40代仕事に家事育児、自分の時間がない何のために生きているのかと問われたら
Xでどなたかが引用したつぶやき、というか嘆きが「仕事して家に帰れば家事育児、自分の時間もなく、何のために生きているのか」という趣旨であった…
ちなみに、この嘆きは男性のものらしい。
仕事して、家に帰れば家事育児。
自分の時間なんてない。
そんな声は、男女問わず、巷に溢れていそうである。
夫は残業もして飲み会も行くのに自分はワンオペ育児で仕事もやりくりしているワーママ、というパターンもよく聞く。
その裏には、望んでいないのに仕事が多く家に帰れば役立たずと罵られる、そんなワーパパもいるかもしれない。
人それぞれ、望みも現実も、泣きどころも全く違う。
人と比べてもどうしようもないのが、仕事と家事育児のバランスや夫婦関係である。
わかっちゃあいるけど、こうした嘆きはやめられないし止まらない。
さて、「仕事して疲れて帰れば家事育児。自分の時間がない。」という一例を取り上げてもこの問題の「一筋縄で行かなさ」が顕著である。
おそらく、この場合は「自分の時間がないこと」によりもたらされるストレスが今一番何とかしたいことのようだ。
なら、仕事時間を短くし、浮いた時間で早く家に帰り家事育児を前倒しで夜時間を捻出することを考えないといけない。
あるいは、家事育児の時間を短くするために夫婦でさまざまな対策を考えて時間を浮かせることもありうる。
家事育児をパートナーがたくさんやってくれるようになってもその時間を仕事に注ぎ込むのは問題解決にならないので仕事家事育児の総時間を短くするのが解決策だ。
しかし、ここであれっ?と思うことがある。
もしかして、この方は「自分の時間がない」ことが悩みなのではなく「何のために生きているかわからないこと」のほうが悩ましいのではないか。
自分の時間があればそこで何のために生きているかわかることができると思っている。それ以外の時間は、自分のために生きているとは考えられていない状況である。
これは苦しい。
時間はどうにかアドバイスを受けたりして動かすことができるが、自分が何のために生きているかを考えることは自分以外が答えを出すのは難しいからである。
例えば、仕事が生きがい、家事育児が生きがい、その両者をうまいことジャグリングするのが生きがい、などであれば自分の時間がないこと自体が「生きる気力」を左右するほど大事には至らない。(自分の時間はあったほうが、精神衛生上よい)
今一度、考えてみたい。
自分は仕事で何をしたいのか。
育児家事でどんな感情を味わいたいのか。
あるいは、なぜ、それらをすることで「自分の大切なものがなくなっていく」かのような気持ちになるのか?
そして、私はこれをして生きていきたい思うものが時間的にも心的にも占める割合を上げていくことではないだろうか。
何のために生きているのか、その正解がわかっていればそれに注ぐだけである。
もし、ゲームやドラマのために生きたいのであれば子どもをパートナーに引き取ってもらい、一人暮らしをしたうえで自分の生活費だけ稼ぐ時間は我慢して取らないといけないかもしれない。独身に戻る形だ。
そこまで追い込まれるほど、日本における共働き育児は過酷なのか、と恐怖で唾を飲み込まざるを得ない。
私は今の所、何の取り柄もなく生きているだけだが子どもに恵まれ親が望んだ一人前の大人を達成し、これからは子に迷惑かけず死ぬところまで何とか行きつきたいと思う。
何のために生きているかを考える余裕すらない。
しかし、悩みがないことで救われることもあるもんだ、とぼんやり思う。
生きる意味なんて、考えても難しすぎる。