日系人独裁者アルベルト・フジモリ大統領
皆さんはアルベルト・フジモリ元大統領の事を知っていますか?
知らない人の方が多いと思いますが、アルベルト・フジモリ大統領と聞いて知っている人は多分『ペルー日本大使公邸占拠事件』で知っている人だと思います。
今回はそのアルベルト・フジモリ大統領について解説していきたいと思います。
出典・引用・参考資料
・ウィキペディア『アルベルト・フジモリ』『アウトゴルペ』『ペルー共和国』『ペルーの政治(英語)』『日本とペルーの関係』『ペルーの歴史』
・日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア 経済研究所『フジ・ショック:二期目のフジモリ政権と日本の課題』
・コトバンク『アルベルト・フジモリ』
・AP Archive 『Intv with wife of former peruvian president Alberto Fujimori』
・NHKアーカイブドキュメンタリー『日本が震えた日』
・時事ドットコム『アルベルト・フジモリ氏写真特集』
infobae『1992年4月5日に何が起き、フジモリの自己クーデターの原因は何ですか?』
・外務省『フジモリ大統領の横顔』
人生
大統領になるまで
フジモリ大統領はペルーの首都リマで移民である熊本県出身の両親の間に生まれました。(本当にペルーで生まれたのかを疑う声もある)
小学校では図書館で読書に熱中し、優等生として名を残し、中学時代には数学が得意で、真面目でおとなしく勉強一筋なため、ガリ勉とあだ名されることもありました。フジモリ大統領は読書を好み、新聞を熱読しながら、家業の花屋の店先で妹とよく店番をしていました。
その後、フジモリ大統領はラ・モリーナ国立農科大学にトップ入学し、その後は大学院に進学、農業工学でクラス1位の成績で卒業しました。
その後、ラ・モリーナ国立農科大学で数学の教授となり、フランスのストラスブール大学へ留学、さらに奨学金を得てアメリカのウィスコンシン大学に留学しました。そしてそこで一般数学と物理学の修士号を取得しました。
そして母校である国立農業大学の理学部長に就任し、1984年には同大学総長に任命され、さらにペルー大学評議会の議長を二期務めていました。
また、ペルー国有テレビの討論番組において、約一年半に渡って司会を務め、討論番組に司会者として出演しました。視聴率は余り高くありませんでしたが政治、経済等様々なテーマを扱い、内容の高さでは評判となったこの番組は、フジモリ大統領が毎週テーマを決めて各専門家を集めて討論させるもので、フジモリは議論の取り纏めに優れた能力を見せ、この機会に様々な専門家に人脈を広げることが出来、また、テレビの効果を良く理解することにもなり、大統領選挙時のテレビ討論の時に役に立ったと言われています。
その後の1988年、当時のペルーの首相から農業大臣のポストを勧めらましたがこれを拒否しました。これについてフジモリ大統領はその後の大統領選当選後のインタビューで、「当時は司会者の方を選んだが、だからこそ今私は大統領であるわけでだ。」と述べています。
大統領就任、独裁者の誕生
そして討論番組の司会者を経て、1990年のペルーの大統領選挙に『変化90』という政党を仲間の学者などと共に結成し、フジモービルと呼ばれたトラクターに乗り、「正直、勤勉、テクノロジー」という選挙スローガンを掲げ、わかりやすい演説と既存の勢力(司法、議会、カトリック教会等)への批判により、前大統領に対して失望していた国民とフジモリ大統領の対立候補を疑いの目で見ていた層を味方につける事に成功し、大統領選挙に当選しました。
そして1990年、フジモリ大統領は大統領選挙で勝利しましたが、議会での彼の政党「変革90』の議席数は3番手に留まり、これはアメリカ革命人民同盟と大統領選の対立候補が設立した民主戦線後に続く勢力で、下院180議席中32議席、上院で62議席中14議席にしか過ぎませんでした。
このため、政府と議会の関係は政権の始まりからの緊張と対立を孕んだものとなり、行政上の議会の監督、1979年憲法で制定された民主主義の原則、それらは改革を推し進めたいフジモリ大統領にとって厄介な存在でした。
そしてフジモリ大統領はこれが国家の問題、特に危機管理に対する障害の側面を強調し、議会閉鎖と権力の絶対的なコントロールを計画し始めました。
そして最終的に1992年4月5日の夜、「自主クーデター(その時、権力を握っている人物が更なる権力を握る為に行うクーデター)」として知られるようになり、フジモリ大統領は、議会を解散し、司法権の活動を中止するようにメッセージを出しました。
そして各都市に配置された軍が主要な民主主義機関の本部と政治的ライバルの住宅を取り囲み、メディアに襲撃をかけ、ジャーナリストらを誘拐しました。
その自作クーデターは市民の過半数によって支持されましたが、同時にさらに8年間続いていくフジモリ政府の民主的な正当性に疑問を投げかけるものとなりました。
その自作クーデターの数ヶ月後の1992年11月13日、その自作クーデターに反発した軍の少将と一部の兵士が決起し、「自主クーデター」後に崩壊した民主的秩序を再確立しようと試みました。しかし軍の襲撃を受けたフジモリ大統領はすぐに日本大使館に駆け込み、彼らがフジモリ大統領の暗殺を試みたとして非難し、少将らを投獄しました。
その後、フジモリ大統領は事実上の独裁的な政権運営を開始しました。しかしこの政府は、独裁的だとして各国から指摘され、各国(主に欧米)から洗礼を受けました。そして欧米など内外からの圧力のため、フジモリ大統領は民主制議会のための選挙を招集しました。その後フジモリ大統領は1993年に新憲法を成立させる為の国民投票で52.24%を獲得し勝利し、新憲法が公布され、国家機能が変わり、さらなる大統領の権限強化がなされ、 検察の力が低下したことに加えて、議会の権限が弱体化されることとなりました。
そしてフジモリ大統領は1995年に大統領の再選を許可する新憲法のもと、2度目の大統領選挙に立候補し、対立候補の前国連事務総長を64.42%の得票で破り、再選しました。
1995年フジモリ大統領は議会の賛成多数で恩赦法を公布しました。これは「反反乱作戦」期間中に行なわれた人権侵害などの自身の裁判などを終わらせるもので、またエクアドル国境紛争に巻き込まれた国家捜査官や1992年に民主主義を回復しようと決起し、投獄した少将たちも含まれていました。
ちなみにこの法律は中米人権裁判所の判決によって数年後に有効力を失いました。
1996年フジモリ大統領は憲法で禁止されている3度目の大統領になる為に『憲法の真正解釈法』と呼ばれる法律を制定し、憲法を無視して2000年に3度目の大統領選挙に立候補しました。しかし4月初めの投票ではフジモリ大統領も他の候補も得票数が過半数に届かず、5月に決選投票を行うこととなりました。その後第1回目の投票で開票作業に不正操作があったことを、選挙の監視に来ていた米州機構、行政外部監視機関や対立候補の陣営から指摘され、5月28日に予定されていた決選投票を延期し、その間に透明性のある開票方法をとるように要請が出されましたがフジモリ大統領は開票作業の透明性に問題はないとして、内外の要請を拒否しました。そしてフジモリ大統領は予定通りの5月末の選挙を強行するとしたので、米州機構は選挙監視の意味がなくなったとしてペルーから引き上げ、実質的な大統領信任投票となった決選投票では、フジモリ大統領が過半数を獲得し、3選を果たしました。
最大の危機
そして3期目の任期開始直後、フジモリ大統領の側近の国家情報局顧問による汚職の光景を捉えたビデオ映像が野党議員によって公開され、ビデオ映像には、国家情報局顧問がフジモリ大統領支持を取りつけるために他の野党議員に賄賂を手渡す場面が記録されていました。それはフジモリ政権の最大最後の危機であり、フジモリ大統領は国家情報局の廃止と総選挙を発表し、この総選挙でフジモリ大統領が候補者として参加することはないと発表しました。
しかしこの事件はフジモリ大統領に対する多くの市民の怒りを呼んだため、国家情報局顧問を正式な地位から退任させました。そして国家情報局顧問の次にペルーから逃亡を図ったのはフジモリ大統領自身でした。フジモリ大統領はAPEC首脳会議に出席し、それから東京を経由し、その後イベロアメリカ諸国機構首脳会議に出席する為にパナマへ向かう予定でしたが、フジモリ大統領は東京に留まり続け、「ペルーの邪魔になることは望ましいことではない」とAFP通信に語り、東京からペルー議会議長にファックスを送り、正式に大統領職の辞任が発表され、続いて彼の支持者にメッセージが送られました。
これは事実上の日本への亡命でしたが、日本政府はフジモリ大統領が日本国籍を持っている為、これを問題としませんでした。
その後、ペルー議会ではフジモリ大統領を10年間公職に就く事を禁止し、フジモリ政権の関係者の資産凍結などの決定を下しました。
その後、臨時のバレンティン政権はフジモリ大統領を殺人罪で起訴し、フジモリ大統領を国際指名手配を行いました。
その後ペルー政府は日本政府に対し、フジモリ大統領の引き渡しを求めましたが日本政府はフジモリ大統領が日本国籍を持っている事を理由に拒否しました。
一方ペルーでは、フジモリ大統領が二重国籍である事が知られておらず、さらにフジモリ大統領に対して批判が高まりした(ペルーの法律では二重国籍者は大統領になれないのと選挙中に『日本国籍は持っていない』と行っていたのが理由)。
そしてペルー政界への復帰が絶望的になったフジモリ大統領は日本政界に意欲を見せ、日本の国民新党から立候補する事を表明、しかし様々な事情により選挙活動に参加出来ず落選が確定しました。
そして2010年、最高裁刑事法廷は、禁錮25年と『テロとの戦い』で亡くなった一般人被害者遺族への賠償金支払いを命じた一審の判断を支持する判決を下した、と発表した。これにより同事件でのフジモリ大統領は実刑が確定しました。
見る影もない姿
その後、当時政権を担っていたクチンスキ大統領がフジモリ大統領の獄死を回避するため、フジモリ大統領を含む8人の恩赦を決定しました。同年11月にはクチンスキ大統領の汚職疑惑を受けて罷免決議案が野党によって議会に上程されたましたが、フジモリ大統領の息子であるケンジ・フジモリ議員によって反対票が取りまとめられ、採決では決議案は否決、クチンスキ大統領が助かったという経緯があったため、恩赦に否定的な勢力からは罷免反対票とフジモリ恩赦の取引が行われたと非難が巻き起こり、恩赦に反対するデモも発生した。
恩赦後、フジモリ大統領は病床からビデオメッセーを投稿し、今後は政界には戻らずクチンスキ政権へ協力することと、自らの大統領時代に強権を行使したことへの謝罪の言葉を口にし、リマ市内の病院を退院し、自由の身となりました。しかし同年10月になって最高裁は、フジモリ大統領の健康状態は自由にしなければならないほど悪くはないとして恩赦を取り消し、フジモリ大統領の身柄を拘束するよう命じました。
2021年10月1日、収監中の拘置施設で激しい頭痛や動悸を訴え、血中酸素飽和度の低下や胸の痛みなどの症状がみられたことからリマ市内の病院に入院した。マスク姿で車いすに乗り転院する様子が報じられた。。容態が悪化したため10月4日には別の病院に転院して心臓手術を受け、術後は容態が安定していると発表された。その事により憲法裁が恩赦の復活を決定し、フジモリ大統領は再び釈放されることとなりました。しかし米州人権裁判所はペルー政府に対し、フジモリの釈放を認めるべきではないとの決議を出しました。その人権裁の主張に対しペルー政府は米州人権裁の判断に従うとしました。
大統領時代の実績
経済改革
大統領に就任するとフジモリ大統領は前政権により傷ついたペルー経済の改革を目指し、税制改革、公務員の削減、補助金の歳出カット、物価統制の廃止、行政手続きの簡素化、為替改革、貿易の自由化、金融制度改革、国営企業の民営化、法整備(外国投資や労働関係法、農地登録に関するもの)など新自由主義的な改革を推し進めました。
そしてこれは当時『小さな政府』を推奨していたIMFや世界銀行などとの方針と合い、国際復帰なども目指していたフジモリ大統領は前政権で関係が悪化していたIMFと特に密接に連携して改革を進めました。
しかしフジモリ大統領が1992年に自主クーデターを起こした事によって再びペルーと国際金融界の関係が悪化しました。それでもフジモリ大統領は中央銀行の人事刷新、勧業銀行の創設や企画庁の廃止、住宅建設省と運輸通信省の統合、滞納や納税しない者に対する罰則強化などを行った為、徐々に国際金融界の信頼を取り戻し、関係改善が行われました。
そしてその後フジモリ大統領はペルーのインストラクチャーや社会開発部門への融資、支援を取り付けるなどの功績を上げました。
これらの改革によってペルー経済は誰の目にも明らかな回復・発展を成し遂げました。
ハイパーインフレに関しては政権発足当時7650%だったものを目標の15.4%まで収束させ、大統領選挙に向けた大規模な公共投資と自由化による民間投資、輸出の拡大によって好景気を迎えました。
民間投資に関しては90年は5億3100万ドルだったものが56億9600万ドルにまで急拡大しました。
テロとの戦い
そしてフジモリ大統領は経済改革ともう一つ大きな事を成し遂げました。それは『テロとの戦い』です。
当時ペルーでは共産主義系の左翼ゲリラによる激しいテロ攻撃が起こっており、1992年にはリマのミラフローレス地区で20名もの犠牲を出した自動車爆弾爆発事件が起こるなどペルー国内は混乱していました。
そんな混乱したペルーでフジモリ大統領はテロリストの巣窟と言われる国立サン・マルコス大学とカントゥータ大学に訪問し、投石と爆弾の破裂するなかで軍隊に守られながら演説し、大学正常化を実行する決意を示すという大胆で危険なことも行った。これにより、テロに対して断固として戦っていくことを身をもって明らかにした。
そして、フジモリ大統領は国家警察と軍を中心とした反反乱作戦を立案し、テロ組織のリーダーを逮捕する事や在ペルー日本大使公邸占拠事件解決などの功績を上げ、その結果、ペルー国内ではテロ行為が大幅に減少しました。これらにより平和を取り戻したペルーには先ほどのペルーに対する民間投資の増加や治安の向上による観光客の増加など地方経済にも効果が現れました。
しかし、これらの功績の影ではコリーナ部隊と呼ばれる対テロ部隊による民間人の殺害など様々な事件も起こりました。
日本との関係
ペルーはブラジルに次ぐ日系人社会を持つ国で、また地政学的重要性からフジモリ大統領就任以前から国際協力が行われてきました。
そうして支援してきたペルーで日系人大統領が誕生するという事は日本にとって喜ばしい事でした。
こうして日本の対ペル支援はさらに拡大し、この当時の南米諸国の中で、ペルーが日本にとって最大の支援先の国となりました。
しかし、その後1991年の日本人専門家殺害事件を機に日本の対ペルー支援は大きな影を落としました。
そして、専門家などの派遣を取りやめました。
その後、フジモリ大統領の『テロとの戦い』などで治安が改善し、日本は大量の機材供与などを行いました。
こうしてフジモリ大統領は自身の日系人という特徴を生かして、日本との友好関係を強化し、フジモリ大統領は日本からの支援などを受け入れインフラ整備などを整えました。
フジモリ主義
フジモリ主義とは、フジモリ大統領の実行した政策やフジモリ大統領の持つ政治経済に対して共感する思想の事です。
この思想は権威主義、新自由主義の支持、反共、LGBTや男女平等に反対するなど右翼的な思想と定義されています。
フジモリ主義はフジモリ大統領の失脚後は不活発化していましたが、フジモリ大統領の娘であるケイコ・フジモリとケンジ・フジモリが政界に進出した事で再び活性化し、2016年にはペルー議会において、フジモリ主義を掲げる人民勢力党が71議席を獲得し、議会の最大政党となるなどの成果をあげました。
フジモリ主義を掲げる政党
フジモリズムを自称する政党や選挙連合には、変革90、ニュー・マジョリティー、シ・クンプル、ペルー2000、未来のための同盟(2006〜2010)、ポピュラー・フォース(2010〜)などがあります。
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