程なく出迎えに降りた男は、村では見かける事の無い、どこか異国の雰囲気漂う、素敵な男性なのだった。

 目をまんまるに見開いた、女の面影を愛しく思う。
 三度目の灯台守。俺は死ぬ間際、切に願った。
 もう一度彼女に会いたい、と。
 会って、今までの分も愛したい。
 懺悔であり、贖罪であり、自分の願い、欲もある。
 どうして愛しい女を前に、酷い態度が取れるのだろう。
 慎重に、慎重に、彼女との距離を詰めていく。
 硬い表情が徐々に綻び、微笑に変わり、笑顔に変わる。
 ついぞ目にした事の無い、無垢な彼女の美しさ。
 微笑み返してくれる顔。声も言葉も美しい。
 本当はこんな女性なのだと心に刻む。
 どうして俺はこの人の、笑顔を奪ってしまったのだろう。
 星の降る夜は露台に誘い、空が白み始めるまで語らった。
 夕日の綺麗な水平線を、共にまんじりと眺めやる。
 雨が降ったら書庫へ行き、互いに好きな本を読む。雲が切れてきた頃に、外に誘って虹を見た。
 奥行きのある夏の空。綺麗ね、と彼女は言った。
 俺たちは灯台守として、残りの時間も共に歩んだ。
 初めは穏やかに抱き合って、激しい夜も過ごしたか。
 明るい部屋で照れくさそうに顔を背けた彼女の事が、昨日の事のように思い出された。
 互いに髪が白くなり、寄り添うだけの歳になった時、いつもの露台に誘われた俺は、彼女と語らい夜を明かした。
 一枚の薄いタオルに包まれて、肩を寄せ合い朝日を見やる。
 幸せだった、と、彼女が言った。
 幸せだよ、と、俺が言う。
 うぅん、そうじゃないの、幸せだったの、ありがとう、と。
 こちらを見上げて微笑む彼女は、微笑んだまま蝶に変わる。
 はっとする間に舞い上がり、空に消えた蝶だった。
 今度は涙は溢れなかった。
 俺にはもう一仕事、残っていたからだ。
 ゆっくりと腰を持ち上げ、なんともあっけない最後を思う。
 だけど今回は幸せだった。
 そう思えるだけの時間があったから。

 いずれ後代の灯台守が来るはずだ。
 今度は穏やかな心で伝えてやれる。
 前回は彼女が俺を待っただけ、俺は一人で過ごしたが、今回はすぐに次が来て、その早さにも驚いた。
 知らぬ間に俺は自分の罪を、償っていたのかもしれなかった。
 真っ暗な日々を過ごす中、気づく事がなかっただけで。
 後代の女はまた、若々しい顔で俺を見る。
 出迎えた老人に、困惑した顔も垣間見えたか。
 此処での生活を教えてやって、すぐに次の男が来るのを教えてやった。
 来るのが遅ければ叱ってやりなさい、と。余計な世話も焼いてやる。
 そうして数日後、女の気持ちが整ったのだろう。
 そろそろ逝くか、という気になって、俺は静かに目を閉じた。
 彼女がどこへ行ったかはしれないが、そのうちどこかで会う事もあろうと思う。
 ただ、灯台守として、共に過ごした日々に感謝する。
 貴女が幸せであるように。

 黒い蝶が、飛び立った────。


短編小説「灯台守」fin.

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ちかい
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