見出し画像

野間謙治2024年6月時点での自己紹介文(この文章は不定期更新されます)

自己紹介文

1981年11月11日11時11分(時間については詳細は不明。だいぶ話し盛ってます)※この間実家帰って母子手帳みたら昼の3時ごろ産まれてた笑笑
東京、新宿にある東京医科大学病院で生まれる。
実家は渋谷区代々木一丁目の防雷会館というビル。(現在の実家は高尾)

代々木のビルは6階建てだった。そこはなぜかエレベータがなく、6階と屋上に居住スペースがあったので、階段を駆け上る毎日。何故駆け上ってたか?そのビルなんか怖かったのです。自分のウチだけど。ビルでは会社をやっていて、3階と4階は工場、実験室みたいな感じ。遊びにきた友達は、のまん家、バイオハザードみたいだなって言ってた。
そのせいか、生まれてから実家をでる25才くらいまで(大学は北海道の酪農学園大だったので19〜22は北海道で一人暮らし、その後出戻り)ずっと階段を駆け上がってました。

家の横、徒歩1分に、日本で2番目にできたマクドナルドがあり、フィレオフィッシュとチキンマックナゲットで育つ。ちなみにそのマックは現在(2023年時点)で1号店が閉鎖したため、現存する日本最古のマックらしい。

3歳にして、『お母さん、安心して。ボクピエロだから。』と言ったらしいが、これも話し盛り盛りの要素あり。そのせいか、出たがり、道化になりたがり、エスパスでも率先垂範で、コスプレをしがちだった。

生まれてはじめての記憶、山谷幼稚園に通う道がダルかったのを覚えている。今じゃTJAR415kmを目指しているというのに。幼稚園からの同級、Rゾウとは今も仲良し。

山谷幼稚園から代々木小学校へ入学。都会にある小学校。代々木なんて住む人いるのって言われがちだけど、当時ひと学年50人?くらいいて2クラスあったのを覚えてる。

小学校、中学校までは教育ママの影響でずっと塾通い。優等生してました。
中学校は原宿駅に程近い、外苑中学校に入学。部活は野球部。フライが取れない為、内野のサードになり、ファーストまで送球する肩がないためセカンドにコンバート。塾通いは続けさせられてて、夜遅くまで塾通って、勉強してた。やだったなー。けどまぁそうゆうもんか、とも思ってた。

高校は高田馬場にある都立戸山高校という進学校に入学。周りがアタマよすぎだし、もう勉強なんかしたくないって思って、そこから勉強するのをやめました。つまんないしね。

高校時代は人数が多くて友達がたくさんできそうという理由からアメフト部に所属。ポジションはパスを受け取るWR(ワイドレシーバー)。ラン主体チームだった為、年がら年中ストーク(ランのためのブロック練習)を練習。最後までアメフトのルールは理解できず。

高校受験ではやりたいことや、なりたい職業もなく、まわりのみんなが、目指しているという理由から早慶上智をめざして、代々木ゼミナールへ。
しかし、早稲田や慶應めざすも全く成績あがらず。
東京を出たい、一人暮らしをしたいという一心で北海道の私大酪農学園大学酪農学部農業経済学科へ。略して脳軽なんていわれてた笑笑。馬術部に所属するも馬の世話ばかりするのと、アサダチをヘルメットで隠すのが大変で一年で退部。というのは冗談でただ毎朝4時半に起きて馬の世話をするのが、大変で逃げ出したのであります。今じゃ3時に起きて男山に登ってるというのに笑。

農業を志して北海道に行ったのだが、友達の農家で手伝いをさせてもらったりしたが、『こんなにつらいのか、自分にはできない』とあっさり挫折。当時付き合っていた女の子が東京にいたため、東京に就職しようと考え、クイーンズ伊勢丹へ新卒で、入社。

二年間豚肉をスライサーで切り続ける。

何故辞めたのか。一生このままこの寒い冷蔵庫で肉を切り続けるのか、いっそこのままスライサーに、指を入れたら楽になれる、と病んでる自分に気づき会社をやめる。

あと社長や専務が親会社の伊勢丹から出向?天下り?してくる。『おれは一生社長になれないじゃないか』別になりたいわけじゃないけど。今思えば、仕事が辛くて辞めたい理由を自分自身で作りだしていたんだとおもう。

あと野間がサラリーマン向かないなと思うエピソードをひとつ。
新人研修?入って一年くらい?して社長や専務に研修のみんないる前で『専務は普段どんなお仕事されてるんですか?』と質問。ただ純粋にその仕事内容が知りたかっただけなのだが、後あと、全店に『こんな質問をする新人がいました』と店長達にチクリ。まぁ生意気だったんですな。今もそんな変わらないけど。そんなこんなでクイーンズ伊勢丹は丸2年、肉屋のバックヤードでシャカリキに肉を切り続けて退職。

ニート人生へ。

PSPのモンハンを、2000時間やるほどのダメダメ人生へ。ゲームのなかのギルドカードは勲章だらけだが、実生活ではただのニート。たくさんリオレイヤやらリオレウスやら、ティガレックスやら狩猟してました。のちにリアルガチハンターになるとはつゆしらず。

ぶらぶらしていた20代なかば。一緒にモンハンをしていた友人Kが宮司の息子だったため、そのつてで、杉並の大宮八幡宮結婚式場に就職。バイトから正社員までやり六年間ほど在籍。神社は都内でも3番目に境内が広く、近くには和田堀公園などがあり、都内だが、自然が残っていた。その頃から木や森や自然が好きだったのかもしれない。というより田舎への憧れは常にあったのかもしれない。当時浜田山のアパートで一人暮らし。高円寺のスロ専とピンサロに通う日々。何やってんだか。

30歳、合コンで看護師のO絵ちゃんに出会う。なんだかんだ付き合い始めるも、謎に看護師の彼女と神社で働く自分が釣り合わないんじゃないかと感じ転職を考え、彼女から『ワタシ、カレシがリハビリの人だと嬉しい』と言われリハビリの作業療法士をめざす。会社を退職し、高田馬場の日本リハビリテーション専門学校夜間部へ入学。昼間はエスパスのパチ屋でバイト。夜は学生に。


昼はパチ屋でアルバイトをしながら企業理念を唱和させられ、夜は解剖学だ、生理学だ、運動学だと、筋肉の名前を覚える毎日。四年間通う。奨学金も借りたため、借金800万を背負う。エスパスのアルバイトはほんと軍隊みたいだったけど、楽しかったし、学びも多かった。何より今でもお付き合いのあるK池さんに会えたのは自分の財産になっている。ほんと素敵な方です。時給の高いバイトほど、キツイことは多いけど、学びが多い気がします。パチ屋しかり、サカイ引越しセンターしかり。

そんななか、急に彼女が、『ワタシ海外で看護師やりたいの』と。

『そっか、やりたいなら行ってきなよ』
と送り出すも

『それとあなたとの関係も一度精算したいの』

と国家試験目前の1番ハードな時期に振られるw

それまで浦安で彼女と同棲していたが、実家の高尾に出戻り。

何とか国家試験も合格し、新東京病院という松戸の病院に就職。

地獄がはじまるw


地獄の病院勤務時代。主食はラーメン、赤マルボロという医療人らしからぬ、ていたらく。自分としては激務すぎて、まさに地獄だった。病院は千葉県松戸市にある新東京病院。千葉なのに東京🤣。毎日夕方5時まで患者さんにリハビリをやったあと、やれカルテの入力。やれ勉強会だ。やれ回復期に書く引き継ぎ書類の作成だの。連日夜10時ごろまでの残業。日中のリハビリも急性期の病院だったため、ICU(集中治療室)など患者さんも挿管されてたり、意識がない人、点滴をしまくってる方へのリハビリなど、神経をすり減らす毎日。そして情け無いリハビリしかできずにお金をもらう情け無い自分。自分を責め続ける毎日。頑張っても頑張っても報われない。

朝病院のトイレ個室で何も吐けない嗚咽を繰り返す。

四年と800万をかけてなった作業療法士を一年で放棄したのまけんじ。

木こりになると決めたのはある患者さんとの出会いから。

その人は高橋修一さんと言って、住まい塾という団体を主宰されている有名な建築家。

その方がたまたま脳出血で倒れ、新東京病院に運ばれ、たまたま野間の担当になったのだ。いまおもえば、こんな新人OTが担当になり、情けないリハビリしかできず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けどそんな中、高橋さんは優しかった。

『住まい塾で検索してください』
『一年の半分は八ヶ岳にいます』
など、病気で大変な身に関わらず、色んな話しをして下さった。

そんななか野間が片麻痺の高橋さんに人生相談。どっちが、患者かわからない笑

『いやー自分この仕事向いてないんすよー。田舎暮らしとか、身体動かす仕事とかしたいんですよねー』

そしたら高橋さんが一言。

『やったらいいじゃないですか。人生一度きりですよ』

背中を押された気がした。実際車椅子で押していたのは野間のほうだが。

『そうだ、やればいいのだ。』

翌日には辞表を出していた。野間。

続きは木こり編へ。

さて、木こりになるにはどうしたらいいか?
いやそもそもなんで木こりなんだ?

病んでいた病院時代。自分の中でやっても良いなと思えた仕事。それは農業か林業だった。憧れの田舎ライフもしてみたかった。

それはまさに天から降ってきたワードともいえる。「長野で林業」これよいではないか?

「おたく、何されてるんですか?」

「長野で林業やってます」

ただそれをいいたいし、それがやってみたいのだ。林業がなんなのか?なんてまったく知らなかったけども。

木こり編

さて、病院勤めという堅苦しい仕事から木こりになろうと決めた野間謙治。病院勤務時代、とてもこんな人は病院に勤めてはいけないというエピソードをひとつご紹介。

何か病院の作業療法士だけで夕方ミーティングをしてた時、会議がつまらなさすぎる&会議の内容についていけなかった、ワタシはずっと会議資料にうんこの落書きを書いていた。

マキグソを精巧にかき、ハエも書いたりしてた。そんな時に作業療法部門のリーダーの伊藤さんから、「おい!!野間何してんだ!ハナシきいてんのか!!?」
「すいません!うんこ書いてました!!」
もうダメでしょ。こんな人病院にいちゃ。

そして晴れて無職になった野間。次に向かったのはサカイ引越しセンターのアルバイト。20代の若い社員ドライバーに顎で使われる35歳。というのも、とりあえず実家に帰ろうと思ったのだが、アパートの契約の関係で引越しが2ヶ月先に。その間引越しバイトで食い繋いだ。サカイもなかなかなブラック企業で、最後の方はあのパンダが極悪パンダにみえてくる。何がどう、ブラックかって?それはぜひ自分で入社してたしかめてくだされ。

でも不思議だけどめちゃくちゃつらくて、大変なバイトこそ、あとあと振り返れば勉強になったとか、いいバイトだったとか思うから人間は不思議だ。

さて、彼女もなく、仕事もなく、ただ実家の穀潰しになった野間。今も親の脛をべろべろにしゃぶっているわたしだが、当時も母ちゃんと一緒にメシ行ったり、風呂いったり、実家の車乗り回してはあそんでた。

さて林業への就職だが、これがどこからどうとっかかればよいのか?まったくわからなかった。知り合いに木こりいないし、ハローワークでさがしてみても、なんちゃら土木とかはあるけど、ガチ林業は見当たらない。プラス自分の中ではなんとなく田舎暮らしをしつつ木こりになりたいという野望もあり、東京奥多摩とか神奈川の相模原とかなんかちがうかなーって当時は思ってた。

たしかいちねんくらい就職活動兼フリーターしてました。その時派遣でバイトに行っていたのがトッパンフォームズというダイレクトメール工場。クレカの明細書やらNHKの督促状やら株主優待のご案内やらをベルトコンベアーとともに永遠に作り続ける仕事。糊付けのチェックで束になったダイレクトメールを全体重かけて押しまくる。一日中ひたすら押しまくる。まさに歯車の一部。早く木こりになりたかったんだけど、なんか、なりかた分からなかったんよね。

当時自分が知ってた木こりっぽいところって木曽、とか飛騨高山とか、なんか木のイメージがあって、そこの森林組合とかに履歴書送ったりしてたんだけど。
「うちじゃなくても他でやったら?」
とか
「あなた来ても住むところどうするの?」
とか否定的なニュアンスが多かった。どうせならぜひウチにきて!っていわれていきたいじゃないですか?
思えば35歳の都会育ちの訳のわからないやつを採用するほうが企業としてリスクが高いのかもしれない。

そんななかある移住イベントの裏表紙が林業と野間を繋いでくれました。
その名も林業労働力確保センター。まさにこれやん!?逆になんでいままで気づかなかったん!?

さっそくそこの長野支部に電話。

野間「もしもーし。すいません、林業に就業希望の35歳のものなんですが、仕事ありますか?」

担当者「あれ、珍しいね。こんな電話。あーでもつい先日、岡谷で林業就業説明会あったばっかりなんだよねー。それに来て貰えば1番良かったんだけどねー。でもその参加企業のリストあるからとりあえず企業の一覧FAXするね?ウチにFAXある?」

実家にはFAXがあり、早速送ってもらった企業のリストを眺めてみる。20社くらいはあっただろうか。

野間「あのー、これってどこがオススメとか?どんな会社かとかって教えてもらえますか?」

担当者「本当はそういうこと言っちゃいけないんだけどねぇ。教えてあげるよ。そーだなー◯◯森林組合は合併してデカいんだけどあまりいい噂きかないなー。⬜︎⬜︎社はヒトの出入りがはげしいかなぁ」

などなど、この担当者の方が色々と親切に教えてくれた。と同時に自分としては田舎暮らしをしてみたいとの希望があり、リストのある会社所在地をGoogleマップでしらべて「このあたり、何もないなぁ」とか、コンビニないじゃんここ!アガるぅ!(2019年当時川上村にはコンビニがなく、ナナーズというスーパーしかなかった)あと、村人(ムラビト)になってみたい。村に行ってみたいという理由から川上村にある南佐久南部森林組合に見学に行ってみることにした。実家の高尾もわりに近いしね。

つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?