そんな日もある
大敗した日はひたすら惨めな気持ちになるものだ。
スタジアムから駅までの帰り道はいつもより長くて、平塚からの東海道線はさらに長い。
なぜわざわざそんな遠くまで観に行くのか?と聞かれることがある。なぜわざわざ弱いチームを、と。
駅前の崎陽軒でシュウマイ弁当を買う。晴れている日はスタジアムまでゆっくり歩く。小さな商店街はすぐに終わって、国道1号線を渡ればもうあと少し。いつもだいたい試合開始の1時間前にはスタジアムに着く。
古くて小さいスタジアム。いつもの固い椅子。
空の青さとピッチの青さが際立って見える。
2つ隣の席には、もうすぐ、いつもの老夫婦がやってくるはずだ。遠くから、場内アナウンスの声が聞こえてくる。
その時間が一番好きだ。
もしかしたら、『ナルニア国』のタンスや村上春樹の小説に出てくる井戸のような、向こう側への「入り口」がスタジアムにもあるのかもしれない。
だから、別に「勝ち」が見たいわけじゃない。美しいパスワークが見たいわけでも、有名な選手が見たいわけでもない。ただそれでも、大敗した日はひたすら惨めな気持ちになるものだ。
東海道線の往復で読んでいたのは、A・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』(市川恵里訳、河出文庫)だった。
ナフィーシーの長女が生まれた年は、わたしと同じ1984年だという。回顧録にも関わらず関係者への配慮から敢えていくつかの事実はぼかしていることが明かされているなかにあって、娘の誕生日は「厳密でなければならない」と明記されている。ナフィーシー自身は生年不明とのことだが、おそらく、わたしの母親と同じくらいの年齢なのだろう。そう思うと、遠い国の遠い話という気がしなくなった。
1995年から約2年間、大学を追放されたナフィーシーは限られた「娘たち」と自宅で秘密の読書会を行う。そこで読まれた何人かの作家たち、いくつかの作品とオーバーラップするように、イラン革命からイラン・イラク戦争、そして現在まで続く抑圧の記憶が綴られる。小説は、女性の地位が踏み躙られていく現在進行形の中で読まれる。
彼女たちは、『ロリータ』からは男性からの抑圧される孤独を、『グレート・ギャツビー』からは革命という夢の挫折を、そして、『高慢と偏見』には慣習への反抗を読む。読みは、とても自由で、力強い。
読書会の参加者のひとりは、ある日、リゾート地で風紀取締隊に拘束され「やってもいない罪を認める書類にサインをさせられ、鞭打ち二十五回の刑に処せられ」てしまう。
あるひとりは監獄にいた経験を語る。驚くほど美人だというだけで拘束されて、看守に繰り返しレイプされて処刑された女の子がいたことを。改宗した人たちが体制への忠誠のしるしとしてとどめの一発を撃つように強制されていたことを。
過酷な現実と読みの自由さのギャップが心をうつ。
読みながら、「東京で〇〇を読む」ということは可能(だった)だろうか、と考える。というのも、あらゆる読書は、常に個人的な、ある時代ある場所での体験だと思うからだ。
例えば、ナフィーシーが回想した80年代から90年代にかけて。あるいはその後00年代から現在にかけて。わたしは、東京で何をどのように読んだだろうか。
LINEにはCNNニュースの通知が毎日届く。
イランでは街にスマートカメラが設置され、ヒジャブの着用義務に違反した女性には警告文が通知されるというニュースを見たのは2ヶ月ほど前だっただろうか。
2023年6月24日。大敗した日はひたすら惨めな気持ちになるものだ。
湘南0-6鳥栖
そんな日もある。