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『天才になれない僕らはいつだって天才を夢見る』

おはようございます。
ラミンです。

なんとなく歌詞でもなんでもないタイトルで始めてみました。

人間はそれぞれ何かの分野では天才であると僕は思ってます。
努力の天才、褒めの天才、スポーツの天才、芝居の天才、生きることの天才、写真の天才、天才の天才。
天才の天才ってなに?

みんな自分が天才であるって事実に気付かなかったり、見えなかったり、知らないふりをしてます。
言わばあれです。みんな自分の人生の主人公、的なあれです。

言わばどういうことだ?言い換えるな。もうちょっと考えてから言い換えて。


写真の天才

前提

ラミンは写真の上手い人を見ると劣等感でぐわーっと押し潰されます。これはね、もはや呪いです。
前提としてラミンは写真に対してこう思ってるよーみたいなのを述べます。

以下、これから書くことは、仕事にしたいけどできないまま趣味でカメラやってるラミンが偉そうに思ってることです。
読みつつ偉そうやなこいつって思ってください。

ではどうぞ。

写真は撮ってる人の内面だったり、撮られてる被写体の内面を写し出すものだと僕は思ってます。

対象が人間なら、
・関係性
・その人(合わせ持ってる属性:性別、人種、社会的位置)に対する解像度や感じてること

対象が景色なら、
・景色(社会)との物理・心理的距離
・その景色に対する視点(普段どこを見て街を歩いてるのか)

浜辺に来たとして、
海を見るのか、楽しんでる人を見るのか、
飛んでる鳥を見るのか、食を楽しむのか、
ぽつんと置いてあるベンチを見るのか、
海に反射する太陽を見るのかなど。

楽しんでる人を見て撮る人は人間関係に難を抱えてなさそうだなぁみたいな。

などなど、意外と如実に出るものだと思います。
そこに必ず意思が介在して且つ全部読み取れるかどうかは別として。

自分の写真なんかは、
「この時はこんな感情だったなぁ」「好きに溢れてる」「友達少なそう」「他者(知り合い以外)との関係性が見えない」とか色々写真によって思ったりします。
超主観ですけど、こんな感じです。

浜辺。ポツンと一つだけあるベンチが目に映りました。
高い建物が建ってない工場地帯、湾岸沿い。
広がる空に浮かぶ月。まだまだ陽は明るく綺麗に見える月。
海へと続く道。
稽古場のバルコニー
山を登る道中

な感じです。
その上全般として共通して思うのは、
他者の存在が欠如してます。通りすがりの人とか、そこにいる人とか。
そこを突き詰めていくと、
そもそも他人を勝手に撮るストリートスナップが苦手とか、知らない人に写真に写って欲しくないとか、SNS載せるとき申し訳ないなぁとか、
ラミンが知らない人にカメラ向けられるの本当に無理なのとか、人と一緒にあんまり出掛けないこと、出掛けても写真あんまり撮らないこと(撮りたいものしか撮りたくない)とか、あったりします。
渋谷のスクランブル交差点とか死ぬんじゃないかなって思ってます。信号を渡る時のカメラ向けてる率尋常じゃないです。

もちろん職業柄人を撮ることも多いし、それはそれとして切り替えて記録として撮ってます。
その中でも自我を出しちゃうときもあります。
いわゆる稽古場写真・記録写真っぽく撮らなきゃいけないのに、変なアップしたり、ローアングルで撮ったり。

自我
自我

技術以外の部分でも写真って意外と奥深いんだなぁと思ってます。
ラミン自体は技術は特に無く、独学であれこれ勉強してきたのでまだまだですが。

劣等感

この重い重い前提を共有した上でラミンが写真を嫌いになりかけるときがあります。

素敵だなーって思う写真を見た時です。
技術的にも、技術以外の部分でも。

もちろんカメラをやってる人が撮る写真は上手いし、美しいし、視点や発想が自分にないものだし、見るたびに悔しい〜頑張ろうって思います。
その上手いもただ上手いだけじゃ無くて、構図や技術、機材、周りの協力など写真に写らない部分の力も多くあります。

そのうえで普段カメラをやってない人が撮る写真に心動かされることもいっぱいあります。
景色をこういう風に感じてたんだぁとか、他者との関係の築き方とか距離感とか、主に視点に関する部分かな。あとは技術に囚われず(構図とか陰影)自由に撮ってる感じとか。

曲がりなりにも、たかが4年されど4年。カメラを持ってきた人間(主語が大きいけどラミンね)を折るには十分な気がします。
もちろん写真はライフワークの一部でもあるので割り切るようにはするし、折れることはありません。素直に「素敵!」「すごい!」って思うようにしてます。

そういう時にその人たちは天才だなぁって思います。
もちろんそこに裏打ちされた技術や培ってきた感性もあるのはしっかり理解した上で、それを写真に載せられる(意識的にでも、無意識にでも)のはすごいと思います。

この拗らせはラミンが自分の写真がスーパー大好き故に起きる心理的葛藤だと思います。
一方的な衝突事故です。

自分の写真が好き

そのまんまです。自分の写真が好きです。
なぜかって、ラミンが撮る写真ってラミンの好みが100%分かってるからです。それだけです。
自分の写真を見る度に「こいつ天才なんかな(自分の好みの写真を撮ることに対して)」と思います。

その上で、自分で自分の好きな写真を100%分かって撮ってるのに、
他者に150%200%と上回られた日には複雑ですよね(笑)
自分は写真の才は無かったんだなーって。
「そんなことないよ」って言って欲しいわけではなく、これは僕が勝手に思ってることですが。

天才になれない僕はいつだって天才を夢見て憧れたりします。

なんか今まで思ってたことを言語化したら、こういう風に思ってたんやなーってなりました。
こういう風に思ってたらしいです。
まだまだ拙いところはありますが、大枠こんな感じかな。

雑多なざったざった後語り

今回は音楽に起因しない文章を書いてみました。
でもせっかくなので一曲だけ共有します

日食なつこさんの『音楽のすゝめ』です。


一つ、知識や偏見をまず置いてくること
二つ、好きか嫌いかはあとで考えること
三つ、揺れて動いた心に従うこと
四つ、愛の深さを比べ合わないこと
五つ、神様みたいに信じすぎないこと
六つ、あんまり大事にしまい込まないこと
七つ、どんな歌も終わりがあると知ること
八つ、泣いてもいいからちゃんと次に行くこと
九つ、即ち音楽これ人の心

こういう要素を守って音楽楽しむといいよ。もちろん現実色々あるけど、夢追いかけてみてもいいんだぜ。みたいな曲です。いつもまとめ雑ですみません。
なんか解釈とか噛み砕いて言語化するの苦手で。

たまーに感じて悔しくなるモヤモヤとどう向き合おうかなぁって悩むけど、これはこれで一つの向き合う方法かなぁと。

天才じゃないかもだけど、それは悔しいので、
あーだこーだ言いながら自分を何かの天才だと錯覚して、謙虚に足掻いて生きていきます。

天才の写真です。

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