長浜開町450年と伊部町
今日午前中に胡麻油の瓶詰めをしておりましたら、店の表に団体のお客様が来られ、ガイドと思しき年配の男性が「このあたりは油屋さんが多くて、この隣の隣も油屋さんでしたんや」などと説明されております。
「いらっしゃいませ~」と応対すると、その男性「『じんにんとっく(正確には、じんとにっく)』読ませてもらいました。それで長浜の伊部町を見に行こうとなって、小谷の方からみんな連れて寄せてもらいました」。十数人の団体全員が小谷伊部町の方ではなく、女性の方たちは「私たちは(同じく旧湖北町の)河毛からです」と。
さて男性の仰った「じんとにっく」とは、中日新聞湖北版の読者に対して月1回地元ネタを提供するコミ紙「さざなみ通信」に私が寄稿しているコラムのことで、先月号のタイトルは「長浜開町450年と伊部町」というもの。じげブロで書いていた時はネットでも同時公開していたのですが、そういえばこの記事はネット未公開だったことに気がつきました。以下がその本文です。
*今年は秀吉公が長浜の町を開いて450年ということで、それを記念して長浜曳山祭には13基の山が勢揃い致しました。ちょうど私どもの伊部町翁山は出番年で、私も太夫を務めさせていただきました。
さて長浜も大合併で市域が広くなりまして、旧長浜町にとっては開町でも小谷の人々にとっては落城450年。それを祝うわけにもいかず、市としては当時湖北の地で多くの武将が活躍した戦国時代から450年経ったことを記念し「戦国フェスティバル」イベントを通年実施するという苦しいこじつけが行なわれたようです。
ところで小谷城の現住所は「長浜市湖北町伊部」なのですが、わが町伊部町の由来は秀吉公が小谷城下から「伊部」の人々を連れてきてこの地に住まわせたから、と言われています。
さて平成の大合併の際、既に旧長浜市内に我が「伊部町」が存在したため、旧湖北町の伊部自治会は改名を余儀なくせられ「小谷伊部自治会」と変更された経緯があるそうです。何か本家から名前を奪ったようでいささか申し訳ないような気もいたします。
小谷城の城下町として栄えた伊部は住民が長浜へ移住した後、一時衰退したようですが、長浜に移住した商人たちの故郷への思いは強く結果として江戸時代に宿場町として再興したという歴史もあるようで、「元祖伊部町」「本家伊部町」論争が起きないのもそうした経緯があるからなのでしょうか。
そのあたりの気持ちもこめて、曳山祭恒例「〽めでたけれ~」の後の置き浄瑠璃は「〽伝え聞く長浜開町450年 小谷ゆかりの伊部町を 覚えておきなの翁山 浅井と羽柴の橋渡し 町中円満お多福顔」と作詞させていただいた次第にござりまする。(翁山のシンボルマークはお多福)*
さてさて、先の男性「ご主人、せっかくですので皆さんに一言お願いいたします」と促されますので、コラムに記したようなことを簡単に話して「わが町が今あるのは、小谷の皆さんのおかげです。今後ともよろしくお願いいたします」とお礼申し上げました。自分の記事がちょっとお役に立てたのかな、と嬉しい気持ちになりました。
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