差別意識が高いのは悪いことではない。
差別と区別。この言葉をご存知だろうか。
ついさっきコンビニで新しいノンアルコールを見つけた。日々の癒しであり、少しテンションも上がる。しかしレジには小汚い老人が一人。
高齢の方は上(口元)を取ってスキャンしたりするため、あまり触れてもらいたくないのもあり、わざとバーコードを見せるのだが、それでも下を触れてくる。なんだか、嫌な気分になった。
書いている自分を見ると、なんだかとても嫌な人にも見える。逆の立場だったら?確かにそうだろう。
しかし、サービスとはそう言うものだ。
昨年1食6000円もする高級レストランへ出掛けて嫌な思いをした。
長年思っていた人にプロポーズするためにそこを予約したのになんの配慮もなくタイミングの悪い質の下がった接客。がっかりだった。
自分の勘の悪さを呪ったが、花火を一緒に見るためだったのと彼女の体力的なことも考えて近場にしたのだがそれが仇に出た。
こういう時、人はどう思うのだろう。
自分だけが悪いのか、それとも環境が悪いのか。
自分が必死で頑張ってきたことが、無配慮な誰かに邪魔され取り返しのつかないことになったら?許せるのだろうか?否、それは無理だ。
ムードや環境というものは、自分たちで作り出すものだが、サービスの質が悪いところにクレームを入れても何も改善はされないことを経験済みである。
で、あったのならばそこには改善を求めるよりも二度と使わないことを薦めるだろう。
人手不足のホテル業界だが、そこに介入する人間のレベルの低さにはがっかりしたことも多い。長年使っていた常連のホテルですらもそういうことは往々として起こるし、そうなってからでは手遅れだ。
最近、つくづく思う。自分が目が肥えてきたのではなく、人の働く姿がSNSのせいもあって雑になってきたことに。
海外ドラマの中では何もかもが素晴らしくいく。しかし、現実はそうはいかない。働いている人々というものは、どこか接客に対して我慢する癖を覚えてきている。
本来ならば、しっかりと伝えたことに対してアプローチがあって然るべきだったとしてもそれがない時、人は二度とそこへは出向かない。
彼女の声が好きだった。
初めて会った展示会で、隣に並んだ時に感じた優しげな感触。
二度目の展示会で苛立ちを隠せずにイライラしていた時ですらも、挨拶にと駆けつけてくれて帰りの電車で一緒になり、帰りに手を振ってくれた後継。
ゲームショーやその他の会場へも出入りし、ファッションショーも成功させて海外に行き、頑張っている彼女の姿は眩しい。
終わった後の恋愛は、尾を引くと思っていたが思いの外1年で決着がついた。
新しい人を好きになれることに気づいた時、人は前を向けるのだと思う。
それに、下北沢が前を向かせてくれた。
代わりを探すことなんてできないけど、二度と同じ人には巡り会えないだろう。
俺はどこか病んでいたけど、それは多分全部が自分のせいだと思い込んでいたから。世の中にはタイミングというものがあるし、人とはもっと強欲で身勝手だ。