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週末回顧(9月1日)

写真は京都の鴨川。

精神的にきつい1週間だった。どういうきつさかと言うと自分が全く無知の領域に身を投げ出してその領域を日常的に行っている人達の中に自分一人突っ込んで、そこでは自分も出来ること前提で話が進むからそこに追いつかないといけないという焦りから生まれるきつさ。

自分の実力の無さを痛感した一週間だが視点を変えると自分には何が足りてなくて何がこれから必要なのかを分析できる機会(チャンス!)

きついけど、苦しいけど、悲観的になりすぎて投げ出したくなるけど、自分から望んで手にしたきつさだし、精神的なきつさを感じている時は自分の心を平静に保つ訓練には絶好の機会だから有難いと思わないといけない。こういう時には少しだけでも岩波文庫さんが出している古典を読むと勇気が出て、ちょっと楽観的になる。

「苦しみとは」どういう意味を持っているのかという考察を2000年以上評価を得続け今に至る本に書いてある言葉の重みは凄い。

今週インプットした本のメモ。

北野武、「超思考」
「礼儀を躾けるのは、それがこの社会で生きていく必要最小限の道具だからだ。社会を構成しているのは人間で、どんな仕事であろうとその人間関係の中でするしかない。何をするにしても、結局は、石垣のようにがっしりと組み上がった社会の石の隙間に指先をねじ込み、一歩一歩登っていかなければ上には行けない。その石垣をどういうルートで登るかを教えてやることなんてできはしないのだから、せめて指のかけ方は叩き込んでやろうと思っている。子供のためを思うなら、バラ色の未来を吹き込むなんてバカなことはさっさとやめて、人の世で生きるための礼儀を眺けるべきだ。ネットに悪口を書くだけで満足して、自分は何もしようとしない子供にしたいなら話は別だけれど」

「芸術はロクなものではない。が、つまらないとは言っていない。」

「商業映画は、客のことを考えて作る。そして、芸術映画は自分のことだけを考えて作るというわけだ。自分が良いと思う世界をひたすら追求していくわけだから、たくさんの客に理解してもらおうという方が無理なのだ。自分が満足するためには、自分自身を驚かせるような映画を撮るしかない。ときには、自分にも理解できない作品が出来上がったりする。それを、客が理解できるわけはない。なんで、そんなことをするのかとツッコまれそうだが、理由などない。ただそういう作品が作りたくて仕方ない。だから、麻薬なのだ。」

「おかしいなあと思うのは、才能もない自分の子供を、そういう世界へ追い込もうとしている親がやたらと増えたことだ。なぜ子供に夢を持つことを強制するのか。子供が絵描きになりたいなんて言い出したら、頭をひっぱたいてやった方がいい。そんなことをしたら、子供の才能の芽を摘むことになるんじゃないかなんて、心配する必要はまったくない。その子に、本当に才能があるのなら、親が何を言おうが、必ず芽を出すに決まっている。芽を出して、花を咲かせ、本物の芸術家になったとしても、それがその子の本当の幸せかどうかは、また別の話だ。」

「問題になったりしたけれど。「めくら」って言葉には神経を尖らせるくせに、「近所の交差点に盲人用の信号がついてない」と怒る人はめったにいない。めくらっていう言葉自体は悪い言葉ではないはずだ。かつて、その言葉を使って盲人を差別した人がいたというだけのこと。問題は差別する人間の態度なのに、言葉だけを標的にしてしまうのはおかしなことだ。つまりは、「それは言わないことにしましょう」というのが、日本人の気質に合っているんだろう。盲人も暮らしやすい社会にしようという、積極的な方向性ではない。乞食のことを「レゲエのおじさん」と言うけれど、あれは俺が作った言葉だ。テレビじゃ乞食って言葉を使えなくなったからレゲエって言い換えた。しかし言い換えたって、乞食が楽になるわけじゃない。乞食って言葉は厳禁だと言っている放送局も、乞食のために何かしたことはないはずだ。むしろそうなってからの方が、乞食への社会の無関心化が進んだ気がする」

北野武、「全思考」
「映画に限らず、絵でも小説でも、どんな作品でも、自分がいいと思う以上の作品を作るごとはできない。他の人がどう感じるかなんて、どうやってもわからないのだから。」

「だからこそ、友達はありがたいんじゃないか。今の若者は、そういうつきあい方をあんまり知らないんだろう。いや、知らないんじゃなくて、そんな汗臭いつきあいが面倒臭いだけだと言うかもしれない。だけど「その気持ちわかる!」なんて、下らない陳腐なメールのやりとりで人とわかりあった気になっているから、ふと一人になったとき、誰も本当の自分を理解してくれる人がいないなんて悩んだりする。ただの馬鹿だ。面倒臭いことを避けてばかりいると、人間は馬鹿になる。脳味噌を発達させるのは、要するに面倒臭いことなのだ。そこに文明のパラドックスがある。電子計算機のことを考えればすぐわかる。あんな小さな機械で、四則演算から微積までなんでもやってしまう。ニュートンが見たら、きっと腰を抜かすだろう。自分が一生かけて解いたような問題の答えが、キーをポンポンと叩くだけで出てしまうんだから。」

「おかげでメールの世界では、文字だけじゃなくて、個人の感情表現までが流行りのTシャツの柄みたいに画一化されている。もちろん人間のやることだから、完全に画一化されているわけではないだろう。子供らなりに、そこに自分の個性とか、感情を表現しようと知恵を働かせ、工夫しているのはわかるぺけれど、その知恵も工夫も、あくまで携帯メールのあの小さな画面の範囲内でのことになる。微妙な感情や複雑な思考は、より単純でわかりやすい感情や思考に置き換えられてしまう。」

慎泰俊、「ランニング思考」
「結果として、このレースを走りきった後、僕は人から馬鹿にされても気にならないことが多くなった。人から貶されてカッとなったりするのは自己顕示欲、いうなれば自分可愛さがどこかにあるからだ。その自分可愛さは、人間の判断を誤らせるのみならず、見苦しい自己弁護によって自分を必要以上に傷つけ、あれこれと思い悩んだり仕返しの妄想をしたりするために大切な時間を奪っていく。」

「走ることが、教師、人生の一部、瞑想の時間になった。走ることは、予め期待していた分かりやすいメリットを飛び越えて、人間が生きていく上で大切な学びを僕にもたらしてくれるようになってきた。素直さ、謙虚さ、自意識を脱すること、生活のリズムを保つこと、物事をそつなく粛々とこなすことの大切さ、など、数えきれないほどの生きる知恵を、僕は走ることを通じて身をもって学んだ。人や物事と素晴らしい関係が築かれることは、その人なり物事が自分にとっての教師となるということなのだと思う。」


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