箸ヤスメ #1 「或る日の満員電車」
「あんたは痴漢に遭いやすいんだから、いつでもキリッとしてなきゃダメ。せめて顔だけでも。」
数十年前に同級生から言われたことを思い出している。
雨上がりの、各駅電車3本分の人を詰め込んだ快速電車内。
背中に何かかたいものが当たっているような気のせいのような、でもちょっと動いているような。
これぐらいの年齢になると、「うわ痴漢。どうしよう」の気持ちと「痴漢だって触る相手ぐらい選ぶよなぁ」の気持ちでは、圧倒的に後者が勝つ。自分が痴漢の対象範囲だとはもはや思っていないのだ。
いやでもやっぱり、これはおかしい。
そう思ったとき、ふとかの名言を思い出したのだ。
熱気で白く曇った電車の窓に貼られた、黒い背景に俳優が写っている広告の、黒い部分に自分の顔を映してみる。
ぼうっとして、開いてるかどうかもわからない目。そりゃキリッとせいと言われるわけだ。
瞼に力を入れ、眉と瞳の間を狭めてみる。これで少しはキリッとするだろう。
でもなぜかキリッとしない。おかしい。キリッとしてない人でもこの顔をすればキリッと見えるという顔をしているのに。
一旦力を抜き、その広告に写っている俳優をよくよく見てみた。
阿部寛だ。
そりゃ、一般的なキリッとじゃキリッと見えないわけだよ。
阿部寛の顔がプシューという音とともに左右に吸い込まれていった。キリッとできなかったわたしは、阿部寛への敗北感をおぼえながら車両を変えた。
おしまい