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音楽が私たちを解き放つ/『日本沈没2020』

(※以下の文章では『日本沈没2020』の内容について、がっつりとネタバレしています。ご注意を)

ひと言で言えば『日本沈没2020』は、ハードボイルドなのだと思う。作家の都筑道夫は、私立探偵・西連寺剛を主人公とした小説『死体置場(モルグ)の舞踏会』のあとがきに、「ハードボイルド・ミステリ」の特徴について、こんなふうに書いている。

 このスタイル(※ハードボイルド小説/引用者注)は、主人公の私立探偵の一人称で書くのが、約束のようになっている。例外もあるが、三人称で書いても、主人公に密着して、その見たところを、読者に見せる。つまり、つねに一対の目が動いて、ものを見ていく小説なのだ。ひとりの目に、見えるものには、限界がある。限界があるから、いっそう理解しようとする。けれども、目は見るだけで、解説はしてくれないから、読者のほうに、理解しようという気が生れる。
 だから、ハードボイルド小説の技法は、カメラ・アイ技法と呼ばれたのだった。

また別の文章(エッセイ「彼らは殴りあうだけではない」)で、都筑はハードボイルド小説とは、「カメラのレンズのように乾いた目を通して、冷静に、正確に、受けとる側の消化力なんぞにはお関いなく、描きだされた文学世界」だと述べる。つまるところ「主人公に密着する」がゆえに「限界がある」「カメラ・アイ」によって、「冷静に、正確に」世界を描き出そうとするスタイル、文体こそが「ハードボイルド」の正体なのだ、と。

『日本沈没2020』もまた、そのような「カメラ・アイ」によって、日本全土が沈没するという大惨事を切り取ろうとする。物語の最終盤まで、全体を俯瞰するような視点は登場せず、カメラはあくまでも実質的な主人公である武藤歩の周囲をぐるぐると回り続ける。
しかもその「カメラ・アイ」は、登場人物の「内面」に(正確に言えば、主人公・歩の率直な表明を除いて)入り込まない。後で述べるラップバトルのシーンをほぼ唯一の例外として、彼らが何を考え、何を欲し、何に怯えているのかは、ただ「運動」によって表現される。

なぜなら、映像は「映らないもの」を見せることはできないから、だ。

それが端的に示されるのが、母・マリの行動だろう。物語の比較的早い段階で、支えとなる人物を失った彼女は、しかしその足を止めることなく、前へ前へと歩き続ける。彼女の口から大っぴらに、喪失の悲しみが語られることはない。しかし彼女が悲しんでいないかと言えば、そんなことはないだろう。むしろ彼女は「前へ向かって歩く」という「運動」によって、全身で悲しみを表し続けている。

何が映っていないのか?

要するに、そこでは「何を映すか」が問題になっている。そして「何を映すか」を選ぶことは、同時に「何を映さないか」の選択でもある。

例えば、第2話のクライマックス、武藤家の父・航一郎を襲う悲劇のシーン。私たちはまず、歩が看板に書かれた文字に気づくカットを目にし、次にシャベルで穴を掘る航一郎の目元のアップと金属音、それに重なるように彼の「ウソだろ」というセリフが来る。
そして少し離れた距離から、爆発音と吹き上がる粉塵が描かれ、さらに他の登場人物のリアクションへとカットは続いていく……のだが、ここで重要なのは、決定的なその「不運の瞬間」は、絶妙なタイミングで画面から排除されていることだ。

もちろん「爆発そのもの」を描かないのは(演出上の、あるいは倫理的な)理由があるのだろう。しかし理由はどうあれ、それは「映されなかった」。選択の結果として「その瞬間」は画面の外で起きている。

同様のことは、第3話でも起きる。武藤家に同行していた知人・七海を襲う、思いがけない不幸。ここではまず、用を足すため同行者たちから離れる歩と七海の姿が少し離れた距離から描かれ、続いて足元に転がっている動物の死体に気づく歩、そして振り向く歩と彼女が目にする七海の倒れている姿……というふうに、カットが重ねられていく。
ここでも「その瞬間」が訪れるのは、画面の外だ。七海が倒れるカットがあってもいいようなものだが、それは直接は描かれない。航一郎の場合は「爆発音」というきっかけがあったが、七海のケースでは音さえもない。それだけに「その瞬間」の、あまりの唐突な訪れがより一層強調されている。

実際のところ、航一郎を見舞う不幸は――東京脱出を目指す一家の過酷な旅において、支えになる「父」の存在感、それを強調するというストーリー展開ゆえに、むしろ「起きて当然の出来事(物語における因果が導く必然)」にしか見えなくなってしまっている。また七海の不運は、この後の展開で鍵を握る重要人物・KITEの闖入によって、ストーリー上、充分な重みづけがされているとは到底いえない。
しかしそうした瑕疵があってもなお、歩だけがセリフで感情を表出することを許され、他の登場人物の反応はその「行動」によって描かれるという点は一貫している。乾いたカメラ・アイで「冷静に、正確に」世界を描き出す、この作品の「スタイル」は確固として揺らいでいない。

音楽によって噴出するエモーション

では、『日本沈没2020』は徹頭徹尾、「冷静かつ正確」な、抑制されたスタイルに貫かれた作品なのかといえば、決してそうではない。そこで鍵になるのが、先に少しだけ触れた作品後半の、ラップバトルのシーンだ。

たぶん多くの人が面食らうであろうこのシーンにおいて、生き残った人々は大海を漂う船に乗り込み、ビートに乗せて自分の心情を吐き出す。そこで吐き出される胸のうちは、決して論理立った何かではない。悲しみと怒りと悔しさと痛みと諦念と、あるいは少しの喜びさえも混じった何か。それは、きれいに整えられた文章から遠く離れ、混乱しているがゆえに気恥ずかしい、ある種の「詩」に近い。しかもそれは、ビートによって急かされることがなければ、決して表出されることがなかった何か、なのだ。

音楽は人を高揚させる。ここで、湯浅政明監督のこれまでのフィルモグラフィーを――『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』の「1969年のドラッグレース」と「買い物ブギ」を、『マインド・ゲーム』の鯨の腹中でのパーティシーンを、『夜明け告げるルーのうた』で主人公が「歌うたいのバラッド」を歌い出す場面を、『きみと、波にのれたら』のカタストロフを、『映像研には手を出すな!』でのバグパイプの高らかな音色とともにスケッチブックの絵が動き出すあの瞬間を、思い出してみてもいい。
『日本沈没2020』で言えばほかにも、山中のカルトで夜を過ごす一行、その前で繰り広げられるレイヴパーティのシーン。そこでは、延々と終わらないダンスビートが倉庫を満たし、人々はかりそめの開放感に浸る。もちろんそれは、日本全土が沈没するという悲劇の前では、あまりにもはかない気晴らしでしかない。事実、歩は見知らぬ男に襲われそうになるのだし、音楽はときに人を暴力へと駆り立てる。しかし、そんな善悪を越えて音楽は鳴り響き、そしてその先に、言葉にできないエモーションが解放される瞬間が――歩と母・マリの和解が来る。

『日本沈没2020』のラストシーンは、歩の独白で締めくくられる。そこで語られる言葉は、この作品が伝えようとしているテーマを――彼女らしい率直さでもって、見ている人に伝えてくれる。そのあっけらかんとしたわかりやすさに鼻白まないわけでもない。しかしたぶん重要なのは、むしろ彼女のセリフがレコードから流れる音楽によって彩られていることの方にある。
要するに、ここで流れている音楽は、劇伴ではない。ここでの音楽は劇(ストーリー)の添え物として、その内容を印象づける伴奏ではなく、実際に劇中の時空間を満たし、歩に言葉を吐き出させるためのビートとなって、スピーカーから流れだす。その音に急かされるように、彼女はこれまでの苦難と楽しかった記憶を振り返り、そしてその先へ――再び昇った太陽に照らされたグラウンドで、飛翔する。

その放物線の「運動」が、鮮やかな「瞬間」が、音楽とともに刻み込まれているのを、私たちは目にすることになる。

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