【依頼小説 夕凪の音が鳴る頃に】
わたし、風鳴《かざなり》 凪《なぎさ》は、生まれつき耳が聞こえない。
なぎさとは、風が止み、波が穏やかになること。
わたしが生まれた病院は、高台にあり、病室の窓から、海がよく見えたそうで、わたしが生まれた日、前日の嵐が嘘のように晴れ渡り、あれほど荒れていた波が穏やかになり、キラキラと夕日に輝いていたから、だそうだ。
そこから連想し、わたしの人生が穏やかであってほしいと、この名前になったと聞いた。
でも、現実は甘くない。生まれつき耳が聞こえないことによる弊害は大きかった。学校でいじめにあったり、色々と生活が不便だったり。
例えるなら本当に嵐のような人生を送ってきた。
そして、20歳になった今年。
科学は進み、人工内耳手術を受けられることになったのだ。
人工内耳手術は本来ならば、中途失聴者や言語習得後難聴者になった人が手術の適用となっていて、先天性、および、言語習得前の両側高度・重度難聴で、成人以降に受けた場合には、その効果は限定的だとされていたが、近年、先天性でも改善が見られたという報告があったことから、今回受けられることになった。
あくまでも、手術を受けたからと言って、改善するとは限らない事や、リスクについても説明を受けた。怖さがなかったかと言われれば嘘になる。でも、わたしは、一度でいい、少しでいいから、音を聞いてみたかった。
私の、それこそ夕凪のように静かだった世界に、音が鳴る。そんな奇跡を信じてみたかった。
手術は無事に終わり、
「私の声が聞こえますか?」
と、医者が言う。ああ…!これが声…!初めて聞く声!
「はい、聞こえます!」
わたしは精一杯答えた。自分の声を聞くのも初めてだし、音がない世界で生きてきたこと、嬉しさで泣いていたこともあって、うまくは言えていなかったけれど、それでも、
「手術は成功したようですね。効果があったようです。
これから少しずつ話す練習をしていきましょう」
という医者の返事も聞こえるこの奇跡が嬉しかった。
病院の呼び出しの音、人の話し声、どれもが初めて聞いた音だ。
病院から外に出る。車の音、信号の音、どれもが私には輝いて聞こえた。
当たり前の毎日には、それぞれの調がある。
私には、手術が終わったら、行ってみたいところがあった。海だ。
夕焼けに輝く海の音を聞きたかった。
私の名前の元になった、夕凪の調を聞いてみたかった。
辞書で調べると、夕凪とは、
【夕方、波風が静まること。夕方、海風と陸風とが交差する時、一時無風の状態になること】
とある。多分、無風ということは、音はないに近いんだと思う。
でも、かすかな波の音はするだろう。自分が砂浜を歩けば、足音もする。
夕凪にだって、凪にだって、ちゃんと素敵な調がある。
静かな静かな調が。
わたしは家に帰り、早速、ノートとペンを取り出した。
わたしには小説家になるという夢がある。
ずっと、書きたかったけど、書けなかった小説。
いろんな調を集め、それを物語に書き起こしていく。
わたしの世界に音が鳴ったからこそ、書ける物語をこれから書いていきたい。
まだ、暑さが残る夜、あえて人口の風ではなく、窓を開けて、夜風の調を聴きながら、つけペンにインクを浸し、そっと紙に綴り始めた。
タイトルは、
【夕凪の音が鳴る頃に】