見出し画像

私が自分を偽者と思う理由

 私はどうも自分が“本物”ではないという気が昔からしていて、なにかが上手くいって“本物”扱いされるたびに余計に偽者であるという感覚が強くなるので、なんだか申し訳ないような気がしたり、最後には真実の目をもった人間が登場して私の偽者性を暴いて破滅してしまうのではないかという気がずっとしている。

 このように、自分を偽者だと感じることについての書籍をいま執筆しているのだが、それが意識に上ったのは詩人の森本孝徳さんが、私の詩集『悪意Q47』について「のべつ幕なし「モックであること」を気に留めつつある尾久と対面する」と書評で書いてくれた1)ことに端を発することを述べておきたい。

 さて、他人を偽者だと感じることは、少なくとも精神科の業界ではありふれている。ある親しい人が、見た目はそっくりだけど別人に入れ替わっているという妄想は、Capgras妄想と呼ばれ、統合失調症で比較的よく見かける症候である。ときどきは右の前頭葉などが障害されている人でも見かけることがある。

 いつも通りの診察なのに「本当に尾久先生ですか?」と疑り深く聞かれたり「一緒にきているのは母ではありません」などというために、Capgrasがあるのだろうと知れるのだが、相手の心のうちでは、私やお母さんは、見た目はそっくりだけど別の人間になっているのである。

 これとは反対に、全く見知らぬ人をみて、自分の既知の知り合いだと思うという妄想もあって、これはFregoliの錯覚と言われている。Fregoliというのは変装の名人であったイタリアの喜劇俳優にちなんでいるらしいが、まさに、知人が変装していると思い込むのである。

 たとえばスタバなどで年恰好の全く違うバイトの女子大生などに対して、突如「おかあさんなんでしょ!」などと中年が話しかけたりしているのをみると、ああこれはFregoliの錯覚があるのだなと分かるわけである。そのような場面はスタバで一度として見たことがないが。

 このように、「他人」を偽者と感じることについてはよく知られているのだが、「自分」を偽者と感じることについてはあまりよく知られていない。

 自分が自分でないような感覚については離人感などと呼ばれることがあるが、ここでいう偽者性はそうではない。自分は自分なのだが、“本物”ではないのである。

 本物、という言葉が、一体何を意味しているかということを明確化しないと、話がどうもはっきりしないような気がしてきた。

 私の感覚からすれば、大谷翔平さんや、白鵬関は本物である。どこにも偽者要素がないように思える。まっとうなことをやって、まっとうに本物らしい結果を出している。つまり、本物≒王道と言い換えることができるかもしれない。

 ところが、王道を進んでいない、王道から外れたやり方をしているにも関わらず、世間的には王道とみなされるという現象があって、これが高じると自己の偽者感に繋がるのではないかと思うのである。

 そうすると、あたかも私が大谷翔平さんや白鵬関と同等の結果を出しているかのような言い方になってしまうので訂正したいのだが、言いたいのはそういうことではない。

 資質に見合わずに結果がたまたま出てしまう、ないしは邪道なのに結果が出てしまうという感覚を持ったときに、自分は偽者だという感覚を抱くのではないかということである。

 つまり、自分にとっての「正統派」「王道」という概念が存在していることがまず前提となる。

 そのイメージから外れたとき、もはや自分は偽者になるわけだが、にも関わらず結果が出ると、偽者なのに結果がたまたま出てしまったという罪悪感に繋がるのだろう。

 そうすると「正統派」「王道」という概念に縛られていることが何よりの問題なのだと分かる。そのとき、私のいう「正統派」や「王道」は、客観的な指標ではなく、私固有の「正統派」「王道」のイメージに過ぎない。

 その固有のイメージを追いかけると、万能的な、なんでもできるスーパーマンのような人というのが私にとっての「正統派」「王道」であり、かといって、自分がそうかというと、ここまでの人生で何度も「スーパーマンであればここでこんな失敗はしない」という失敗を重ね続けてきている。

 失敗といっても、ふつうの、誰でもする失敗なのだが、私のイメージの世界では失敗を重ねたことで、「スーパーマン失格」の烙印をすでに押されており、これが偽者感なのではないかと思うのである。

 最新の書籍では、このことについて9万字くらいに展開しているので、ちょっと先になるとは思いますが、ぜひ刊行したら読んでください。


1) 森本孝徳: 超能力対純情, 交野が原(90)78-79, 2021


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?