虎になるまい
noteを見ていると
百花繚乱。いろいろな文章に出会います。
あれもこれも、と目移りしてのぞいていると
ついむくむくと湧き上がって来るのは
「私だって・・・」という気持ちです。
有名な音楽プロデューサーも
ノーベル文学賞の候補に上がる小説家も
周囲に「それくらいなら俺でも書ける」と
やっかまれるそうです。
実際に評価されるのは何が違うのでしょうか?
有名な短編小説に
中島敦による「山月記」があります。
高校の教科書にも出てきます。
若くして才能があった李徴は
役人をやめて自ら詩人として
世に名を残そうとします。
しかし、世の中そんなに上手くいかない。
詩人では、妻子も養えなくなった李徴
再び役人へと復帰しますが
昔の仲間にも追い抜かれてしまい
とうとうその名声への渇望感から
虎へと身を変えてしまうのです。
李徴は、自らの境遇を
たまたま通りかかった友に
自分の作品を世に出す自信のなさを打ち明けるのです。
詳しくは「山月記」を実際に読んでみてください。
なぜなら
世の中に受け入れられず
しかし名声への望みを捨てられず虎になってしまった
李徴への思いは、誰でも一度は通ると思うからです。
我々日本人は自分を慎む「謙遜の美徳」を
大切にしてきました。
しかし、明治維新時に列強国家に囲まれ
日本という国の国家の形を造って行くために
国家としての考え方を整えなければいけませんでした。
その為に表現を発表するspeechという英語を
「演説」と訳したのは福沢諭吉でした。
国家として内外に表現して行くことに
迫られていたのです。
よく書店に「話し方」の本や「書き方」の手引き書が
軒を並べます。
それらに囲まれた我々は
そのような情報を集めるだけであったり
方法論を学ぶことに重きを置きがちになります。
しかしそれだけでは当然ながら
自分の思いを満たすことはできません。
先の「山月記」の李徴は
自らの表現に対する自信のなさ
世の中への名声の渇望感から、虎に身をやつしてしまいました。
では、どうしたら我々は
自らを虎にすることを防ぐことができるのでしょうか?
答えは単純です。
自信がなくてもいいから、思いが虎になる前に
表現することに尽きるのではないでしょうか?
我々は、「そんなこと当たり前だ」いう思いや恐怖心から
表現をやめてしまいます。
本当に表現に対する純粋な希望があるとすれば
哲学者デカルトも「方法序説」で述べる
「良心」に従いペンを取るべきだと思うのです。
「表現」と「虎」は
コインの裏と表のように一体で
切り離せないと思います。
己の中にいる「虎」を感じたらとにかく
ペンとノートを取り出す。
それが、「虎」から身を守る
手段だと思うのです。
自らも「山月記」を読んで
「虎」にならぬぞ、と戒めたいと思うところです。