不可能が不可能のままだとしても、だからこそあきらめちゃいけないんだ
できないとわかっていても、願ってしまうことがあります。
「不可能だからこそ、あきらめちゃいけない」
あきらめなければ不可能は可能になる、という話ではありません。
不可能は不可能のままだけれど、それでも、だからこそ、あきらめちゃいけない、という話を書いてみました。
「白人は反人種差別主義者(anti-racist)にはなれない」
馴染みのないトピックかもしれないので、飛ばしてもらっても構いません。
こないだの授業で読んだ文章に、こんな一説がありました。
The best a white person can be is a white anti-racist racist.
-Ricky Lee Allen "Whiteness and Critical Pedagogy"
「白人は、ベストを尽くしても白人-反人種差別主義-人種差別主義者にしかなれない。」
アメリカには、白人が白人という人種であるというだけで利益を得られる白人優位の社会システムが残っています。そんな社会に生まれた白人は、その人種によって恩恵を受けている限り、真の意味での反人種差別主義者になることはできない。なれても反人種差別主義-人種差別主義者だ、と筆者は言います。
この文章に教授は、
「これを、白人が反人種差別主義者(anti-racist)になろうとする努力をやめる言い訳にしてはいけない。むしろ、努力し続ける理由として捉えるべきなんです」
と話していました。
ひととひとはわかり合えない
ひととひとはわかり合えないと、ひとは言います。
生まれてから、さまざまな出来事に出会い、それらを判断し反応していく中で、それぞれの感情や感覚や物事の捉え方を育てて。違う人間が、同じ経験に対して異なる感情や考えを持ったりすることは、たくさんあります。
ひとは一見すると似ているようで、実は何ひとつとして共有していない、のかもしれない。そんな中で、わかり合うことなんて不可能なように思えます。
不可能なのかもしれません。でも不可能だからといってあきらめちゃいけないんだと、思います。
願うかぎり、あきらめてはいけない
ひととひとはわかり合えません。それはもう不可能なので、いくらわかり合おうとしても、わかり合えることはないのかもしれません。
でも、わかり合いたいと願うかぎり、いくら不可能だとしてもあきらめちゃいけない。不可能だからこそあきらめてはいけないんだと、考えるようになりました。
ひととひとはわかり合えない。それでもわかり合いたいと願うのならば、わかり合えないという事実はそれをあきらめる理由ではなくて、わかり合おうと努力し続ける理由であるべきなんだなと思う、秋なのに雪が降り積もる夜です。