日記 令和5年5月15日月曜日(旧暦弥生廿六日) 野の花 里芋・大葉の苗 書くことと外と中の垣根のない暮らしのこと
朝5時30分起床。外は霧で真っ白。気温もまだ低め。
俵山は湿度が高くて、洗濯物は午後3時過ぎたら取り込まないと湿気ると来た当初に聞いた。けどついつい取り込むのが遅くなりがち。
夫は今日も田植え。
タハラさんの田とオダさんの田。
今日はわたしはお手伝いはなし。
夫はパンとゆずきちパウンドケーキ、コーヒーとヨーグルトの朝食を食べて、守りをしている圃場の水廻りのチェックもしたいので7時前に出る。
洗濯機を回し、お花の水換え。
居間の花瓶のお花が少し寂しいので、畑の中の野の花を摘む。
アブラナ科の野菜の零れ種で咲いただろうお花やアザミ、カキドオシなど。
軽く掃除をしながら玄関にかけている藁や麦の穂をアレンジ、しようとして諦める。
その前にやることがあるのに、すぐに目の前の気になることに手をつけようとしてしまう。ので、これはまたあらためてやろう。
生活はアートに溢れていて面白いけど、そればかりだと時間があっという間に過ぎて他のことが後回しになってしまう。
家の中も整えたいし、外の世界も存分に味わいたい。
朝食。パンと豆乳チャイ、ゆずきちジャムヨーグルト。
お昼に帰ったら、すぐにご飯を食べて休憩したい夫の昼食の用意。
休憩が何時から取れるか分からないので早めに。
塩サバと卵焼き、ひじきの煮物、筍姫皮の佃煮、昨日母が持たせてくれたポテトサラダ、豆腐とお揚げのお味噌汁。
外で精米。
明日来られるお客様へ持って帰ってもらう為。
稲の苗の様子をチェックしたりしながら。
Instagramに出てきた、熊本でバイオダイナミック農法で野菜やハーブを育てている方をフォローして、投稿を興味津々で読む。
お料理がとても美味しそう。
育てて作る、外と中の垣根のない生活を目指している自分にヒントになりそうな。
携帯の画面を見ていたら熊本の母から電話。
Instagramの方も、おそらく熊本の植木の方みたいで、その植木に住んでる母からの電話に、少しシンクロニシティを感じた。
母は今日がお誕生日。
以前書いたように距離感のある母子だけれども、元気に明るく暮らしているようで安心する。
12時過ぎに夫帰宅。
昼食をとり、熊本の母が先日送ってくれたスイカでデザート。
食べ頃が過ぎていて残念。もっとお裾分けすれば良かった。
少し横になって休んでいると、まりんの飼い主タカマツさんが畑で育てたブロッコリーを持って来てくれる。
堆肥のおかげか、とっても美味しいので、と。
タカマツさんに昨日の里芋の苗をもらってもらう。
大きくて立派なブロッコリー。早速夕飯と、明日のお客様に出そう。
何にしようかな?
田植えの続きで夫が出かける。
わたしも畑仕事。
ハーブ園(と勝手に呼んでいるけれど、まだ大したものは育ってない)の場所に小さい畝を立てる。
昨日いただいた里芋を4株植える。サツマイモの脇に大葉も4株。
田におたまじゃくしがたくさん泳いでる。いつの間にか孵ったんだなあ。
カワワキさんのところに残りの里芋の苗を持っていく。
畑で採れたスナップエンドウをお裾分けしてくれる。
いつも、新聞紙で作る素敵な包装でお花も添えて。
どうもありがとう。
ついでに、共同圃場のジャガイモに虫がついたと聞いていたので確認。
ヨトウムシ?何だろうか、小さな白い芋虫がたくさん。
何株か捕殺していく。でも葉っぱが食べられてる形跡がないような。
今度また来よう。
戻って洗濯物を取り込み(今日は午後4時頃なので早く取り込めた)、薪風呂の用意。
中に入り、明日のお客様に出すお昼ご飯の仕込み。
鹿ミートボールのトマト煮込みの予定。
そうこうしていると、そのお客様のコウチさんご兄弟がお見えになる。
墓掃除していたけど、箒と塵取りが必要で、とのこと。
コウチさんはこの家の前の持ち主。
今回、土地のことなどで東京から来俵された。
わたしは初めましてなのでお二人にご挨拶。
コウチさんは実際、お母様の介護以外でここに住んだことはないそう。
弟さんが高校の3年間住んでらしたそうで、土間にしたところなどを見て懐かしい、と仰っていた。
箒と塵取りをお貸しして、また明日よろしくお願いします、とお墓に向かわれる。
料理の続きに取り掛かる。
田植えを終え、コメリ(ホームセンター)で買い物を済ませた夫から帰るメッセージ。
薪に火を焚べお風呂を焚き始める。
お風呂に入り夕食。
実家のちらし寿司とお煮しめ、紅白なます、鶏皮出汁のスープ(筍としめじ、卵白)、揚げ鹿のミートボール、タカマツさんのブロッコリーと新玉ねぎのオイル蒸し煮。いただきものの黒ビールも飲む。
今年の3月に、新聞に載せるためハンターの夫の日々と昔のことを取材に来てくれた記者のマアヤさんから、掲載された新聞記事と(共同通信から配信されて、地方紙がそれを購入して掲載する。そうやって記事の売り買いが行われていることも初めて知った。わたしは8年くらい前に、ずっととっていた大手新聞社の新聞を読んでいたある朝、なんだこれ、気持ち悪い・・と感じて購読をやめてしまったことがある。”メディア”というものの存在意義を考えることがとても多い)写真のDVDなどが送られてくる。
添えてある手紙を夫が読んでくれる。
今回の記事は「まよい道」というのがテーマで、以前からの知人でもある夫の半生を題材に書きたいと、マアヤさんからの依頼だった。
最初から、まよい道じゃないよねえ、とは言ってたんだけど、取材中のやりとりにわたしの中では???がたくさんで、彼女の頭の中の、そうであるはずと、勝手に決めた夫の形にはめ込もうと誘導尋問しているようで気持ち悪かった。
それでも根気強く取材が終わった後もやりとりをしていた夫。
わたしは半ば呆れ、腹が立った。
そこにかける時間をわたしや家のことに回して欲しい、なんでそこまでする必要があるの?と。
電話でのやり取りで、お互い納得のいくところまでいったと喜んでいたけれども、(わたしはそのやりとりを聞いていて、バカかこの人達、と思っていた。幼稚。)出来てきた原稿を読んだらとてもそこまでは到達していなかった。
見せなくていいよ、こちらから何か言うことではないから、と初めに言っていた夫だったが、やはりどうしても納得しかねる所と事実関係の誤りは正してもらう。
これを読んだ人達に、ここでの生活の何かが伝わるとは思えないし、何かがすっぽりと抜け落ちている。
理由として考えるのは、一つは最初にわたしがマアヤさんに感じた、この人は言葉の力を信じていないということと、もう一つは最初に「まよい道」という、連載記事の形とそこで取り上げる人のイメージ像があって、そこに合わせて書かれたからだと思う。
でも、それでは夫を取り上げた意味があるの?
何のために、誰のための記事なの?
先日、「みんなでつくる中国山地」という本の記者さんとやり取りした時にも感じた違和感、取材される側への配慮のなさ。
その方にも、取材されるこちらも時間と労力を使う。それに対しての見返り(金銭的でなく)がないことをやりたいとは思わない、と言うと、今まで、読む人のことは考えていたけれど、取材される側の人のことを考えることはなかった、と言われた。
近江商人の言葉に「三方よし」というのがある。
売り手(取材される側)よし、買い手(取材する側)よし、お客様(読み手)よし。
どれか一つ欠けても成り立たないし、どこが上とか下とかもない。
メディア、今はこうして自分で発信できる。
だからこそ、丁寧に、嘘がなくやりたい。
22時過ぎに寝室。
夫はまたYouTubeで上手な田植え機操作の動画チェック。
わたしもMacに向かってこの日記を書く。
夫からも、いつまで続くかな?と言われる。
自分でもそう思うけど、案外続けていけそうに思う。
書くことが好き。