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かつらぎ町の万葉歌【和歌山・取材記事】

4月23日、「笠田万葉サークル」の岡田敬三さん、木村哲也さん、作部屋(さくべや)昌子さんにかつらぎ町で詠まれた万葉歌についてのお話を伺いました。
万葉集には4516首の歌が20巻に分けて収められており、そのうちかつらぎ町の「妹山」「背山」についての歌は15首にも上ります。これは筑波山に次いで多く、富士山よりも1首多く詠まれているそうです。
この日は万葉人になった気持ちで、まずは当時の旅の様子を聞かせていただきました。

万葉人の旅

出発地点は時代によって違い、
・飛鳥の都は現在の高市郡明日香村
・藤原の宮は橿原市高殿付近
・平城(なら)の都は奈良市
となるそうです。
いずれも南下して巨勢路(こせじ)(奈良県御所市)を通り、吉野川に突き当たったところで少し西に下ると、そこにそびえるのが真土山(まつちやま)。現在の奈良県五條市上野町から橋本市隅田(すだ)にまたがる山で、当時は大和国と紀伊国との国境となっていました。
ここまで歩くのに飛鳥京・藤原京からは丸一日、平城京からは二日もかかったとのこと。この時代、国境を越えた先は未知の世界、まだ旅に慣れぬ身には不安も大きかったことと思います。

妹山・背山の登場

真土山を越え、さらに西へ25㎞下ると、紀ノ川のほとりに仲良く並んだ大小の峰が見えてきます。これが「妹山」と「背山」です。大きな建物のなかった時代には旅の道中、ずっと見えていたはずで、しかもその名が恋人や夫婦を表す「妹山」「背山」。旅人の誰もが、都へ残してきた大切な人を思わずにはいられなかったのではないでしょうか。

我妹子(わぎもこ)に我が恋ひ行けばともしくも並び居るかも妹(いも)と背(せ)の山
                (万葉集巻七、一二一〇、作者未詳)
(都に残してきたあの娘のことを恋しく思いながら、紀伊路を歩いていくと、うらやましくも仲むつまじく並んでいることよ。この妹と背の山は)

『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)より

妹に恋ひ我が越え行けば背の山に妹に恋ひずてあるがともしさ
                (万葉集巻七、一二〇八、作者未詳)
(都のあの娘を恋しく思いながら背山を越えて行くと、この背山ときたら、「妹」と一緒にいてうれしそうなのがうらやましいよ)

『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)より

万葉集には天皇など位の高い人ばかりではなく、広く大衆の歌も集められています。そのため現在のJ-POPやSNSでのつぶやきのような、自分の感情を直接的に詠んだものも多く含まれています。
心許ない旅の途中、「妹山」「背山」を目にしてつい歌をつぶやきたくなる、そんな気持ちがよくわかりますね。

ところが……もともと「妹山」は存在せず、後付けだった、ということをうかがわせる歌も万葉集には収められています。

「妹山」という山は存在しなかった?

「万葉集巻三、二八五、二八六 持統・文武朝」には、こんな歌が残されています。

丹比真人笠麻呂(たぢひのまひとかさまろ)、紀伊国に往き、勢能山(せのやま)を越ゆる時に作る歌一首
たくひれの懸けまく欲しき妹の名をこの勢能山にかけばいかにあらむ
(口に出して呼んでみたい「妹」という名をこの背山につけて、「妹」の山と呼んでみたらどうだろうか)

春日蔵首老(かすがのくらおびとおゆ)、即ち和(こた)ふる歌一首
宜(よろ)しなへ我が背の君が負ひ来にしこの勢能山を妹とは呼ばじ
(よい具合に我が背の君が名のってきた「背」という名を持つこの背山を、いまさら「妹」とは呼びますまい)

『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)より

タヂヒさん(丹比真人笠麻呂)とカスガさん(春日蔵首老)の二人が「勢能山」(背山)を越えつつ「背」を思い、そこから恋しい「妹」を連想して、いっそこの山の名にしてしまおうか、いやそれはないだろう、というやりとりをしている歌です。

隣にちゃんと「妹山」の峰があるのでは、と思ってしまいますが、この歌のやりとりからは、当時まだ「妹山」と呼ばれる山は存在していなかったということが浮かび上がってきます。

都から国境となる真土山まで旅をして、その後、「背山」までさらに歩き続け、思い出されるのは遠くに残してきた「妹」のこと。万葉人が誰からともなく、寄り添うように並び立つ小ぶりな峰を「妹山」と呼び始めたのは、自然な流れだったようです。

ちなみに、年代と作者がきちんとわかる歌で最初に「妹山」の名が詠まれたのはこちらです。

神亀元年甲子の冬の十月に、紀伊国に幸す(いでます)時に、従駕の人に贈らむために娘子に誂(あとら)へられて笠朝臣金村の作る歌一首 併せて短歌(うちの第一短歌)
後れ(おくれ)居て恋いつつあらずは紀伊の国の妹背乃山にあらましものを
    (万葉集巻四、五四四、笠金村(かさのかなむら)、神亀元年)
(一人残されてあなたの帰りを待ちこがれるよりは、いっそ紀伊国にあるという、男女仲良く二並ぶ妹背山になってしまいたい。そうすればいつも一緒にいられますもの)

『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)より

神亀元年は724年。紀伊国行幸にお供をした官人の恋人から頼まれて、笠金村が代わりに詠んだ恋歌です。この歌から、当時、都でもすでに妹背山の存在は知られており、「妹山」の名が定着していることがわかります。

次いで「背山」が最初に詠まれたのだとわかる歌がこちらです。「妹山」の歌より34年も前に詠まれています。

持統四年(690年)
勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女(あへのひめみこ)の作らす歌
これやこの大和にしては我が恋ふる紀路(きぢ)にありといふ名に負ふ勢能山
             (万葉集巻一、三五、阿閇皇女、持統四年)
(これがまあ、都にあって私が見たいと思っていた、紀伊国への道すがらにあるという、有名な背山なのね)
※阿閇皇女は後の元明天皇

『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)より

背山は『日本書紀』にもその名を記されており、現在も地図に載っている山です。対して妹山をはっきりと示すものはなく、実際にどの山を指しているのか、現在でも諸説あるとのこと。主流となっているのは、背山にある二つの峰の低い方が「妹」、高い方が「背」と見なされたのではないか、という説だそうです。


格の高い寺院 佐野(さや)寺

「笠田万葉サークル」では、かつらぎ町にある史跡についてもお話を伺うことができました。その一つが佐野(さや)寺跡です。

かつらぎ教育委員会 資料

改新の詔(646年)には、
「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」
と「畿内」の範囲が記されています。その中の「南は紀伊の兄山」は「背山」のことで、かつらぎ町が南海道(当時の主要道)の南限だったことがわかっています。
そして、そこを守るため建てられた寺院が、佐野(さや)寺でした。

木製基壇が復元された佐野寺跡。

現在、かつらぎ町佐野には、佐野寺跡が遺跡として保存されています。
通常、建物の土台となる「基壇」には石や瓦などが使われることが多いのですが、佐野寺の遺跡からは木製の基壇が使われていた痕跡が見つかっています。全国的にも木製基壇の類例は少なく、主に中央との関りが深い格式の高い建物に限られているそうです。
また、佐野寺には火災の跡が見受けられ、信仰が衰退して廃寺となったのではなく、意図的に燃やされた可能性が高いとのこと。中央とのつながりが強い寺院だっただけに、政権争いに巻き込まれたのだとも考えられるそうです。

かつらぎ町の文化を残すために

「笠田万葉サークル」の岡田敬三さんはかつらぎ町に根付く文化を子どもたちに伝えてゆくため、2021年10月、「かつらぎ郷土カルタ」を作製しました。カルタを楽しみつつ身近な文化に親しみを持つ子どもたちが増えてゆくようにと、作られたのだそうです。

カルタに詠まれている地域がどこなのか、地図で確認できるように作られています。
かつらぎ郷土カルタを製作された岡田さん

2022年4月には「カルタ地図」を、8月には「カルタ双六」も発行。また、2023年7月には読み札が英語で書かれた「英語版かつらぎ郷土カルタ」が完成しました。かつらぎ町を訪れた海外の人に通りすがりの子どもたちが地元の文化についての案内を始める、そんな町になることを岡田さんは願っています。

万葉歌についての取材を終えて 

私にとって万葉集は教科書の中の教材、もしくは特別に興味を持つ人の研究対象、というイメージでした。和歌山県内に点在する万葉歌碑を目にする機会はあっても、「ふうん……」と、わかったようなわからないような……。意味は理解できても心情が今ひとつ響いてこない、というのが正直な気持ちでした。
ところが今回、飛鳥・奈良時代の背景や当時の旅人の行程を伺い、「畿内」を出て未知の国を自分の足で歩くしかない心細さを思った時、万葉歌がとても身近なものとなってきました。

この記事では内容が反れてしまうため割愛させていただきましたが、「笠田万葉サークル」の方々からは万葉集を編纂した大伴家持についてもいろいろお話を聞かせていただきました。政治的な思惑が渦巻く中、自分の一族を守るために都と地方を行き来して奮闘。そんな日々にありながら、家持は天皇から平民まで4516首もの歌を集めてまとめました。そのおかげで私たちは1000年以上も前に生きていた人たちの感情に直に触れることができます。歌の時代背景がわかれば共感できる部分が増え、妹背山の歌など「人が人を思う心」は今も昔も同じなのだと気付くことができました。

ところでこの日、作部屋さんには大伴旅人(大伴家持の父)のこんな歌も教えていただきました。

生ける者つひには死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな
                          (巻三、三四九)
(生きている者も最後には必ず死んでしまうのだから、せめてこの世にいる間は楽しくいたいものだな)

「酒を讃むる歌  十三首」のうちの一首だそうですが、命は永遠ではないのだと、現代に生きる私たちもしみじみと考えさせられる三十一文字でした。

「笠田万葉サークル」の方々にはこの他にも、日本遺産となっている葛城修験や世界かんがい施設遺産の小田井用水(おだいようすい)、また文覚井(もんがくゆ)のことなど、かつらぎ町に伝わるさまざまな史跡を教えていただきました。
それらは単なる「残されたモノ」なのではなく、万葉の時代からずっと、多くの人たちがそれぞれの考え、思いを持ってこの地に生きてきた「証」で、現在もなお受け継がれている大きな流れの一つなのだと実感できるお話でした。
これから少しずつにはなりますが、奈良の都と隣り合っていた土地・かつらぎ町の史跡を実際に訪ねてみたいと考えています。
                            (大北美年)


*取材を終えて ~ライター部員の思い~*

変わらぬ人のすばらしい心

この日は「笠田万葉サークル」の方々から、かつらぎ町にある「背山」「妹山」を詠んだ歌のお話を伺いました。
今なら、車や電車で日帰りできる旅も
1350年も前、古代の旅は自分の足で歩かなくてはなりません。
気候、風土も違う大和から紀の国へ、知らない土地に入って行くのは容易ではなかったはず……。

午後からは同じかつらぎ町にある佐野寺(さやでら)跡に足を運びました。
万葉の時代、この地を訪れた人々が見た風景の中に、時空を超えて立つ私たち。
不思議な感覚になりました。

和歌山には万葉集に詠まれた風景が他にもたくさんあります。
一番古い歌が、一番新しく私たちの心に
響いてくるのは何故でしょう。
変わらぬ人のすばらしい心に触れることができました。
                            (貞廣清美)

文化が歴史となって未来へ

笠田万葉サークルでお話を伺いました。 その中で、会員の岡田さんが地域郷土愛を育むために、カルタ・双六・地図を作っておられました。

 カルタで思い出す事が1つあります。 私達家族は夫の転勤で、静岡県の富士宮市に住んでいたことがあります。 そこへ私の父が泊まりに来たことがあり、 次女と3人で田子の浦海岸に遊びに行きました。 遠くに富士山が見えて松林の美しい海岸です。 海辺を歩きながら、当時 小学校4年生だった次女が 
「田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」 
と、百人一首を詠んだのです。 学校で百人一首を覚える授業があったのだということでしたが、 歌と景色がマッチして、その時の感動は「すごい!」ものでした。 元国語教師だった父には、素晴らしいお土産になりました!
はるか万葉の時代からの 景色が変わらないからこそ、それが百人一首へと受け継がれ、800年前の文化が歴史となって現代の私達に感動を与えます。
 
紀伊国の美しい風景は、万葉集に100首を越える歌として残されています。約 1300年前の文化を語り継いでゆく「笠田万葉サークル」の活動はとても大切で、 かつらぎ町に妹背の山がある限り、次の世代に万葉集の歌はつながってゆくと思います。
同じように、岡田さんが作製されたカルタも郷土愛を育む文化として、かつらぎ町の未来に残って行くものだと思います。 これからも応援させていただきます! 
                           (大崎美恵子)

かつらぎ町佐野 <紫陽花工房>にて 笠田万葉サークル取材 2023年4月23日

 紫陽花工房主 岡田敬三さん、笠田万葉サークル発起人 作部屋昌子さん、木村哲也さんの三人からお話をお聞きしました。
 岡田さんはかつらぎ郷土カルタを2021年10月に作られ、作成にあたって、かつらぎ町の名所、旧跡、文化、産業、生活等について笠田万葉サークルで慎重に検討、選定されました。
 2022年4月にはカルタ地図を作成、加えて8月にはカルタ双六も発行し、カルタと共に郷土かつらぎについて学習効果を相乗的に高める工夫をされたそうです。
 そして2023年7月には、英語版かつらぎ郷土カルタも完成。英語に親しみながら郷土かつらぎを知ってもらうこと、外国の人にもかつらぎ町の魅力を伝え、関心を持ってもらえたらと考えて作られたとのことです。

 畿内について 
北の端は近江(逢坂峠)、東の端は名張(なつみ廃寺)、 南の端は背山のあるかつらぎ町佐野(佐野廃寺)、西の端は明石。この四つの地域で囲まれたところが畿内だという事をお聞きしました。つまり、南下して背山を越えれば異国であると、当時の人々は覚悟を決めて山を越えていったようです。

大伴家持と大伴旅人
 作部屋さんによると、万葉集の編者・大伴家持は あちらこちらの赴任先で数々の役職を務めながら、万葉集20巻を編集したそうです。 
その中で家持の父・大伴旅人の詠んだこの歌がお好きだと、作部屋さんはその場で諳んじてくれました。

 生ける者 つひにも死ぬるものにあれば この世なる間は たのしくをあらな
 (生きている者も最後は必ず死ぬのだからせめてこの世に居る間は楽しくいたいものだ )

この歌をお聞きして、 古の方も今の私たちと同じ気持ちなのだとしみじみ感じました。

文覚井(もんがくゆ)について
 かつらぎ町は文覚上人にも繋がりがあります。宝来山神社周辺には中世に文覚上人が作った文覚井(もんがくゆ)という全長5㎞に及ぶ水路があり、現在でも田畑に水を運んでいます 。

取材を終えて 

「笠田万葉サークル」の皆さんには、長い時間、沢山のお話をお聞きする事ができました。 とても楽しく、あっという間に2時間以上が過ぎていました。 私たちの質問に丁寧にわかりやすくお答えくださり、改めてお礼を申し上げたいと思います。

撮影・森田真智子


撮影・森田真智子

取材が終わってから外に出て空を見上げると、なんとも不思議な雲と虹(彩雲)が現れていて、ライター部の5人でこうやって取材できたのはとても幸せなことなのだな、と感じつつ、しばらくの間、見惚れてしまいました。
                            (森田真智子)

*参考文献『すごい!ロマン秘める紀伊国 輝く紀伊万葉ー妹背山ー』(笠田万葉サークル)
背山・妹山への考察、また万葉歌とその現代語訳はこちらから引用させていただいたものです。


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