北九州こどもの村小中学校にて
先日ハンター夫とともに、生きものの命を食べているお話や子どもたちとの対話の目的で学校を訪ねてきました。
私立のこちらの『北九州子どもの村小中学校』は、子どもたちの自主性に重点をおいた縦割りクラスで、各々の興味のある分野を学んでいる学校のよう。
学校についての予備知識はあえてとらずに行くことに。
知り合いの子が通っていて、
自分たちは「食と暮らしの研究所」というクラスを立ち上げていて、食糧の生産や流通などが生み出す環境問題などを学ぶ中で、ハンターとしての立ち位置から話を聞きたい。
という要望に応える形での訪問。
食の話がメインになりそうで、それならわたしも同行した方がいいだろう、ということで、鹿と猪のパテのサンドイッチも持参してみました。
北九州のカルスト山の上に建つ学校。
元々は地元の学校の分校だったとのこと。
二階建ての小さな学舎の前の校庭で、着いた時には何人かの子ども達が野球をやっていました。
用意のため中に入ると、いろんな年頃の子どもたちがワラワラと集まってきました。
小中学校がくっついていて、全員で60名くらいいるのかな?
夫が持参した鹿角や毛皮に興味を持ってくれたよう。
お話をするクラスは6名の子どもたちが在籍。
(中学校1年生〜3年生の世代の縦割り)
ハンター夫の、猟の様子を短い動画にしたものを見てもらい、夫の、生きものを殺すこと、食べること、自分でお肉を自給することなどの話をしていきました。
二人で事前に、一方通行にはしたくないよね、と話していたので、出来るだけ質問や問いかけを挟みながら。
一人の子から、畜産で殺すのと猟で殺すのでは違いがあると思いますか?との質問が。
夫はなんて答えたかな?
忘れてしまったけど、確か変わらないと話してような。
わたしも、殺す行為自体に違いはないと答えました。
ただ、今の畜産や養鶏の現状を考えると、モノのように扱われ、本来の生き方と全く違う劣悪な環境で、「肉」を効率よくつくるという「産業」のそこには「育てる」意識は全くないと思います。
最終的には命を奪い、わたしたちの糧とすることには変わりは無いのですが、夫が仕留めてきた鹿や猪の死んだ瞳を見ていると、そこにはせいせいとした生きものの残り香を感じるのみで、哀しみや未練はないと思ってしまう。
これも手前勝手な妄想なのかもしれませんが、わたしの中の真実の一つです。
そんなことを交えながら、2時間ほど話してきました。
お昼ご飯のすぐ後でしたが、サンドイッチもみんな美味しそうに食べてくれて良かったです。
女の子たちはパン作りに興味がありそう。
こうして人に伝えることをすると、自分でももっと考えたり、疑問を持ったり、あらためて調べようと思えることが、有り難い経験になります。
また、わたしは「学校」という存在に懐疑的なので、こういうスタイルの学校を垣間見れたのも良かった。
「自由」ってなんだろう?
こちらの学校は、自由ではあるだろうけれど、それを学校でやる必要って?と疑問に思いました。
自分たちで家を建てたり、米や野菜を作ったり、演劇を通して学びを深めたり。
素晴らしい取り組みかも知れませんが、本来家庭の中で、現代の便利な暮らしから少し離れて、自分たちの手で出来ることを家族でやっていけば良いのでは?と。
学び方は様々ですが、勉強だけだったら、オンラインでそれぞれのプロにお願いする。
その他のこと(生きていく上で必要なスキルや人間関係など)はゆるーい共同体で取り組む、など。
そう、多分今回の学校訪問でわたしが一番感じたのは、「親」の不在感。
学校全体が、なんとなく雑然としていて汚れているのも気になった。
子どもたちがいれば汚れるのは当たり前。
でも、それだけでは無い、なにかスッキリしないものを感じた。
自由という名の隠れ蓑で、人として身につけることが後回しになってないかな?と。
今の普通の学校の状況も全く知らずに好き勝手に書いてますが、「学ぶ」ことに自発的なのは素晴らしい。
けれども、その「自発性」さえも実は与えられていないか?と感じた学校訪問でした。
しかしとことん自分は疑り深いし、集団生活が苦手で拒否感が強いのだな、と分かったの◎。