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死をとめる責任

ほんじつのおもひ
人が持つ正義を複雑に思う時


―ps.―「つぶやきです」――

報道で、「自殺しようとしているxxを説得して無事に保護した」として表彰されるひとがいる.
自分が「そちら側」でなければ、よかった、と胸をなでおろすことだろう.
あるいは、xxさんが知り合いだったら.
いいことだ、すばらしい行動だ、と.

だが、わたしは、「そちら側」であるゆえに、その報道を苦く思う.

わたしが、みずから死ぬ当人なら、

どうして止めたのよ!と、なじるだろう.
あなたにわたしのこれからの責任が取れるの?
わたしのなにを知っているの?

なじって、責めて、責めて、責めて、自分を恥ずかしく思って、いろんなこと後悔して、苦しくて、とめた相手へのうらみまで持って、そしてそれが申し訳なくて.
きっと、感情がぐちゃぐちゃになって.
わたしなら、もっと追い詰められてしまう.


個人情報もあるし、ひとそれぞれ事情があるため、結果のみが報道される.
「自殺を思いとどまらせた」「ひとりの命を救った」

わたしは、どうしても、この結果をすなおに受け入れ、よかったねと手を叩くことができないのだ.
そんな自分が、ひねくれていると恥ずかしくもあり、悲しくもある.

死なせなかったひとは、すごいと言われる.

死ねなかったひとは……?


正解がないから、正解を出せないから難しい.
わたしの考えは、悪だとも言え、善とも言える.

わたしは、ひとが好きだし、ひとにはできるだけ生きていてほしいと思う.
苦しいことも多い世界にも、楽しいことや、あったかいことがある.
生きているからこそ感じる幸せや不幸せや.
ちっこくても、嬉しいと思えることがあれば、生きるのもいいなって思うかもしれない.

けれど、死ぬと決めたひとを、とめる権利があるのだろうか?

こういうことを考えること自体がもう悲しくてたまらない.
目の前で、飛び降りたり薬を飲んだりするひとがいて、わたしは黙ってみていられるのか.
断言はできない.
ただ、軽軽しく、とめたくはない.
生きたいひと、生き繋ぐ可能性があるひと、迷いが見受けられるひと、なら、声をかけ続ける.
だけど、本当に、死にたい、死ぬしかないひとを

ごめんなさい勝手に感極まって泣けてきた――

気持ちがぶれすぎました.
とはいえ、記事として投稿する意志があります.
冒頭にカーソル戻して、つぶやきですと書きます.
注意喚起とか炎上防止のつもりかと思われるかもしれない、という考えが脳裏をかすめましたが、荒波記事もありだろうと思いました.

見てくださった読者さん、ごめんなさい、ありがとうございます.
深呼吸して出直します.
書きたいことの1割も書けていない.


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