いつかあなたと花降る谷で 第2話(4)
家へと入った二人はそれぞれ動き、フィーナはリビングのソファーで夕方まで休憩することにした。マァリは汗をかいたので、水を浴びに浴室へ行くらしい。彼女の家の浴室はキッチンの奥にあり、キッチンへ流れる水の筒から分岐させるようにして、水浴びができるようになっている。
フィーナは冷たい水が苦手であるので、普段は大きな器に水を溜め、それを魔法で温めてから体を洗うようにしていた。だから、それを使って良いわよ、と言ったけど、今日のマァリは冷たい水がいいらしい。
人間って強いのね……と、認識が改まる。
彼との二度目の暮らしだけれど、一度目よりそうした発見がある。
多分、前よりフィーナはマァリに興味があるのだろう。彼が彼女に細心の注意を払っているように、彼女も彼にそれなりの注意を払っているわけだ。
ソファーに横になったフィーナは、浴室から聞こえる水音を聞く。
控えめな生活音とは不思議なもので、寝入る頃に耳にすると、どこか安心するようだ。その音を立てているのが信用できる人となると、妖精だって安心感が増していく。
水浴びを終えて出てきたマァリがリビングへ入ったら、ソファーで眠りこけている彼女の姿があった。近づいても無反応なので、本格的に寝ているらしい。マァリは彼女のあどけない寝顔を見下ろした。
以前、お世話になった時も、フィーナにはこうした無防備な様子があった。子供だから……と思っていたけど、大人がするのじゃ意味が違う。マァリは自分の部屋へ戻ると、薄い掛け布を持ってきた。それから彼女の体の上へ掛けてあげた。
フィーナの寝顔は可愛くて、子供のように純真そうだ。細い前髪が降りていて、後ろの方は結ばれている。
自分もそうだから、マァリはそっと手を入れた。結えたままで仰向けに寝ると、髪の束が頭に刺さって痛いのだ。起こさないようにそっと手を入れ、髪紐を丁寧に解いていく。
それをリビングの机に置いて、彼は静かに外に出た。彼女が起きたら早速、街に行く計画を立てよう、と。それまで気分転換に、渓谷の景色でも見て過ごそう、と。
それに、フィーナの髪を見て気づいたが、そろそろ自分の髪を切ってもいい頃かもしれない。面倒だから伸ばしていただけ。邪魔だし、人間の街に行くのなら、爽やかな男のふりをした方が良いだろう、と考えた。それに「マァリュ」と言えば長髪だ。この辺で違う人間のふりをすべきかな、と。
どうして自分に魅力があったのか、分かっていない彼である。
例え髪型を変えようとも、顔は変わらないわけだから。
女好きする顔だけじゃない。マァリは興味がなかっただけだが、およそ男性が女性に抱く低俗な願望を見せないところ。平民も貴族や王族と同じ、丁寧に扱うところなど、色々と理想的な人間に見えたのだ。
興味がなかっただけだとしても、乱雑な口調じゃないので彼の姿は品良く見えた。無難な対応だとしても、人当たりが丁寧に見えたのだ。戦災孤児として育ったはずだが、何をしてでも成り上がってやろうという、上流階級が厭うような貪欲さも見えなかったから。
そんな男であったので、女達の遊びにも使われた。誰が彼を射止められるか、誰が側に寄る権利を得るのか、と。靡かなければ靡かないほど、戦いは激化したのである。そうして人気は益々高まる。戦争をしている国なのに。中央がこれでは民に平穏は永劫来ない。親友だと思い込んでいた男に裏切られ、フィーナに出会った後は、マァリも目が覚めたというか、国を見放す覚悟ができた。
たまたま生まれただけの国、だったからかもしれないけれど、人々が好き好んで戦争をしているという真理を知ると、呆れたというか、手を引くべきかもしれない、と。
彼は幾重にも意味を重ねて、新しい生を生きるつもりになった。なんとか長寿を得るために、怪しい薬の話にも縋りつき、大陸中を駆け回ったが、案外、答えは近くにあった。
たまたま運が良かった話なのだが、戦争を続ける国を出てからの方が、彼の新しい人生にとって為になることが多かった。
耳に下がったピアスから、使い慣れた短剣を取り出した。
首の後ろにそれを入れ、バッサリと切り取っていく。
妙な魔術をかけられたのではたまらないから、手を離すと同時に燃やしてしまう。灰はそのまま渓谷の風に乗り、目に見えない大きさで消えていく。
ある程度を刈り上げて、最後に闇の精霊へ。
「適当に揃えてくれないか」
と、召喚呪文を唱えたようだ。
ただの独り言に聞こえるけれど、立派な召喚呪文である。黒い煙が小さく上り、三つの人型が現れた。
それは真っ黒な人型で、目だけが白い精霊だった。夜の精霊とも違う、彼だけの精霊だ。
髪型はバラバラで、飾りまで真っ黒い。豪奢に見える衣装も、肌との境目が見えない黒だ。スカートを履いているように見えるから、彼女達、と呼ぶのが相応しいのだろうけど、声をかけてはいけないような独特の雰囲気が漂った。
恐らく、本能で、恐ろしいものだと分かるのだ。
人型の精霊は彼の頭をくるくると回り、ざんばらだった頭髪を整えた。
「ありがとう」
マァリが言えば、恭しく去っていく精霊達である。
少し癖のある彼の髪は、魅力的に整えられた。
髪型がどうなったかなんて気にもならない彼だから、さっぱりしたな、くらいの感想しかないけれど。青白い短髪の、爽やかな青年が出来上がる。彼を知る人が見たことのない、柔らかい顔を浮かべた男である。
フィーナは不意の悪寒を感じ、ふっと意識が浮上した。
慌てて体を起こせば、床に落ちる上掛けだ。誰かが掛けてくれたのだ、と拾い上げ。
「どうしたの?」
という、部屋の中からの穏やかな声を聞く。
「あ……マァリ……もう外が暗いのね?」
聞き慣れた声に安心し、フィーナは「眠り過ぎちゃったみたいね」と、呆然としたけれど。
「あれ!? マァリ!? その髪どうしたの!?」
と、彼に釘付けになってしまった部分もあった。
マァリは「そろそろ邪魔だったから」と、あっさりとした雰囲気で、見てしまったフィーナだけ「全然雰囲気が違うじゃない」と。それから上掛けを綺麗に畳み、掛けてくれてありがとう、とも。
少し前の悪寒など、頭から消え去ったフィーナである。
ぐっと伸びをして立ち上がり、マァリが置いてくれていた髪留めで自分の髪をまとめると、もう一度、彼の頭を見上げて呟いた。
「その髪型も素敵だけれど、少し寂しい気もするわね。髪結いが上手だったから……いつか教えてもらおうと思っていたのよ、私」
「教えるのなんていつでもできるよ。今でもいいし……結ってあげようか?」
綺麗に編み込まれた彼の髪型を、さりげなく目で追っていたフィーナだから、彼にそう言われると揺らいでしまう気持ちがあった。
「いいの?」
「もちろんだよ」
マァリは、フィーナの髪の毛、柔らかくて触り心地が良さそう、と。口にしそうになってしまって慌てて押し込んだ。そんなことを言ったらただの変態だ。若い彼は意中の女性に変態と思われたくない部分がある。寸でだけれど戒められたから、不名誉な称号を贈られずに済んだけど、そんな気持ちはおくびにも出さす、椅子に座って、と口にした。
警戒心のない彼女である。彼が示した椅子に落ち着くと、よろしくお願いします、と頭を向ける。彼はもう一つの椅子を横から引くと、彼女の後ろに座り込み、まとめたばかりの髪を解(ほど)いていった。
「どういうのが好みかな?」
「編み込んであるのに憧れてたの」
「あぁ、あれ」
わかった、と、彼女の髪に手を入れる。
背中の中程まで流れる髪は、お日様を集めた金色で、ずっとその色を尊いものと思っていたマァリだから、優しく優しく梳(くしけず)る。
自分の髪型なんてどうでもいい彼だけど、好きな子の髪ならば丁寧にしてあげたい気持ちがあった。まだ人間の社会にいた頃に、都市で目にした髪型を、思い出しながら結い上げる彼である。
元々癖毛の彼だから、適当にやっても様になるけど、フィーナの髪は真っ直ぐなので、丁寧にしないと様にならない。だけど猫っ毛のように柔らかいので、きっちり結い過ぎるのも微妙に見えるのだ。
髪質までフィーナの性格を表すようだから、段々と楽しくなった彼である。このふわふわで愛らしいフィーナそのものの良さを生かして、ふわふわの編み込みが可愛らしい妖精、を目指すのだ。
だけど子供っぽくなり過ぎないように。ちゃんと「お姉さん感」を醸せるように、所々摘んでは、小洒落感を出してあげる。髪留めが一つではできないアレンジもしてあげたくなって、彼は街に降りた時、フィーナ用の髪留めも買ってこよう、と。
「はい、できたよ」
「本当!? 思ったより早いのね!」
振り仰ぐ彼女を見下ろし、うっ、と照れた彼である。
彼女の輝く笑顔は、彼が最も好きなものだ。
純真で、目がきらきらとして、自分が交わしてしまった契約を、忘れてしまうくらいに素敵なものだから。
どうか、闇の精霊を扱う自分に、ずっと気づかないでいてください、と。
見に行ってくる! と浴室の鏡の場所へ向かった彼女を見送りながら、小さな苦しみを滲ませる顔を、浮かべていた彼である。
彼女には光の妖精の血が流れている訳で、彼女は知らないだろうけど、そちらの精霊が「近い」のだ。いつも手を貸そうとしているけれど、知らない彼女は扱えない。同時に光の精霊達はマァリのことが分かるようで、視界の端々で彼へと「不満」をぶつけてくるのが常である。
私たちの妖精に手を出さないで、と。睨まれても怖くはないけれど、確かに「染める」のはマァリも怖い。だから憧れと戒めを持って、葛藤する日々である。
好きになって欲しいけど、好きになって欲しくないような。それが妖精の道を選んだ、彼の罰の一つなのかもしれなかった。
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