いつかあなたと花降る谷で　第２話（１０）

　一方、フィーナの記憶の中にはチャールカの姿があった。サイクロプスのポッサンの家で、マァリの足元に丸まった泣き妖精だ。
　それを見た時に、羨ましいと思ったフィーナだったのだ。懐かれたらしいマァリのことも、マァリの側で眠れるチャールカも。
　彼が家に居るのなら、別々の部屋のベッドとは言わず、同じベッドでもいいのに、と無意識に考えた。多分、居なくなった時の寂しさを、フィーナはまだ引きずっている。マァリの気配が近くにあって嬉しいけれど、ここにいるという実感を、得たいと思っていたようだ。
　マァリが望むなら恋人というものに、なってもいいかなと考えた。恋人というのは近くに住んで、仲良く同じことをする人だ。随分な偏見だけど、フィーナの目には、父親と母親の恋人感しか記憶にない。その先の「夫婦」になると、共に子育てをする印象だ。
　もちろん、ポッサンとマーメーナのように、種族として遠すぎた場合など、子供に恵まれない可能性も十分あった。だけど、子供がいなくても仲が良かった二人のように、きっと問題はないはずだ。フィーナにとって夫婦とは、恋人より距離が近い印象で、一緒に暮らしていると、そのうちできるのが「子供」という風だった。
　マァリが心配をする情緒云々も大事だが、彼女の中での子供とは神からの授かりもので、どうして世の中に男女が居るのか、どうして男女で番うのか、ナニをするのかという点がすっぽり抜けていた。だから幼体のままなのだけど、そうしたことも何もかもわかっていないフィーナだった。
　山を離れて楽しく過ごし、そこにお酒が入ったことで、深層意識が顕在化して甘えたくなったらしい。両親とも居なくなってから、久しく彼女は甘えていない。しっかり育った彼女だけれど、誰かに甘えたくなったのだ。
　チャールカがマァリに甘える姿を見た時に、良いな、と思った記憶が染みついた。もちろん双方に対して「良いな」と考えた。心のどこかでは甘えたかったし、自分より若い存在に甘えられたかったから。
　チャールカと同じように、マァリの足元に、体を丸めたフィーナだった。
　マァリは「困った……」と絶望したが、呆然と眺めているとその点に気がついた。

「妖精って……」

　人の足元で丸まる性質でもあるんだろうか、と。
　少し考えて、これじゃあ試されているというよりは、純粋に懐かれているみたいだな、と。飼い猫のように……とは思ったけれど、同列にするのは憚られた。
　マァリも警戒心が強いところがあるために、なんとなく足元に丸まった理由がわかる。フィーナはマァリを信頼しているし、本心では甘えたい気持ちがあるけれど、拭い去れない警戒心が距離を取ろうとしているようだ。
　案外、素直になれない女性（ひと）なのかもしれない、と。
　それは自分も同じであるので、少し面白かった彼である。

「フィーナ」

　一応、名を呼んでみる。
　意識があったら自分のベッドへ帰るよう促すつもりがあった。
　返事はなくて、あどけない寝顔が見える。出てきた溜息は、苦笑と共にある。彼は枕元の衝立を片付けて、フィーナが使っていたベッドを引っ張った。二つのベッドを繋げると、彼女をそちらの方へ眠らせる。上掛けの薄い布団を掛けた時「マ……」と口にしたフィーナだった。
　ママ、かな。と何気なくマァリは考えた。見た目が子供であるし、そういうのが思い浮かぶ。急速の彼女のことを理解できた気になって、自分が居なくなった時、寂しかったと語った彼女の、本当の寂しさの種を理解した気になった。
　自分は元々家族がいないから、そういう寂しさは分からない、と感じた彼だ。普通と言われる幸福を、知らないから振れ幅がない。元々いないから失う辛さも知らないし、置いていかれたと感じるような感傷も発生しない。それは全てフィーナが幸せな人生だったから。羨ましいと思ったり、呆れたりはしないけど、好きな人が寂しいのなら、寄り添ってあげたい気持ちになる。幸い、マァリはそうした感性を持っていた。だから優しい目で彼女を見れる。
　そうか、フィーナは親に先立たれ、一人暮らしが寂しかったのか、と。自分はその隙間に入ったんだな、と理解した。そう思うと妙な緊張も解けてくる。やっぱり自分達は、暫くこのままの方がいい。
　思ったマァリは自分のベッドに転がって、同じように上掛けの布団を体に掛けた。目を閉じれば隣のフィーナがじわりと近づく気配があって、マ……マ……と口元が動いたようである。
　目を閉じながら苦笑するように聞いていた彼が手を伸ばし、寝ているフィーナの頭を撫でて、横向きに寝ているのを知った。暫く頭を撫でてあげれば安心するだろう、と。その手を取った眠れるフィーナである。
　左手でマァリの左手を取ると、右手も使って彼の手を包み込むように抱き込んだ。目を開いてそちらを向いて、可愛い……と思ってしまった彼である。彼の手に頬を寄せる様は、やっぱり「子供」なのである。子供を持ったことはないけれど、庇護心がくすぐられるというものか。
　横向きになって、暗い部屋の中でフィーナを見遣る。
　柔らかい金髪とあどけない寝顔。マァリの手を両手で包み、頬を寄せる可愛い女性（ひと）が、口元を動かした。

「マ……」

　ふふ、と。微笑してしまった彼である。
　パパじゃないんだな、と、ちょっとだけその人を憐れんだ。

「マ……」
「何？」

　ママになったつもりで聞き返す。
　若干の悪戯心が湧いていた。ママのふりをするのも面白そうだった。
　果たしてフィーナは。

「マァリ……」

　と呟いた。
　ん……？　と思った彼である。

「マァリ……好き……」

　と。

「ん……？　え？　え？　フィーナ……？　今の何……？」
「マ……マァリ……」

　彼女のその先は夢の中。
　想像だにしない事態を前に、彼はまた固まった。
　え？　フィーナ、ちょっと待って、え？　と。
　取られた左手の先から真っ赤になった彼である。
　右手で顔を覆うと「嘘だろ……？」と再び絶望をする。
　左手を抱いた彼女は、次に腕ごと引っ張って、彼の左腕を丸々と自分の体で抱き込んだ。桃色の唇も、まだ薄い胸元も、動かしてしまえばぶつかるような足の間にも触れている。

「…………」

　と無言になって、修行僧になった彼である。
　これを一晩耐えたなら、何か強い何かの役に、クラスチェンジができるような気になった。自分の頭に浮かぶ言葉が重複しているのにも気づかない。一晩経ったら明日の朝、俺は凄い何かになれるんだ、と。
　すやすやと寝息を立てるフィーナの顔は穏やかで、何度目を向けても起きる気配はないし、当たり前にマァリが手を出して良さそうな雰囲気が微塵もなくて、ただ耐える時間ばかりが過ぎていく。
　何度目になるかもわからない”嘘だろ……？”の時間を過ごした後に、気を失うようにして眠りについた彼である。
　翌朝────。

「お早う！　マァリ。今日もすごく良い日になりそうよ！」

　燦々と輝く笑顔にあてられた彼だった。

「そ……そうだね……」

　と返したマァリの顔は、げっそりとやつれて見えていた。