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【日本とカンボジア】終戦後のシアヌーク殿下の訪日とその背景について 2

昨年12月25日、【日本とカンボジア】終戦後のシアヌーク殿下の訪日とその背景についてというタイトルの投稿をきっかけに始めた当ブログも、お陰様1ヵ月が経ちました。最近はいろいろなことを書き散らしている、脳卒中でリハビリ中のおじさんの備忘録ではありますが、初心に戻ってこのお題について少し掘り下げてみたいと思います。

このブログを始めた、最初の投稿はこちらです。

さて、上記の記事でも書いた通り、シアヌーク国王の最初の訪日は、微行の資格でした。カンボジアはまだフランスからの完全独立もしていない頃のことです。国内では完全独立を求めるクメール・イサラク運動が激しく、その後の人生同様に板挟みになりながら、バランスを取るのに苦慮していた頃です。翌年の日本再訪問とは異なり、この時期はまだフランスに対しての強行な発言も無く、フランスとの関係も比較的良好でした。在京フランス大使館からも、最大限の便宜供与が図られていると見受けられます。つかの間の休息だったのでしょうか。

在京フランス大使館から日本の外務省への1月9日の連絡によると、サイゴンを出発するフランスのクルーズ船ラ・マルセイユ号に通常の観光客として匿名で参加し日本に来ること、1月19日と21日に横浜と神戸に滞在すること、その間国内を陸路で旅行することを希望されていることが記載されており、入国管理局への伝達と配慮が要望されています。

その後の追加連絡においては、日光、京都、奈良などの観光予定に加え、フランス側から警護官2人が同行すること、在京フランス大使館において昼食会を開催する予定であることなどが伝えられており、フランスが最大限の便宜を図ろうとしている様子が窺えます。


日本滞在中のスケジュールは、以下の通りでした。かなりの駆け足旅行だったことがわかります。

カンボヂヤ国王陛下御日程
(日本交通公社企画実施)

1月19日(土)横浜着-日光-横浜
朝 マルセイエーズ号で横浜桟橋着(午前9時頃)自動車で東京へ向かう(京浜国道)
午前1100 浅草着
午前1105 浅草発東武電車で日光へ向かう
午後0137 日光着自動車で東照宮へ
午後0200 東照宮着ローズ・マンションで御休息
午後0445 ローズ・マンション発自動車で東武日光駅へ向かう
午後0510 日光発東武電車で浅草へ向かう
5
午後0735 浅草着自動車で横浜へ向かう(京浜国道)

1月20日(日)東京-京都
横浜発東京へ向かう(時刻未定)
フランス大使官邸(港区鳥居坂◯六小田ハウス)着
東京見物
午後0850 東京駅発国鉄で京都へ向かう

1月21日(月)京都滞在
午前0633 京都駅着自動車で洛陽ホテルへ、朝食及び御休息
自動車で市内見物
東本願寺、旧御所、絹織工場
午後 市内見物及びお買い物
平安神宮、三十三間堂、漆器、七宝役、陶器、各工場、骨董店
夜 日本料理店で晩餐、洛陽ホテルご宿泊

1月22日(火)京都-奈良-大阪-神戸
午前0730 京都発自動車で奈良へ向かう
午前0830 奈良着鹿苑、春日神社、大鐘、大仏を御見学
午前1000 奈良発自動車で大阪経由神戸へ向かう
午後1300 神戸桟橋着マルセイエーズ号に御乗船

日本での滞在においては、日本政府による最大限の接遇が行われました。具体的には入国通関、旅行中の護衛の手配、交通公社に対する旅行中の便宜供与の口添えなどに加え、国有鉄道に対しては特別車の増結、随行員14名も含めた一向に対する一等切符の無償交付の依頼が行われ、寝台列車での旅を楽しまれました。また、東京駅での出発にあたっては、正面玄関から駅長先導での案内による国賓待遇の接遇がされたとの記録が残っています。外務次官からの事後の情報共有の宛先からは、各省庁連携のもとに対応したことがわかります。

外務次官から関係各所への事後の謝意連絡


殿下は、このような日本での接遇に満足だったようで、日本を出発してすぐ、同行していた大臣は船上から下記のような電報を発信しています。

ラマルセイユ号船上から発信された電報
受信した電報の訳文
受信した電報の訳文

若い頃の太平洋戦争における日本また日本人に対する印象に加えて、このはじめての日本訪問での好印象が、その後の戦後賠償の放棄や、日本人移民計画につながったのかもしれません。

引き続き、翌年の2回目日本訪問についても書きたいと思います。

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