言葉と曖昧模糊と、身体と
最近、こどもたちと接していて、言葉がものすごく信じられていると感じる。過信 身体を動かし運動エネルギーを言語化することで、意識できることはあるけれど、言語にしたことだけが全てでないことが忘れられている。ぐわーっと
ブワッと
みたいな表現がなく、ちょっと心配になっている。
大阪のおばはんの凄さ、思い出せ!笑
それから、絵が描けない。やたらとハサミに使い方が巧い。技巧的な訓練が先立ってしまっているんじゃないか…と危惧ばかり。
ふんわふんわしたもののすべてに輪郭が与えられるわけではない。私も意識しておこう もっと一緒に絵を描こう!
今日、読んだ日経新聞2024/9/13文化面「渦巻く縄文土器十選」縄文ZINE編集長 望月昭秀さんの文章
『顔に見えるものは大体顔である。…いくつかの顔に見える土器は縄文人が顔を意識していたであろう根拠を出せる。いくつかは根拠を出せない。あくまでも確信「めいた」ものだ。…』
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