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君と異界の空に落つ2 第65話

 凛とした表情で、見た事のない僧が降りて来る。
 朝仕事する人々が、一人、二人と顔を上げ、あれは善持が拾った子……と、手元を疎かに眺めたか。
 初めての”真面目な”姿である。善持よりもっと坊主に近い。あんな子供だっただろうか、と、思う程に”それらしい”。
 子供は坂から降りて直ぐ、小さな小道へ入ったようだ。
 そうして集落の奥地へと、行き先を逸れていく。
 見ていた女達が、気が付き、走る。
 総領の家とは別の、女総領の元へと走る。
 怪しい事をされたのではたまらない、と思ったからで、婆様達を引き連れて皆で其処へ向かうのだ。
 耀は道案内をする丈弥の後を付いて行き、此処にあったか、という顔をして、それ等の前で腰を下ろした。
 名も知らぬ大木の、根が張る袂。
 両手で包める大きさの、丸石が捧げられていた。
 辺りは綺麗に草が抜かれて、日々、誰かがこの場所へ立ち寄っている気配があった。
 それはそうだ、と耀は思う。
 集中し、祈りの力を保ったままだから、現(うつつ)への意識は半分だけだけど、人である事を捨てた訳じゃ無い。
 だから人の気持ちの先が理解出来、女達の悲しみが宿った石を見て、彼女達が一体どうして生きてきたのかを、理解しながら寄り添うように座していく。
 この時、手元にあった小石と平たい石を、前後に並べて準備を済ます。落ち葉に火打ちをし、小さな火を起こしていった。消えないうちに蝋燭に火を移し、惜しみなく小石の上に立てていく。貴重な蝋燭だ、だが、使う事に悔いは無い。消えてしまってはたまらないので、木の根に守られるようにして、その間に押し込むように大木に寄り添った。
 一本の香を摘んで火を灯す童子である。手前の平たい石の上に、先を小さく赤らに染めた、それを横に置いていく。灰が無いのじゃ仕方が無い。宗派がどうというつもりも持たず、その場に合わせた風だった。
 背筋を真っ直ぐに、数珠の掛かった両手を合わせると、礼拝(らいはい)の動作を以て、読経を始める耀である。”りん”を手元に、浄提寺で習った通り、清めであり、知らせであり、調和であり、慰めの、あらゆる意味が込められた”音”を使って、祈りの意思を辺りに知らしめる。
 女達が揃いも揃ってその場所に着いた時、嗅いだ事の無い香りが漂い、一人二人と足が止まった。耀は二度目になる読経の最中で、気配が後ろにしたのを感じ、僅かに耳を傾けた。
 これ、と話し掛けた女総領の婆様が、耀に右手で合図をされて、暫し後ろで黙り込む。言葉が無くとも、もう少し待て、と言われたようで、念仏を唱えていると知れたから待ったのだ。

 ほんの童子だと思っていたが、彼の姿は大人のようだ。

 大人のような落ち着きがあり、人の大きさを滲ませる。
 ちりん、ちりん、と”りん”が鳴り、神妙に黙った女達の”気”が、少しずつおかしくなっていく。匂いと音とで、感覚が狂っていくように。耀の霊性にあてられて、意識が上がっていくのを知らず、普段と違う集落の景色を見遣り、その所為だろうかと考えた。
 中でも総領の婆様は、不思議と心に浮かびくる、遠い記憶を思い出す。懐かしく、非常に悲しく、忘れたくても忘れられない……今更、欲しく無かったと言われても、山神様は私の子供を取っていったじゃないのか……と。悲しくて虚しくて、何処にも吐き出せない気持ちも浮かぶ。
 仕方無い。仕方無い事。
 何度目かの自分への慰めで、ふと視線を上げた時、目の前で坊主の真似をする童子の背中から、何かが出てくるような気配が読めた。
 見えたのでは無く、読めた、のだ。あ……何かが、出て来る……と。
 耀がその経を読み終えた時、女総領の目に視えたのは、彼の背中から”わっ”と駆け出す、懐かしい小さな面影だった。

 一瞬、だった。

 ほんの一瞬。
 わっと駆け出した幼子(おさなご)は、笑顔で”かか”の元へと抱きついた。
 抱きつきながら、光になった。
 光になって、消えていく。
 全身が光の粒子になって、抱きついたと思ったら、ぱっと消えてしまうのだ。
 寺からずっと集中力を保った耀も、その片鱗を感じとる。

『あ・つ────』

 幼子は、消える前に名を言った。
 それで、耀は次の経を読む準備を整えながら、その人に聞こえるように「あつ」とその子の名を零す。
 いつの間にか丈弥は横で共に経を読みあげて、降りてきたらしい”空音(うつね)様”が、耀の中に揺蕩う魂に、外に出る”順番”を教えているようだった。耀と空音がしたい事を察した瑞波だったから、空音が耀の中から掬い上げた魂を、綺麗に浄化して外へ出る手伝いをする。
 身軽になった魂は、耀の体をすり抜けて、会いたかった母の元へと駆けていく。結局、最後は”母”なのだ。子が縋るのは母なのだ。あつが老婆に抱きつく時に放った心の声も『かかぁ』と甘く響く音だった。
 女総領の婆様は、固まるように耀を見た。
 その昔、大昔、山神に贄にやった子だ。
 笑うと陽の光のように、自分を照らしてくれる娘であった。何故、名前を知っている、と抱きつかれた場所を見下ろした。
 長い長い時間をかけて、棒切れのようになった自分の足を。
 膝を折るようにして、娘が駆けた空間を抱く。
 ほんの一瞬、その目に見えた、幼子が居た空間を。
 耀の体から嬉し気に抜けていった魂は、彼女との縁を紡ぎながら、次の輪廻に乗ったようである。
 言われずとも老婆には分かった。
 また、来世、逢いにいくからね────と。
 互いに忘れてしまうだろうが、今、約束された事。
 また、貴女の子になる────と、約束された事。
 果たされる”約束”を知り、涙がぽろぽろと頬を伝った。
 少し霊感のある者の目に、同じ光景が広がっていた。
 あれから戻っては来なかった自分の子の霊魂が、どうしてか目の前の童子を通じて、今、戻るようである。
 耀の読経は次に入った。新たな線香に火が灯る。
 また、経文を読み終える頃、ふわっと煙のような光が抜けて、その人の方へと幼子が駆けて行く。
 今度は『かか!』と叫んだ、溌剌とした少年だった。

『と・き・お────』

 と声が聞こえて、耀はそれを読んでいく。
 びくりとした時男(ときお)の母が、自分にぶつかってきた光の塊を見て、耀が零した名を聞いて、つぅと温かな涙を零す。
 耀の読経はまた次へ。りんの涼やかな音が響いて、新しい香の香りが辺りに漂った。
 老婆から順繰りに、涙の声が重なっていく。
 誰も彼もが虚空を抱いて、我が子の名前を呟くようだ。
 それはある種の禁忌であって、触れてはならない他人の聖域。
 踏み込んではいけないものを、皆で目の当たりにするように。

「かのこ」
「ごうた」
「いと」
「せいた」

 順繰りに落ち着いた声音で名前が響き、その子の母親が膝を折って啜り泣く。
 あぁ……あぁ……忘れた事など、ある筈が無い────。
 女達の集団が向かった先を追いかけて、集落の男達が少しずつ集まっていた。栄次の母親の姿もあった。集落の女達が其処へ出かける姿を見たが、其処が”何”なのかを知らなかった人である。大樹の袂に腰を下ろした子供の”友人”、寺に拾われた童子の事を初めて見遣る気持ちであった。
 童子はしっかりとした肩を持ち、真っ直ぐに背を伸ばし、何やら唱えているのだろう。嗅いだ事の無い香りが漂い、ただ、嫌な気はしない。
 もし、神聖さというものがこの世にあるとするのなら、こういう匂いが漂うのでは、と、思うような芳しさ。同時に、それは都の貴族が持ち得る”財”では無いのか、と。他所から移ってきた者を、初めて意識するように。
 栄次の母親は次々と泣き崩れる人を見て、はっと気が付く顔をすると、胸の合わせを握り締める。たった一日か二日の事だが、向けられた態度の意味を知ったのだ。それは、深い悲しみ、嗚咽、慟哭。集落の為に子供を取られる女達の”彷徨い”だ。仲間で居るのは安心するが、失う代償が余りに重い。自分は払わずに済んだもの。もしかしたなら今回は、隣村から来たという事で、この村の女達も見送ってくれた事だったかも知れない。栄次の代が終わったら、その次は”みつ”の代だろう。計算するとそうなのだから、”気を遣って貰っていた”のだ、と。
 間違いなくそうだろう。栄太(えいた)の時もそうなのだろう。一人目だから見送って貰えた、二人目は”偶々”だ。寺の子が居たから、気を遣って貰ったのだろう。でも三人目は”取られていた”。いい加減、そろそろ、集落の者にならなければいけなかったから。どの家も順番に子供を山神にやるのである。順番に……順番に……やっていないのは、自分だけ。
 何の因果か知れないが、自分の代で生贄は終わる。終わる……それはもうこの集落の、女達の”仲間にはなれない”という事だ。女社会の暗黙で、私はずっと一人になる。怖い……怖いけれども、子を失ってしまうのと、果たしてどちらがましだろう……? 或いは、そう考えてはいけない事なのだろうか……? と。
 それもまた作られた”彷徨い”で、耀が”どうにかしてやらねば”と考えていた事で、誰の所為でも無い事を、誰の所為にもしないよう、生きている人の気持ちを救ってやれれば良いのに、と。願いを込めて、祈りを込めて、己も一人の人として。経文にある叡智を求め、祈りの先の慈悲を求めて、彼岸で待ってくれるのだろう救いの天の御心を、少しでも自分達の身に近付けられれば良いのに────と。また一つ、香の先に火を灯し、まだまだ遠くにあるのだろう、涅槃寂静を願うのだ。
 不意に始まった鎮魂は、栄次の一つ前、ゆきじの名を語った所で終いになった。最後の経文で”出て行かない”事を悟ると、今、身から出せる魂はそれだけであるのを悟った耀だ。
 魂の選別を手伝ってくれた空音に”礼”を、多分、無理をしたのだろう、白い顔を白くしている、瑞波の体調を知ってから、そちらにも礼をした。共に経文を読んでくれた丈弥にも礼をして、りんの響きで一度目の供養を終わらせる。
 生きている女達へ、縁と魂は帰って行った。
 帰って行ったが、たった一度で慰められる筈も無いだろう。供養は此処に居る間、ずっと続けるべきもので、此れは”人としての仕事だ”と、考えた耀だった。
 天津神にも抑えられない禍神を呑んだ事、国津神の大神が抱えた穢れを呑んだ事、そちらは”神としての仕事”であって、こちらの仕事とは違う。

「残りは暫く私が抱えて、少しずつ供養して参ります」

 後ろに居並ぶ人々へ、身を深く、頭を垂れて、これからの意気を語った耀だった。
 見ていた空音が”ふぅん”と思った顔をしたか。

『頼まれた約束とはいえ、呑み込んじまって悪い事をしたね。あたしの”縁”をくれてやるから、それで許しておくれよ』

 と。
 耳に聞こえた声を拾って、「山神様がいらしております」と。

「子を取ってしまった事、悪かったと言っておられます。代わりに加護を下さるそうです」
『あたしが見ていてやるんだ、食うには困らせぬ』
「次の生では食うに困らぬご加護を下さる、と」

 まだまだ不安定な時代の事だ。食うに困らぬと言われたら、大人になれる可能性がぐっと増す。そも、空音が居る事で不作とは無縁の集落だけど、偶に他所(よそ)の話を聞くに、他は大変なようだから。

「さて、もし宜しければ、月に一度でもこちらの場所を、訪れさせて頂きたいのですが」

 初めに子供が駆けて行った、女総領の方を向く。
 老婆の目は未だに涙で濡れていたけれど、しっかり向いて、目を逸らさずに頼み込む耀を見ると、今、自分が感じたものを信じたいというように、頷きだけで返してくれた人だった。
 それから震える声で、耀に問う。

「あたしは……”あつ”に……恨まれては……いないのかい……?」

 と。
 はた、と止まった耀はゆっくり、真面目を微笑に変えてゆく。

「貴女が”視た”通りで御座います。私には慕っていたように視えましたが」

 と。
 その人も不意に動きを止めて、次には”わっ”と項垂れるよう、涙を流したようだった。坊主から返った言葉を聞いて、他の女も涙ぐむ。泣く女房を慰めるよう、抱きしめる夫も見えただろうか。
 さて、今日の所は帰ろうか、と、広げた道具を懐にしまい、足に力を入れていくが、少しふらつき、丈弥が向けた細腕を、何気なく取った耀である。
 まるで何もない空間に、手をついたように見えたから。
 それから”ぽそぽそ”と小声で呟き、”何か”と会話をしたようで。
 耀の動きに注視していた男達は慄いて、ほんのりと、本物、で、ある事を悟ったか。
 集落の大人達の横を抜け、もう一度、礼をして寺に戻る耀である。
 ぱたぱたと軽やかな足で追いかけた栄次へと、何事かを呟くが、呟く様は”童子”に見えた。
 もう、坊主ではなくて、ただの童子に戻ったようだ。寺での事もあったから、その方が大人達の心も落ち着く。見た目にそぐわぬ言動は、矢張り異質で怖いもの。何だ、普通の子供でもある。子供の顔もするじゃないか、と。安堵しながらその顔を引き出してくれた栄次へと、少し感謝するような、畏敬の念を抱くような。
 子供同士である分に、あれは子供に戻るのだ。それが分かれば付き合い方も分かってくるようで、同時に、善持は何という拾い物をしたのか、と。
 寺の坂道をゆっくり戻る耀の後ろ姿を見遣り、耀に目を惹かれる子供を、難儀な……と見つめたか。

『瑞波、大丈夫か?』

 と、戻りがてら彼に問う。

『えぇ……』

 返る言葉は細く、耀より辛そうにして見えた。
 白い顔は白いまま。どうやら空音に示されるまま、普段はやらない閾値まで祓いの力を使ったようだ。

『俺も帰ったら昼寝する。瑞波も少し休むと良い』
『…………』

 じ……と見下ろす祓えの神は、やや”そわり”とした風だ。

『大丈夫、丈弥が居る』

 無茶しない、と笑ったら、僅かに安堵するように『そうさせて頂きます』と。それで、耀は瑞波という神が、見ていてやらねば無茶をする奴かも知れない、と悟るのだ。
 瑞波が無茶をしないように、俺が強くならねばならない。今日はちょっと無理だけど……と、自分に対して苦笑する。
 丈弥が共に経文を合わせてくれたおかげだろう。少しは”祈りの力”を使えた気がした耀だった。空音が自分の中から掬い上げてくれた魂魄もある。その分は穢れが減った。これは瑞波のおかげでもあった。
 少しは軽くなった体だ。暫く、だるい、で済むだろう。俺も無茶せず寺で過ごそう。瑞波が目覚めるまではな、と。
 目を合わせ、こくり、と頷き、頷き返した瑞波は”ふっ”と、気配を耀の近くへやって、そこで眠ったようだった。手が届かない隠り世は、いずれ空音の屋敷のような、瑞波だけの神域になるのだろうか。今までは凪彦が”懐へ隠してくれた”と言っていた。俺も隠してやりたいなぁ、と珍しく欲が出る。
 耀は襟に手を入れて、首の後ろを掻いていく。少年から青年へ進もうという時期である。背が伸びる予兆を滲ませ、手足も丈夫になっていく。筋張った肉体は、やや”すらり”とした雰囲気か。
 丈弥はそっと思い出した。こいつ、紅寿(こうじゅ)と綺世(あやせ)の次に、綺麗な顔をしていたんだよな、と。彼等より幾分か男の方に近いけど、女の格好をした耀は、律師(りっし)や僧都(そうず)の兄さん達に、弁天様か吉祥天かと思わせた。集落の幼子が、惹かれていたのも思い出す。あぁ、これは面白い、と、後ろで笑った丈弥だった。
 きっと耀は”瑞波様”の為に、自分の中の男を磨くのだろう。今でこれだけなのだから、大人になれば”一段と”。それを見ていく女達、栄次の妹も含まれる。町にも武術を習いにいくか。途中で二人目の師匠にも会うのだろう。さて、どれだけの女の気持ちを惹いていくのだろうか、と。丈夫(ますらお)は大変だぞ、と”くつくつ”と笑ったか。
 後ろで機嫌が良さそうに、気配を醸す丈弥である。
 耀は”ちら”とそちらを向いて、改めて微笑んだ。

『丈弥(じょうや)』
『何だ?』
『似合うな、それ』

 と。

『髪だよ、髪。坊主頭しか見た事、無かったからな』

 あぁ、と自分の前髪を摘んだ眷属だ。

『格好良い。皆にも見せてやりたいな』

 言うだけ言って、ぱっと前に戻ってしまった”友”だから。
 目をまん丸に、少し固まる丈弥が”そっと”思った事は。
 あぁ、こいつ……そのうち、男も普通に引っ掛ける────。
 瑞波様は大変だ……あぁ、大変そうだなぁ……で。
 ふうっと息を零すように、今日も暑くなりそうな、真っ青に広がる空を見たのである。

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ちかい
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