
医師として謙虚であることは良いことなのか?
大晦日に書きかけた記事ですがちょっとたまにはまともなことを書いてみようかと思います。ここには私の反省も当然、出てきますし、良い医師の定義的なものは時代や環境によって変わると私は思っているのであくまでも今日の時点での私が考える良い医師に必要な一つの要素を書いてみたいと思います。
謙虚であること
賛否両論あると思いますが私はここをかなり大切にしています。なぜかと言うと、外科、内科に関係無く、医療は「不確実性」や「予想外」を常に内包しているからです。薬の作用や、手術にしてもそうですが、「なぜこれが効くのかが完全には解明されていないけれど、慣習的にこういう時にこれを使うとorこれをやると大体、患者さんが良くなる」が平然と日々の診療の中に存在します。他にも外来で特に治療介入できることが無い患者さんを、(患者さんが外来通院希望があるので)漫然と定期的に外来で見ていても、ふとしたことで「先生、そういえばこないだ旅行行ってきたんですけど、もう感動的で感動的で、帰国したら症状なくなったんですよ!」みたいなこともあります。なので医師という仕事は常にこの教科書や論文にも載っていないある種の「不確実性」をその業務の中に内包しています。
伊豆の養蜂家さんとのお話
これに関して私が思い出すのが、伊豆半島にあるある養蜂家さん主催の採蜜体験に行った時のことです。若い養蜂家の方とお話をしていて、「私、外科系の医師なんですけど、どれだけ勉強して知識付けて練習して技術磨いても、その更に先のことで困った時にこういう時はまぁこうするみたいのが平然とある世界なのでどこまで行っても一人前という概念が無いし、よくわからないことがたくさんある世界って感じがするんですよね」という私の仕事の話をしたところ、実は養蜂家も似た部分があるとのご意見をいただきました。養蜂家の仕事は生き物と自然を相手にしている仕事なので、「一度として同じ条件や、環境というものが無いのでどこまで行っても先輩職人のこういう時はこう!が全く理解できない時はありますよね」と共感していただけました。その道を極めて来ている人にしかわからない超然的な感覚があるのは医療に限らずなようでした。
謙虚さは医師に必要な要素
回りくどくなりましたが、結論を言うと医師として謙虚であることはとても大切なことだと私は思っています。それは先ほど、書いてきたことが理由です。基本的に医療には「100%良くなる!」とか「絶対に安全です!」は有り得ません。自分が行っている仕事に「自分がコントロールできない部分や予想できない部分」をある程度、内包している以上は、医師もまた「絶対的な自信」とか「自分の技量に対する自信があります!」とか「私、失敗しませんから。」というような態度でいることは医療という不確実性を含む仕事に従事している者としてとても不誠実な態度であると私は思います。知識や技術を磨くのはもちろん大切ですが、常々、どれだけ努力していようが、その自分がやっていることというのは不確実さと隣合わせだということを忘れてはいけないという意味で「謙虚である」ということは大切にしています。(これは患者さんに対してもそうですし、自分の知識と技量に対してもそうです。)
一方で、一部の人からは上記の記載内容は猛反対を食らうのもわかります。医師たるものどれだけ不確実な部分とかわかない部分があってもそこも含めて患者さんの命と人生に大きく関わる仕事なのだから患者さんに安心と希望を持たせられるように嘘でも「絶対、大丈夫ですよ!」とか「よくしてみせます!」と言って自分を演じて患者さんを安心させるのが医者の仕事だろと言う人がいると思います。他にもその不確実な部分を知った上で最善を尽くして予想できる以上の結果を目指すべきとする医師像があるのも事実だと思います。あとはその不確実性を言い訳に謙虚が良いとして自分の医師としての技量を棚上げにしていないか?という人もいると思います。ここでは更にわかりやすくするために、私が医師として「全く謙虚じゃなかった時のこと」を書いてみようと思います。
謙虚じゃない医師だった私
医師は長い受験戦争の過程で、人を蹴落とし合あったり他人を欺いたり、自分の本心を隠したり無視することに慣れているので、プライドの高い自分に気づいてすらいないことがまぁまぁあります。特に新卒の頃の私がかなりそれに近かったです。働いてすぐの私はかなり医療というコンテンツに対して傲慢だったように思います。医療というコンテンツに対する絶対視がありました。するとどうなるかと言うと、医者が言っていることは正しい=絶対に服従すべきというとんでもない思い込みが医師に発生します。
例として出すと、例えば、病状からして明らかに早急な入院と手術が必要な患者さんが外来で目の前にいたとします。この場合、医師として正しい態度は「今すぐ入院の上、治療を始める必要と、今後、治療の一貫で手術が必要です。」と患者さんに伝えることが正しいです。ここで「放っておいて大丈夫ですよ。」と伝えることは明らかに医師としてあるまじき行動です。しかし、患者さんにも例えばですが、仕事の都合や旅行の都合や親戚の用事や町内会、奥さんに入院されちゃうとご飯食べられない、旦那が入院してくれるとしばらく家が平和で楽など挙げ始めたらキリが無いですが医療における正しさは脇に置いておくとして、患者さんにとっての自分の生活軸における優先すべき事項があります。言ってみれば患者さんにとっての正しさがあります。だから、当然、医師から「入院です。手術が必要です。」とか言われても青天の霹靂で「え?今すぐですか?えだって、準備もできてないし、〇〇もキャンセルしないといけないし。」とか「いやぁ入院たってこの人、一人じゃ生活できなんですよ。」とかここには患者さんの事情にもよりますが、「調整したい予定や都合」があることが多いです。かつての私はこの患者さんの事情をバッサリ無視する医師でした。患者さん側の都合を言われると「いやいや、だってこれどう考えても入院必要ですよ。他に考えようが無いです。」とか「いや、こんなん入院ですよ。常識ですよ。」位のことを言っていました。しかし、この医師としての正しい態度というのは、どこか自分の言っていることは正しい、知識は正しいという「医療に対する過信」という傲慢な態度があると今となっては思わざるを得ません。自分が言っていることは正しいわけで、「不確実な部分は無い」と勝手に思い込んでいるわけですから、自分を正当化するためには患者さんの言っていることがおかしいという態度になります。そうするとどうなるかと言うと、当然、患者さんは反発します。「いや、今日、入院って言われても無理ですよ。」とか「先生にとっては常識でも私達からしたら初体験ですよ。」とか色々なパターンがありますが、とっても主治医としてのファーストコンタクトにおいて患者さんにとって印象が悪いのと明らかに患者さんから嫌がられます。時には主治医交代してと言われることもあります。仮にどれだけ良い医療を提供していようが、どれだけ正しい医療を提供していようが、医療というものが不確実性を含んでいる上に成り立っているというその謙虚さとそこを踏まえているからこそできる「患者さんが納得できるような説明の仕方」が無ければ、それはただ医療を正当化したいだけの自己満足で患者さんも医師も幸せにはなりません。
今はどうしているのか
さて過去の最低な医師像をここでは出しましたが、じゃぁ今はというと。例えば入院と手術が必要な患者さんが眼の前にいたとします。今はどうしているか。まず最初にご本人とご家族に病状の説明をします。何が起きていてどういう状態で今後どうなることが予想されるかを患者さんに伝わるように丁寧に説明します(ここは伝えているつもりでは伝わり切って無い時もあるのが私の力量不足なところですが)。次に、患者さんのニーズに照らし合わせて、どうしてその治療が必要なのか、治療するとどうなるのかを患者さんのニーズに照らし合わせて説明します。特に「〇〇な状態になりたいのであれば△△が必要です」とか「△△以外の方法であれば他にこんな方法があります(ただし治療として効かないことがわかっている場合には、あんまり効かないことが多いですけどねという文言を付けます。)」というような形であくまでも治療の選択をする最終的な権利は説明を聞いた患者さんご本人にあることをそれとなく伝えます。後は入院や手術が必要云々というのは補足的な話でしか無いですが、それらが必要になる場合にはどんな流れになるのかを丁寧に説明します。そのうえで、ご家族と患者さんご本人の希望と質問を聞いて最終的に主治医としての意見も入れた上で、主治医と患者さん、ご家族全員が同じ目標を共有できるような説明の仕方をすることを意識しています。例えばですが、患者さんご本人は直近で入院してすぐ治療したいが、疾患としては猶予があり待てる。一方でご家族はご家族で今、入院されると家のことをやる人がいなくなるとか繁忙期で面会に来られないから時期をずらして欲しいと思っているような場合(もちろん 逆もあります。)には丁寧に疾患とどれくらい待てるのかや入院がどれくらい必要になるかや治療した後にどのような流れになるのかを丁寧に説明します。この後の流れはケースバイケースですが、患者さん本人が「いや、もう早くやっちゃった方が良いからやろうよ」と言ってご家族を少し強引に丸める場合、ご家族の都合を優先して患者さんが治療の時期をズラす場合、まぁ他にも具体例をあがればキリが無いし、色々ありますが、ここで私が大切にしているのは「医師だけの判断」「主治医だけの判断」にならないように気をつけているということです。部分的にでも良いので、家族と患者さんの希望も織り交ぜてお互いに合意形成の上で治療を開始するという点が非常に大切だと思っています。また緊急的な治療が必要な場合にはここは多少、強引になってしまうこともありますが、「このままでは良くならない」し、治療しないとどうなるかをきちんと説明するようにしています。(あくまでもこれらは患者さんとご家族が意思表示できる場合の話ですが)このような説明の仕方をするようになってからというもの患者さんやご家族との合意形成で失敗することは減り、またケースバイケースで非常に柔軟に対応できるようになり結果としてとても感謝されるようになり感謝されるので私も嬉しくなり更に頑張れるというサイクルが回るようになりました。当然、私としても本音としては「この治療に乗って欲しい」という浅はかな欲はありますが、あくまでも最後に選択するのは患者さんなので、患者さんの選択を尊重するようにしています。つまり私はここで自分の治療の中にある不確実性を認識し、治療の絶対視を捨てたことになります。自分の治療が絶対的に正しいと思っていないからこそ、自分が良いと思っている治療では無い方法を患者さんが選んだとしてもその選択を尊重できるようになりました。当然ですが、患者さんがどれだけ納得しているかが以前の私のやり方とは違うので患者さんは自身の選択に対して疑問があればどんどん私に質問してくれますし、納得して治療を受けているので、ちゃんと積極的に治療に取り組んでくれます。そして患者さんも私もお互いに幸せになります。というのが現在の私の診療スタイルです。
あえて不確実なことをしていることを伝えてみる
合意形成の論点とすり替わっているような感じになっているので再度、私達の仕事が内包する不確実性について考えてみますが、私は自分たちのやっていることが完璧では無い。不確実さを含んでいる。どこまでいっても100%の自信が無いということを理解したからこそ、様々なパターンを自分自身が想像し、提示することができるようになり、結果として患者さんにより納得していただいた状態で医療を提供できるようになりました。だからこそ自分達のやっていることの不確実さをあえて最近では直接、患者さんに伝えることもあります。(内容にもよりますが。)特に突き詰めても、理由や原因がわからない、今の医学技術ではわかっていないことについては私はもう最近は「それはわかってないんですよ」とか「それはわからないんですよ」と伝えるようにしています。だって今の技術水準でわかっていないことはそれはわかっていないわけで、それをわかったようなフリをするのは、不確実な部分に目を瞑っていることになるので私はわかっていないことに関しては、わかったフリをする方が不誠実だと思っています。
以上、簡単にですが、良い医師とはの中の私が大切にしている謙虚であることを書いてみました。