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【息ぬき音楽エッセイvol.29】 ダモ鈴木と続けること by 村松社長

みなさまこんにちは。カロワークスの村松社長です。
2024年もあっという間に3ヶ月目に突入、年度末という大波に揉まれる毎日を過ごしておりますが、みなさまはいかがでしょうか?

繁忙期ゆえに毎年スルーしがちなのですが、実は弊社カロワークスは昨日3月4日が設立記念日。そして今年でなんと設立10周年を迎えました!

短いようで長い10年。会社としてはまだまだ出来立て、若輩者ではありますが、こうして続けられたのも日々支えてくださるみなさまのおかげです。
弊社noteをフォローしていただいている方々、「スキ」してくださる方々にもビッグラブを!


さてこの節目となる回に取り上げるのは、社長が心の師匠と仰ぐお方、ダモ鈴木さんです。

ダモ鈴木(本名:鈴木健次)さんは1950年生まれのアーティスト。
1960年代後半、14歳だったダモさんは新宿でヒッピー生活を送り、当時「最年少のフーテン」と呼ばれました。
日本に息苦しさを感じて18歳の時に高校を中退しアメリカに密航、その後は弾き語りや長髪に火をつける(!)路上パフォーマンスをしながらヨーロッパ各地を放浪します。

ある日ドイツ・ミュンヘンの路上でギターを弾きながら奇声を上げていたところを、CAN(カン)のホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトに発見され、その日のうちにバンドのボーカルに採用。

ダモさんの経歴の中で、最も有名なのがこのボーカル時代。社長もCANの曲の中でダモさんを知りました。
(CANというバンドは60年代後半に結成され、今もなおミュージシャンたちに多大な影響を与えている存在で、深く掘っていくと地上に戻れなくなるので今回はさらっと触れる程度にしておきます…)

結成メンバーのホルガー・シューカイとイルミン・シュミットがシュトックハウゼンの教え子で、バリバリ現代音楽の理論に裏付けされた、計算された混沌とも言えるCANの曲(これは社長の意見ですが)に、天衣無縫なダモさんのボーカルは不思議な化学反応を起こして、数々の超・名曲が生まれました。

CAN「Oh Year」1971


CAN「Paperhouse」1971

インターネット普及以前は本当にダモさんの情報が少なくて、突然出てくる日本語の歌詞に「えっ、いまの日本語?!」となった記憶があります。

1973年に突如CANを脱退したダモさんは、専門学校に通って職人になったり、デュッセルドルフの企業で正社員として働いたり、しばらく音楽の世界から遠ざかっていたそうです。

そして約10年後の1983年に音楽活動を再開してからは、「ダモ鈴木ネットワーク」として世界各国で精力的にライブ活動を行うようになります。
その方法も少し変わっていて、現地のミュージシャンたちとリハーサルなし・打ち合わせなし・事前準備なしのセッションをする、というもの。ダモさんはこれを「インスタント・コンポージング」と呼んでいました。

2014年に大腸がんが見つかり、40回にも及ぶ手術を受け、先月2月に74歳で亡くなるまで、インスタント・コンポージングのライブ活動を続けたダモさん。
最期まで即興にこだわり、現地のミュージシャンたちにも自分でコンタクトを取るなど、徹底的に「自由」であろうという強い意志を感じます。

インタビューで「僕は過去には興味ない。大事なのは”今”だけです」と答えながらも、別の方には「何年かかってもいいんだ。10年かかっても、20年かかっても実現できれば。私の動きはゆっくりだから」と話していたとか。

「今を生きる」ということは一瞬だったら誰にでもできることかもしれないけれど、「今を生きることを続ける」「自由であり続ける」ことは想像を絶する困難が伴うことだろうし、ものすごい意志と労力が必要だと思うのです。

弊社10年の節目の年に心の師を亡くしたことは本当に悲しいのですが、これは師匠に「続ける」ことの意味をあらためてよく考えろ!と言われている気がしてなりません。
R.I.P. ダモ師匠、そして弊社カロワークスを今後ともよろしくお願いいたします。

それではまた次回!


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