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橋が好き。

ツーリングもドライブも、目的の一つとするところに橋があります。
形状や構造に趣向を凝らしていた明治〜昭和期のものがメインで、特に昭和初期の桁の曲線に意匠がよく表れるものや、コンクリートの材質などの変遷が見られるようなものは惹かれます。
あと、橋単体というよりも、架設された道路の結ぶ集落や峠などの関係性から、生活を左右する重要な橋は年代問わず惹かれます。

先日、妻とドライブの折通りかかった冒頭画像の橋もそう。
長野県木曽町はかつての赴任地で、仕事に関しては極めて酷い思い出と、人生の岐路となった思い出と、一生のお付き合いをさせて頂いている方との出会いと、とにかく振幅の大きい時間が存在する地です。


左側の親柱も、銘板も見当たらない

木曽町から開田高原に向かう国道361号は、昭和62年の新地蔵トンネルが開通するまで、折橋隧道と国道から分岐して山を越える地蔵峠を通り道としていました。
開田高原は長野県内でも厳寒で知られ、真冬は−20℃を下回ることもしばしばです。
昔は冬季の道は寸断され、陸の孤島と呼ばれた地域。
私が赴任したのは30年前ですが、夜這いの風習が微かに残り、色々な伝説や噂話を耳にしたものです。
その地蔵峠へ向かう道の途上、樽沢バス停側に架かる橋。
銘板もなく、名称は不明。
木曽郡内には、木祖村に昭和初期架設の菅橋という土木遺産ともなった有名な橋があり、意匠がとてもよく似ています。
設計者が同じか、とても影響を受けたかのどちらかと思えるほどに。

名称はわからずとも、当時の木曽福島と開田を結ぶ地蔵峠への重要な橋であったことは間違いないところでしょう。

アーチ形状が美しい
桁のデザインも時代を感じさせます
改修は望めない

職場の思い出は割愛させていただきますね。
社会には、ここまで狂っている人間がまともな職場で働く実態があるのかと思える事態もありました。狂気と死体と業に向き合い過ぎた五年間でした。もう少し留まっていたら、多分何人かの人に刃を向けて…いや、もっと巧みな方法で制裁を加えたであろうと思います。

厳しい気候と併せて、良くも悪くもそれまでのいささか繊細な自分から強度のメンタルを培う機会にはなりました。
物理的ななんらかのエネルギーが必要な時、言葉や音楽や芸術が無力であることも学びました。
古の小説も、気取った音楽も、知ったような絵画もクソ喰らえと思ったものです。
それ以来二十年ほどは、小説など所詮は限られた人の想像力の範囲に留まる産物でしか無い、現実には到底及ばぬと、専門書とドキュメンタリーばかり読みましたね。
今でもその影響は残り、小説を手に取っても、自身が経験した現実に及ばぬところでの苦悩が描かれていると、それ以上は読まずに捨ててしまうという有様。

幸い、私に手を差し伸べて迎え入れてくれる職場の方がいて、その方とは今でもお付き合いが続いています。
毎年木曽の道を訪れるのは、当時と今の自身の変化や成長を俯瞰するためでもあります。

そうね、強くはなりました。
私を最も苛めていた男を、最終的には逆に追い詰めました。
全員というわけにはゆかず、私の内心の攻撃性が社会的な昇華を行える職種を求めることに繋がりました。

おかげで、今当時のような境遇に置かれても、おそらくへこたれないどころか、筆一本紙一枚で倒せるくらいの力は付いたと思います。

荒ぶる内心の経緯の一部は、こんな感じです。


昔は希望が今よりあったのでしょう

ダークサイドな記事でお目汚し。申し訳ございません。

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