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週末回顧(2024年9月15日)

なかなか振り返りの多い一週間だった。(詳細は自分だけの話ではないため、抽象的な表現になります。)まずは、達成すべきことを無事に成し遂げたことはシンプルに嬉しかった。一方で、反省すべきことも多かった。以前から自覚していた改善点があったのだが、面倒だという気持ちに負け、ずっと見て見ぬふりをしていた。今週はその欠点が人に迷惑をかける形で表面化し、2024年に入って最も大きな反省となった。結果、相手の信頼を完全に失ってしまった。

そのことに関して一緒に活動をしているメンバーからは「挑戦したからこそ起こった失敗だから恥じる必要はない、切り替えよう」と言われたが、今回の件は小学生でも分かるくらい基本的なことであり、すでに自分でも気づいていたことだったのでその励ましの言葉は全く今の自分に値しない言葉に感じた。そんな反省を今更するなんて、まるで理想だけを語り、実行できない人間のように感じた。「知行合一」という言葉を自分のモットーとして掲げて生きると決めたのに、全く実践できていなかった。覚悟の無さ、管理能力の無さを痛感した瞬間だった。

今後二度と同じ過ちを繰り返さないために、「できない約束はしない」「自分の弱さから目を逸らさない」という当たり前のことを改めて意識していく必要がある。短期的には逃げることで楽に感じるかもしれないが、その分の代償が必ず返ってくることを、今回身をもって体験した。もうこんな経験はしたくない。

木曜に目標を達成してからは比較的落ち着いた日々を過ごした。時間ができたので、木曜から毎日3時間程度トレーニングを試してみた。目的は体力強化と、普段は確保できない時間を使ってどのような変化があるか検証することだった。だけど、結論としては微妙だった。1時間以内でトレーニングを終える方が自分には合っている。チームトレーニングなら別だが、基本一人トレーニングなので、どうしても後半になると追い込みが弱くなり、効率が落ちてしまうことが分かった。結局、一人でのトレーニングは短時間が適している。

今回のトレーニングで得られた収穫は、ダッシュの重要性。これまでは1キロ5分ペースのランニングをしていたが、坂道ダッシュを取り入れたことで、筋力トレーニングやランニング全体のパフォーマンスが向上することに気づいた。これは非常に嬉しい発見だった。

今週の振り返りで見つけた自分の改善点に気づいたことは、とても大きな一歩だと思うしかない。失敗や反省というのは、目を背けたくなるものだが、逃げずに向き合ったその行動自体がすでに成長の一つ。そして、次にどう行動するかが重要になる。

「知行合一」を掲げながら実行できなかったことに気づき、そこから学びを得たことは、自分の中に今後のための強い基盤を築くと信じるしかない。約束を守ること、そして自分の弱さに対して逃げないことは、個人だけでなく一緒に活動をしているメンバーそしてこれから関わる仲間にも大きな影響を与える。次は、その「逃げない姿勢」をどのように日々の行動に落とし込んでいくか。

今週は反省と気づきが多い週だったが、その気づきをどう次に活かすか。それが次の行動に直結していく。苦しみは消えないが「落ち込むのはここでおしまい」ととりあえず。

今週読んだ本。メモ。

善の研究、西田幾多郎
「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。」

「即ち統一作用が働いて居る間は全体が現実であり純粋経験である。耐して意識は凡て衝動的であって、主意識のいう様に、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといわねばならぬ。」

「選択的意志とは日に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく!現在における現在の活動にあるのである。」
「しかるに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれがためである純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれて居る。期くいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかの様に思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。例えば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれに由りて分明になるのではない、んだ!これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。」
「要するに経験、の意味とか判断とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或いは判断の中に現われたる者は原経験より抽象せらるその一部であって、その内容においてはかえってこれよりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断に由りて前になかった者が加えられたのではない。純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或いは判断というのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろう。普通では純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。しかし純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起るのである。」
「思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有って居る、思惟の本領とする所は真理を現わすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真安と云うことはないが、思惟には真安の別があるともいえる。」
「純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う才前にもいった様に、醬識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのであるたとえば意味の意識である或る心像であっても、他に関係なくただそれだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或る知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有って居る、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。しからば如何なる思想が真であり如何なる思想が待であるかと云うに、我々はいつでも意識依系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在とじ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を橋と考えるのである。」
「しかし余は知識の究的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んで居るといえると思う。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、瞬想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。」
「知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意をせざる天の星は美し」といった様に、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に困りて成立することは明なる事実である。」
「余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である」
「かくのごとき難問はもし識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。または、さなくとも、各自の意識が互に独立の実在であるならば、いかにしてその間の関係を説明することができるかということである。しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない。」
「意識の事実として見れば無は真の無でなく、意識発展の或る一契機であると見ることができる。」
「知」というものを前提し、その枠組みのなかで事柄を把握するのではなく、むしろ「知」というものを一つの制限として捉え、その根底に一つまり「気」以前のところにー帰りゆこうとする傾向が強くあった。」
「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である。」


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