祈りはなぜ聞かれないのか(現役JW二世)
聖書には神は祈りを聞くとある。
そう、神は祈りを聞くのだ。
何も間違っていない。
しかし、祈りを聞いて行動するかは、まったく別の話である。
人間も同じだ。
今、自分たちは色々な音を聞いている。
風の音、雨の音、鳥の音、車の音、全部聞いている。
ただ、無意味な音は聞こえても意識せず、脳に保存せず、いわゆる聞き流しているのだ。
でも聞いている。そこに矛盾はない。
今、自分はnoteに書き込んでいる。
文字を打っているのだ。
これはnoteを運営する会社と関連した記憶媒体に電子信号として保存されている。
自分が毎日祈る内容をnoteに書き込んだとしよう。
画像もないテキストベースなら、そんなに容量も食わないはずだ。
100年分くらいなら保存できるだろう。
ということは、noteも祈りを聞いているといっても過言ではないのではないかと思う。
全部律義に聞いて保存してくれているからだ。
それはつまり、神は聞いてるだけで、何もしないと言っている訳ではない。
神は必ず祈りを聞かれる方 = 今、必ず祈りを聞いて行動してくださる方
ではないということだ。
聞いてはいるが、今は、行動しないパターンが99.99999%あるというのが結論なのだ。
ならば、どんな祈りなら、今、聞いてくれるのか。
イエスは面白いことを言っている。
イエスは、信仰があればどんなことでも祈りは聞かれると言った。
何事も不可能ではないと言っている。
からしの種ほどの信仰があれば、山をさえ移せるのだ。
しかし、考えて欲しい。
実際に山を動かせた人はいないのだ。それに近い事も生じていない。
ということは、誰も、からしの種ほどにも信仰を持っていないことになる。
とんだ皮肉ではないだろうか?
信仰とはヘブライ11:1にあるように『望んでいる事柄が実現するという確信』である。
だから山を動かすには、どうやって山を動かすのか、動かして大丈夫なのか、動かして誰かが死んだり混乱が生じたりしないか、全部を全部考えたうえで、必ず実現すると確信して、神に祈って実現するのだ。
だから自分が今、富士山を東京に移してくださいと祈ったところで、神がそうする理由、そうした結果、などを諸々確信を持たなければ叶わないのだ。
逆に言えば、大患難の最後で、なぜか自分が世界中に配信されたテレビ中継に映っていて、神に反抗する人達から『富士山を東京に移してみせろ!』なんて言われたとしたら、実現するのではないだろうか?
富士山を東京に移す理由が神の名前を高めることに寄与し、人類がそれを見守っており、そうなることを神が望んでいるからだ。
例えば、病気を癒して欲しいと祈ったとする。
それには神が『今』病気を癒すという信仰を持たなければいけない。
楽園に行ってからではなく、今、病気を癒す理由を確信しなければならないのだ。
どうして神が、今、病気を癒さなければいけないのか、その理由が必要だ。
ビルゲイツのような超資産家が、病気が癒されたら、資産を全て売って、全世界に音信が広がるように行動すると誓います、と祈ったなら、それは神の意志に調和するものがあり、かつ、今でしかできないので、その祈りは叶うかもしれない。
もしくはペテロが牢獄から救われた時のように、たまたま一人のJWが、非常に沢山のJWに注目されることになり、非常に沢山のJWが祈ったなら、神は行動する愛ある神という立場故に、その祈りは聞かれるかもしれない。
人知れず、心の中で、特に神のメリットになりえない点で、今、病気が治ることなどありえないのだ。
それは聖書中も同じである。
個人的な内容が聞かれて、神が行動したケースなどない。
イサクの結婚相手としてリベカが選ばれたのはアブラハムと従者による祈りの結果だ。
しかし、それは個人的なケースではなく、異邦人と結婚することが胤に影響を及ぼすという、神の意志があっての結果ともいえる。
胤のために、偽りの宗教の影響を受けない、そして強健な子孫を残すために、遺伝子上美しい人を妻とする必要が神にもあったのだ。
ハンナは子供を求めてサムエルを与えられた。
しかしハンナは交換条件を祈っている。
神はエリを正す必要があった。
そのため、エリと息子たちと無関係な人脈から、エリに仕える人を欲していたのだ。
ハンナの祈りは神と調和した。
ハンナがサムエルを神に捧げると言わなかったら、その祈りは聞かれなかったはずだ。
ダビデの沢山の祈りに応えてもらっているが、それはダビデだからである。ダビデの子孫からイエスが生まれると言っているのに、ダビデが死んだら元も子もないからだ。
一方で、ダビデを庇った大祭司アヒメレクや、人口調査故に死んだ民は、皆エホバに祈っていたはずなのだ。
エホバ助けてくださいと祈らない訳がない。
しかし、その祈りによって神は動いていない。
動く理由がなかったのだ。言い方悪いが神にメリットがないのだ。
自分の立場を聖書中の人物に照らして考えた時、自分がダビデと同じほど神に貴重なものと見られていると確信を抱ける人がどれだけいるだろうか?
ちなみに、これを書いている自分は聖書中で名前もあげられないイスラエルの民の一人のようなものだと考えている。
だから簡単に死ぬ。祈りなんて聞いてはいるだろうが、動いてはくれない。
個人的な幸せは祈るだけ無駄であると考えている。
ただし、ここで言っておきたいのは、個人的な幸せを願う祈りは、いずれは楽園で適うという話でもある。
しかし、今は、よっぽどの神にメリットがない限り、個人的な祈りは聞かれないということだ。
ちなみに、個人的な幸せを願う以外の祈りは、また別である。
宣教に関すること、割当に関すること、霊的な活動に関することは、今でも祈りが聞かれるケースがあるかもしれないが、それもやはり、神にメリットがあるからだ。
祈りは神の意志と調和していなければならない。
これが大前提だ。
だから個人的な幸せを願う祈りは、聞かれるが行動はされない。
これが99.9999%だ。
その祈りが聞かれているなら、そもそもホロコーストで誰も死んでいないし、ロシアやウクライナでも誰も迫害されていないはずだ。
忠誠を保てるように、くらいの祈りしか聞いて、行動してくれないだろう。
そんなもんだ。