君と異界の空に落つ2 第28話
翌日はよく晴れていた。朝から頼み事をした耀だ。そうしたものが視えると知れたから、少しは頼み易くなっていた。この間、沢蟹を獲りに行った山の神様が、会いに来いとおっしゃるのですが、これから行っても良いですか? と。
駄目だと言われたらそれまでだけど、善持は思った通り、簡単に「行ってこい」と言うのでお礼だけ返した耀だ。そういうのは何か? 文でも届くのか? と、不思議そうにされたので「会いにいらっしゃったのです」と返すだけ。
「水の神様なので、川伝いに」
「そりゃあ便利だな。……あそこ、神さんが居たのか」
「善持さんも会っていますよ。蟹を獲りに行った時に。火を起こされては困ると言われて帰ってきましたね」
「へぇ!? いや、あれはその辺の子供だろう」
神様ですよ、と伝えても、はっきりと見えたもの、善持は信じてくれないようで、諦めた耀だった。
それでも「供物は要るか?」と、神様の部分には敬意を払う。では昨日の残りの団子を……と耀が言えば、少し待っていろと言って、残してあった白い餅に、醤油の”あん”を絡めてくれた。
「あ……すごい、醤油団子だ」
「粉の方も持っていけ」
こうして耀は”きなこ”の団子と、醤油の団子を持って出た。
竹の皮で別々に包んだものから、それぞれの香りが立ってくる。きなこも醤油も竹の皮の香りも良いのである。
背中に籠を背負い、蟹を獲ってくる訳ではないので、魚籠(びく)も持たずに身軽な出で立ちだった。耀が門を潜り、坂道を降りていくと、前に寺を出た時よりも辺りが緑に染まって見えて、見事なものだなぁ、と心が豊かになっていく。田畑を除く一面が、若い緑に染め上げられて、新しい命の始まりを感じさせてくれるのだ。
気が早い桜など、梅が咲くうちに花をつけ、衣裳自慢をするように互いに競い合う。目白の緑が見えたと思えば、ふっくらとした鵯(ひよどり)も居て、山と畑の境目でケーンと鳴いている、頭の派手な雉(きじ)も居る。よく見れば雌雄のようで、成る程、世は春盛り。美神を”つまみ”に酒でも……と、思って自分の歳を知る。
まぁ、まだ暫くは子供をやらねばならぬから。身長も欲しいしな……と、後ろに控える瑞波を見遣る。瑞波もそれなりに背が高いから、耀はもっと頑張らなければ様にならない。そんな瑞波は朝から機嫌が良いようで、微笑も付いていると思えば、いつにも増して美しかった。夜は薄く光っているが、明るい場所で見る彼も、仄かに光って見えて美しい。
瑞波がにこにこしていると、耀も嬉しくなっていく。日柄が良い、と思って進むが心地が良いのは其処までだ。畑仕事をしている集落の人達が見えてきて、その横を通っているうちに段々と視線が痛くなり、耀は何となく……何処か気まずくなっていく。
一応、仕事の邪魔をしては悪いし、視線が合った人とだけ、黙礼をして進んだ耀だ。中には子供の姿も見えるか。
視線を合わせてくれる人はまだ良い方で、嫌な気持ちにされられるのは、挨拶をしようとすると逃げる人。じろじろと見ていたくせに、知らぬ存ぜぬを滲ませる。まぁ、そういう人は何処にでも居る訳で、耀乃(あけの)として生きていた時も、よく居た、という感覚だ。
耀は気まずいとは思いつつ、付き合わなくていい態度なら、自分もその通り返すだけ。付き合いとは多ければ多いほど大変で、全てが良いものではないし、足枷になるだけだから。縁が移るというように、相手が悪縁塗(まみ)れなら、それが自分にも移ってくるので案外と大変だ。
樹貴(たつき)が燈佳(とうか)と他の男の”繋がり”を見ていたように、男女のそれは友縁よりも太い糸。良いも悪いも互いに分け合って、五分(ごぶ)と成すのが”交わり”である。
坊主は好かれない”良い例”として、享受しようと思った耀だった。皆が仕事をしている時に、遊び歩いているのも頭に来るだろう。気まずいけれど仕方ない。仕事の種類が違うだけだが、骸を埋めるだけと思われている坊主である。こちら側を理解しては貰えないだろうから、厭われて距離を置かれるくらいが良いのだろう。
これが正しい距離なのだ。
そう思えば嫌な視線も、どうでも良いような気になった。
集落の田畑を抜ければ玖珠玻璃の居る山の入り口だ。広く浅い清水が流れ、集落の中を通って他所へ行く。寺の中を横切る川と下流で交わると、海原へ向けて流れていく川である。
山道には草が生え、小さな虫も増えただろうか。山の獣は瑞波の圧で逃げて行ったのだろうと思う。浄提寺から此処に来るまでに蛇にも出会わなかったから、その時と同様に、足元の心配をせず進む。
耀が鳥の囀(さえず)りを好む為、そちらには威嚇をしていない彼である。玖珠玻璃が語った通り、賑やかしくなった山の中を、楽しみながら登った耀だ。爛漫には足りないが、花をつける草木も多く、良い香りも漂ってきて贅沢だ。
日頃、見回りをしているらしい玖珠玻璃だから、湧水の所には居ないかも知れないな、と。木々の間に目をやりながら登った耀だった。
沢が段々細くなり、浅く滲むだけになると、玖珠玻璃と出会った沢蟹が獲れる場所になる。気配が無いようなので背中の籠を横に下ろして、水を掬って飲んで待つ。ききりと冷えた清水が喉を通り過ぎていき、上がった息と体温が癒された。
癖も無く、澄み渡る、美味い水。思った通り美味しい、と味わう所へと、木の陰から物言いたげな童子の視線が向かう。
『吃驚した。お早う、玖珠』
そんな所に居ないでこっちにおいでよ、と。
『今、お水を頂いたんだけど、やっぱり美味しいね。すっきりとした飲み口で、体の中から綺麗になっていく感じ』
元気が出るよ、と微笑む耀を見て、うん、と頷いた玖珠玻璃だ。
『美味いか?』
『美味い』
『そうか。良かった』
やっと硬い表情を溶かしたようで、気さくに戻った彼だった。
『口に合ったなら良かった』
『そんな事を心配していたの?』
『心配……していたつもりは無いが、口に合わなかったら悪いな、と。東の方から来たのだろう? 水が合わない事もあるかも知れないと』
『もう、玖珠は真面目だなぁ』
美味しいに決まっているじゃないか。沢蟹が生きられる、これが証拠ってものでしょう? と。
『そうなのか? これに特別、何かを思った事は無いのだが』
『沢蟹は綺麗な水じゃなきゃ生きられないって聞いた事がある。そんなに綺麗な水ならば人間にだって良い水だろうし、良い水なら当然、美味しいと感じると思うけど』
美味しいものって体に良いんだよね。中毒性があるものは別だけど、あぁ美味しい、幸せだなぁって思うものは体に良いよね、と。水って大事なんだよ、と言う耀の声が届いていたかは知れないが、悪い気はしなかったらしい玖珠玻璃は『そうか』と調子を戻したようだった。
耀も彼に団子を出して、昨日、食べずに帰ったでしょう? と。貰って良いのか? と確認する神に向かって、勿論だよ、と返していく。
『人に何か貰ったのは初めてだ』
『善持さんからだから、お礼は善持さんにしてね?』
『そうか。礼か』
何が良いのだろうか、と。真剣に聞いた玖珠玻璃に、困っていそうだったら助けてあげたら良いと思う、さらりと返した耀の言葉が染み込んでいく。これが玖珠玻璃の精神の一つになるのを、まるで鑑みていない耀だけど、永く愛される神の素養がこの瞬間に根付くのを、後ろの瑞波が見届けた。
玖珠玻璃は差し出された団子を瑞波のように”抜き取って”、うん、美味い、これは何と言うのだ? と聞いてくる。
『団子だよ。粉の方は”きなこ”、たれの方は醤油だね』
と。
『そういや、どっちも材料が豆だ。善持さん、今年は豆を増やすって言っていたっけ。あ、じゃあさ、余りにも日照りが続いた時は、ちょっと雨を降らせたりとか、してくれたら喜ぶかも』
『雨……』
『竜神は雨の神様でもあるよね?』
『そうなのか?』
『違うの?』
『分からん』
が、やってみる、と。
手を”わきわき”と動かして、やってみる、と語る竜神だ。
『耀、竜神にも色々居りまして……』
聞いていた瑞波が補足を入れてくれようとしたが、玖珠玻璃は『大丈夫です、瑞波様。私も修行をしてみます』きりりとした顔で返した。
瑞波は、修行をしたとて才が無ければ……と思ったが、未だ子供の神であるので、言うには早いかと思い直した。耀の穢れを”押し流したい”と語っていた彼だから、自分に近しい才があるのは分かるのだけれども、と。頼まれねばやらない瑞波は、一先ず見守る事にしたようだ。
瑞波は他の神が”嫌い”だが、耀が側に居るおかげだろうか、玖珠玻璃には優しく出来て、世話を焼く準備も出来ている。無意識に変わっているのにも気付いていないけど、耀と共に凪彦以外の神と生きる準備など、やっと始めた場所に居て、節目を迎えた時期だった。
彼の目の前で二人の”童子”は楽しそうに話をし、山を案内してくれるという神に、耀が”是非に”と付いて行く。味の抜けた団子を昼食として、ぐるりと山を回った耀だった。隣の山から零れ落ちる滝を見て、控えめに花を結ぶ山桜へと手を伸ばす。
瑞波は未来の伴侶がこの世を愛おしむ姿を見遣り、何て素敵な方だろうかと惚れ惚れ過ごしたようだ。玖珠玻璃もまた自分の住処の山を、満足そうに見てくれる耀を好ましいと感じ入る。山菜を貰って良いかと聞いてくる彼に対して、好きなだけ持っていけと返した玖珠玻璃だ。籠に入るだけで良いよ、と耀は笑って、俺に出来る事があったら玖珠も遠慮無く頼みに来てね、と言った。此処でも、成る程、と思った玖珠玻璃だ。山のものを分けてやったなら、頼んで良い、とも知ったから。
遅くなると悪いから、と、陽が傾く前に帰るのだけど、また来いと声を掛けられて、玖珠もね、と交わし合う。皆が満足したように沢で別れて、耀はその山を降りて行った。
帰りの田畑に戻る頃には、太陽も橙の光に変わり、殆ど人も居なかったけど、数名の姿があった。以前、善持に遺体の埋葬を頼みに来た人が、そろりと近付いてきたので足を止めた耀だった。
寺は変わりないか? とか、山へ登ってきたのか? 等を。壮年の男は何気無い風でいて、何か聞きたそうだったので感じたままに返した耀だ。きっと”おととさん”の様子を聞きたいのかな? と感じていたので、毎朝お勤めをさせて頂いています、あと少しで四十九日なので、あの世に渡られる時期ですよ、そうだ、良かったら山菜を少し持って行きませんか? 等。自然と話を返し、むしろ相手を怯ませた。
最終的に「有り難ぇ」とお礼を言われて別れたが、ありゃあ凄い坊主だ、と密かに噂が回された。凄い坊主なら有り難ぇ、凄ぇ坊主などおっかねぇ、反応は様々だけど、女達の気持ちは一つである。今は未だ触れられないものが、彼と女達の間にある訳だ。
寺に戻れば善持はいつも通り、遅かったなぁ、と言いながら、耀に夕飯をよそってくれた。土産の山菜を手渡して、渡された方は嬉し気だ。二人の暮らしは穏やかに過ぎていき、春は益々深まった。
あっという間に菜種が咲いて、蕾も花も茎の部分も味わった善持と耀だ。硬くなって咲き残ったものが、実を結ぶまでを待っていく。油を絞る気満々の二人は、寺までの坂に咲くものの他、手広く菜種を収穫する算段をつけていた。開墾した畑の方も区切りがついて、豆やら何やら植えたので、あとは雑草を抜きながら世話をしていく段階だ。
善持は春の山菜を保存する為に動いていたが、厨(くりや)を与らぬ耀にはそれが、どのようになされたのかが分からない。瓶も何もない時代であるから、腐る前には食べなければならないが、食材が多ければ味も種類も広がって、それこそが善持が理想とする”厨”の姿だったから。
故人の四十九日が過ぎた後、耀はお堂の仏像に向かい、経を読む練習を続けて行った。暇があれば善持がする事の手伝いをして、蔦で籠を編む事や、竹細工も少し覚えたか。何でも自分でしなければならない時代だ、善持は謙遜するが、出来る事が多かった。
そうしてまた暫く経って、さえが人を連れて来る。
人霊が視えない弟子の為に、誂えた客だった。
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