「『薬屋のひとりごと』“手抜き”騒動から作画技術を考える 視聴者の肥えた目がもたらすもの」を読んで
リアルサウンド映画部に「『薬屋のひとりごと』“手抜き”騒動から作画技術を考える 視聴者の肥えた目がもたらすもの」という記事が上がった(執筆者はすなくじらさん)。
読んでいて、いくつも「えー?」と思う箇所があったので、ふと思い立ってちょこちょこ赤字を入れてみた。とはいえ、あくまで自分の理解している範囲の話なので、間違っているところもあると思う。ご指摘いただけると幸いです。
まずは最初の段落。
「デフォルメ表現」というのは通常、描写対象を意図的に歪曲・変形させる表現方法を指す。くだんのカットで問題になったのは、遠景の登場人物の顔のディテールが省略されている点だったので、ここでは「省略表現」とした方が通りがよい(ついでに「表現の描き方」は冗長なので、シンプルに「表現」に)。
続いて、2段落目。
「フルアニメーション」という表現は、歴史的には1930~40年代のディズニー・スタジオが採用していた表現方法を指す。ディズニーが採用していたのは、いわゆる1コマ作画(1秒間に24枚の絵を描く)なわけだが、そこでは(実際に作品を観ればわかるように)原画が背景までカバーしているわけではない(人物と背景は、それぞれ独立して描かれている)。また細部をどこまで描き込むかは、「フル/リミテッド」の判定とは関係がない(むしろ「細部まで描いた原画」という表現を採用することで、読み手に「ディテールが描き込まれているのがフルアニメーション」という認識を与えかねない)。あともうひとつ、後半にある「自然で実写に近い動き」という部分だが、1コマ作画と「実写に近い」かどうかは、じつは関連しない。ここは突っ込みはじめると大変なので、省略。
なので、書き直すとしたら「「フルアニメーション」は、1秒間に24枚の絵を再生することで、より自然に近い動きを実現する」あたりが妥当ではないでしょうか。
「遠い」という表現は、登場人物とカメラ位置の距離を指していると思われるが、その場合、「ロング・ショット」と表現するのが通例だと思う。また、ロング・ショットでは(私たち自身の実際の「目」がそうであるように)ディテールが省略されることが多い。そうしたごく標準的な手法を「意図的」と表現するのは、無用な混乱を招く気がします。
で、3段落目。ここは大した話ではないのですが。
作画監督のもああんの経歴部分。『葬送のフリーレン』に関する記述だが、オープニング映像の放送・配信バージョンとノンクレジット・バージョンで、参加するアニメーターは変わっていない(はず)。ゆえに、ここはシンプルに「『葬送のフリーレン』のOP映像」でOKでしょう。
そんでもって、4段落目。ここが問題なのだが……。
この段落は本来、腑分けして語らなければいけないことが一緒くたになっている印象がある。なので、修正しようとすると、かなり大変なのだが、ともかく――。
1)ここで言う「デジタル技術」は、制作環境におけるデジタルの導入を指しているのか、それとも観客側の環境変化を指しているのか、判然としない。視聴者がディテールに気づきやすくなったという意味では、受像機の解像度の問題が大きい気がする。
2)「従来の省略された作画手法」が何を指しているかが、よくわからない。「絵の描き込みを減らすこと」も「口パクだけ動かして、他は動かさないこと」も、あるいは「意図的に中割りを飛ばすこと」も、いずれも「省略された作画手法」だが、それがどのような効果をもたらすか、そしてその効果が演出意図に沿ったものかどうかは、時と場合による。
3)「動画スタッフが原画を正確に扱えなくなる問題」という記述はたぶん、まつもとあつしさんによる文春オンラインの記事( 「「ブラッククローバー」に「異世界おじさん」…アニメの放送休止・延期がなぜ続く? 「日本のアニメ業界がいまだに手描きの原画に頼ることが…」」 https://bunshun.jp/articles/-/61123 )にもとづく記述だが、のちにASCII.jpに掲載された記事(「融合に失敗すると「絵が溶ける」!? ベテラン作監が語る令和のアニメ制作事情」 https://ascii.jp/elem/000/004/133/4133077/ )でもフォローされているように、アナログ(原画)からデジタル(動画・仕上げ)へ制作工程が進む際にミスが発生することを指していると思われる。制作現場へのデジタル技術の導入および視聴環境の高解像度化に伴って、そうしたミスが頻発するようになった……という文脈でこの事例が取り上げられているようだが、しかしこの事例が「従来の省略された(アナログでの?)作画技法」とどう関連しているのか、パッと読んだだけではよくわからない。
4)また、いわゆるセルアニメーションでは、背景と登場人物(セルとも言う)は、そもそも異なる画法で描かれている。というか、2つの異なる画法が同居していることによって、観客の注意が自然と登場人物に向くように設計されている(言い換えれば、「違和感がある」ように意図的に作られている)。だから、その「差」を埋めべきなのかどうか、埋めるとすればどういう意図において埋めるのか――要するに、どんなスタイル(文法)を採用するかは、その作品の目的に左右される。「作画と背景の調和」というと「差(ギャップ)」がない方がよい、という結論になりそうだが、たぶん話はそんなに単純ではないと思う。
次はページをめくって、アニメーション制作におけるCGの導入について書かれている箇所。
CGレイアウトを組む利点は、正確なパースをもとに作業が進められる点にある。特に室内シーンでは、カメラ位置が変わる際にミスが起きやすい(ここでは「建物」とあるが、正しくは「室内」だろう)。……のだが、そもそもこの記事は「作画の省略」を問題にしていた気がする。正確な「レイアウト」が、画面にどのような効果をもたらすかは、また別の問題ではないでしょうか。
で、結論部。
「向き合う必要があるのではないだろうか」……って、えらく投げっぱなしな結論(?)と思ってしまったのだが、それはともかく。
要するに「洗練された視聴者の目」に耐えうる画面作りが必要だ、ということなのだと思うのだが、それが具体的にはどのような「画面」なのか。よくわからなくて、不安な気持ちになってしまう。
作画技術の進展(「進歩」や「進化」という言葉は使いたくない)やCGの導入によって、アニメーションの「画面」は変化した。しかし「画面」を支える技術はつねに「変化」し続けているし、その意味で、私たちはつねに「変革期」の只中にいる。
例えば1950年代の日本映画を観ていると、映画スタジオとそこに蓄積されていた大量の技術――美術セットと照明、カメラが緻密に連携しながら形作られていく画面の連鎖――に思い至る。そしてその大量の技術の一部が「今の画面」を支える技術に流れ込み、また一部は完全に使えなくなっているという事実に、驚かされもする。
そんな具合に、「画面」を形作る技術は日々、変化しつづけていて、また私たち自身も――それこそ『薬屋のひとりごと』の省略作画に違和感を覚えた観客のように――その「画面」の変化によって、感受性を変化させていく。そしてそんな「感受性の変化」は翻って、画面を形作る「技術」の変化を促し(私たちは、無声映画しかなかった時代、観客がどうやってその「音のない画面」を観ていたのか、想像することしかできない)、そうして「画面を作り、見る」という営みは続いていく。
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