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勉強は劣等感を抱くためにするもの?|ほっこりを創りたい国語教師の自己紹介|はじめてのnote

ゆるい決意表明

 吾輩は、アラサーである。とこんな陳腐なパロディをするような、特に取り柄のない一介の国語教師です。30代に差し掛かり、自分には何ができるのかよく考えるようになりました。そこで、幼い頃から好きだった文章を書くことをやろうと決心しました。悩みの絶えない人生の中で、ほっこりする時間を創り出せたら幸いです。(少なくとも文章を書いている自分自身のほっこりをまず創りたい)

ほっこり学年通信のタネ

 以下の文章は、私の行きつけだった割烹料理屋さんで、お医者さんがお店のママに「AIを学ぶために東大に行く」という話をしている時に思いつき、学年通信で高校生へ向けて書いたものです。

勉強は劣等感を抱くためにするもの?

 勉強は劣等感を抱くためにするものかもしれません。
 良いか悪いかは置いておいて、高校は偏差値で輪切りにされてしまいます。つまり同じような学力の子が集まる。となれば中学校のようにトップに居続けることはできない。勉強すればするほど自分の不甲斐なさを突きつけられるような気がするかもしれません。(高校時代の私もそうでした)
 しかし、劣等感を抱くということはあなたの周りに誰かがいるということです。そしてあなたは、自分にはない良いところをその誰かの中に見出すことができるほど、優しさの感度に優れています。劣等感とは優しさかもしれません。勉強すればするほど優しくなれて、「等身大の自分だって きっと愛せる」(Mr.Children「花 -Mémento-Mori-」)ようになれるはずです。
 勉強していると、劣等感に襲われますが、それは優しさの感度を研ぎ澄ませていると換言できます。勉強していて苦しくなったら、「わたし、優しくなってる」って思うようにしてみてください。

やさしくなりたい

今後、ほっこりするような記事をゆるく発信して、「優しく」なりたいなと思っています。

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