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もう一度レッドオーシャン
2月に入ってから調子が変わってきている感覚があって、簡単にいえば引きこもりのようになっている。
しかし、実際に行動として家に引きこもっていたり、オンラインで仕事をしていることの比喩として引きこもり、という言葉を使っているわけではない。
世間との精神・心理的なネットワークを絶っているような状態をして、引きこもりと言っているのである。
たとえばSNS、とくにTwitterはほとんどみていないし、呟く回数も極端に減った。みているのはENHYPENとKep1erの公式アカウントとファンアカウントくらいであって、その他のアカウントが述べている文言をみるのが少ししんどい感じがある。
このしんどい感じ、というのをもう少し詳しく解剖してみると、「億劫さ」に近いかもしれない。まず、文章を読むのも億劫だし、読んだ内容の、頭に入ってくるスピードや、そこから関連して別のことを着想する瞬発力なども欠いている。深く考えたり、調べてみることもできないな、という感じがある。
特に、学術的な内容がいちばん億劫で、さらに知り合い同士のやりとりなどもあまり読みたい感じがしない。
これは一体なんなのだ。もしかして精神の調子を悪くしているのではないか、と思う向きがあるかもしれないが、そうではない。これはある種の作業を進めるために、自己で制限をかけた結果発生した心理状態であると考えている。
基本的に私は、誇大な自分を想定し、その自分こそ本来の自分と考え、誇大に設定した虚像と、実際の自分の姿を重ねることを目指して努力をする、というスタイルをとりがちである。
たとえば相撲を始めるなら、本来の実力はちびっこ相撲の小結くらいの童子に2秒で負けるレベルなのにライバルは白鵬関と考えたり、ダンスを始めるなら、まずは音楽に合わせて身体を動かしてみることから始めようレベルなのにライバルはBTSと考えたりしがちである。
馬鹿をいえ、そんなやり方で上達するはずがないだろうと思うかもしれないが、このような設定をすることで、この程度の質と量の努力を続けていても白鵬関にはなれないという事実に直面するため、どうすれば白鵬関のようになれるかを考え、工夫して稽古に励むようになり、実際に白鵬関になることはなくても、上達が早くなるのである。
しかし、徐々に気づくようになってきたのは、私のなかでこのやり方がうまくいっているのはいわゆるブルーオーシャン的な場、要は競合する人が誰もおらず、現実を見なくて良い場のみであることが多い、ということである。
つまり、今自分のやろうとしていることを他に誰もやっておらず、先達も誰もいない場合に限って、うまくいくやり方なのだ。
目標となる人がいないわけだから、この業界の世阿弥になるとか、この業界のマイケルジャクソンになるとか、誇大に設定する自分の虚像も、実際には実力を比べようのない相手になり、周りにもライバルがいないために、実力のなさに絶望することもないまま生きていけるようになる。
例えば切り口さえよければ、他にやっている人がいないので細部のクオリティが低くても自動的に1位みたいなことがありうる。
そうすると、現実に直面してへこたれるということもなく「俺はマイケルジャクソンだ、アウっ!」とスムースクリミナルの冒頭部分の叫び声をあげながら楽観的に日々を過ごしていくことになる。
このやり方をしていると「うっしゃー、マイケル的な気運が高まってきたぜ」とデンジャラスの後半のガニ股のようなポーズをしながら、誇大な気持ちが強くなったときにだけどんどん作業を進め、そうではないときは何もしない、というリズムが生まれるようになり、結局気運の高まりの強さというか、最初の勢いの強さだけで一息で作業をするようになる。
それで結果が出ているのであれば良いのではないかと思うかもしれないが、ここには問題があって、他者と比較がなされたり実力が評価されることで現実に直面しながら進めざるを得ないレッドオーシャン的な場や、誇大な気分になりづらい興味のない分野に関する作業が捗らないという点である。
しかし、現実にはこのように現実と直面しながら自らの至らなさを実感し、その悔しさで努力を重ね成長をしていくという、ごく一般的なマインドを振り絞らないと前に進めない場面も多いわけで、我々は普通こういう精神を受験勉強や部活動などで涵養するのであるが、他に比べられる相手がいない場で自分の現実を見ずともなんとかなる生活をしていると、これを忘れてしまうらしい。
この事実にここ2年くらい薄々気づきながらも生きてきたのであるが、ここで一つ逃げ場を作らずにしっかり現実と向き合って進めるような作業だけをしようと決めたのが2月で、誇大な自分を想定して現実を否認するという技を使えなくなった結果、たとえば学術的なツイートなどをみると、これまでは誇大な感覚に隠れて見えていなかった微細な至らない部分などが見えてきて、それがしんどいのだと思う。
結果的に引きこもりのようになっているのは、現実に直面してもなお逃げたいような心もちがあるからであって、例えば最近やたらとオーディション番組ばかりみているのもこれと関係していると思われる。
つまり、自分が誇大な存在になるという技を封じられているため、代わりにデビューという壮大な目標を目指す若者を応援することで、その誇大になる感覚を満たし、現実から逃げようとしているのではないかと思うのである。
しかし、この現実逃避した先で逆に彼ら彼女から教えられてしまったのは、やっぱり現実に直面し、悔しいと思いながらも、また時間がない中や周りと比べて圧倒的に実力が足りない中でも懸命に取り組み、やりきることが、誰も想定していないほどの実力の伸長や成功につながり得るという当たり前のことだった。
あ、一応言っておくと私は精神の調子が悪くないのでこういう取り組みをしているのであって、精神の調子の悪い人は真似しないようにしましょう。
というか、そうか、と今書いていて気づいたのは、精神科医でありつつ自らの精神について語ることの裏面というか、患者さんがどうみるか、という視点を欠いていたなということである。
「現実逃避するな」と私が暗に責めている気がする人がいるかもしれないし、私の内面を覗き見ることができて嬉しい人がいるかもしれないし、「逃げていいですよ」と言いながら反対のことを言っていて信用ならないと思う人がいるかもしれないし、「今日はそういうネタなのね」と普通に受け取る人もいるかもしれないし、まあどんなふうに受け取られるかはその人次第であり、こちらはコントロール不能である。
文章を書く、表現をするということは、自分のことを意識的に書いても、意識していなくても、自分が現れてしまうことである。なので、どのようなことを記述したとしても、さまざまな受け取られ方をしてしまうことというのは避けられず、全てを避けようと思ったら表現そのものをすることができない。このあたりのこと、まだ詰めきれていないなと気が付いた。
さて、そろそろ偽者論の制作にうつらないといけない。ゲラにする前にここで考えたことや反応を振り返りつつ、手元で最後にもう一度推敲したい。
誇大になって書き上げた書物なので、各方面の学術的な妥当性をもう一度検討していかないといけないし、それをするには実力が不十分な部分がどう考えてもあって、しかし、とはいえそのジャッジのレベルを高く保たないと、細部のクオリティの低い書物になってしまうだろう。現実逃避せず、ただ勉強である。
ということで話題がいろいろぶれましたが、現実に向き合い続ける令和4年になりそうです。