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インナーチャイルド

~母親の死・リコン~

  支配に気付いていない私と子どもの日々の生活は穏やかだった。
母親は孫に優しく、適切な距離感を持って関わっていた。 成長に必要な教育も体験させてくれていた。
孫の気持ちを大切にしてくれていた。
母親は母親で「育てる」ということのやり直しを体験していたのかもしれない。
孫のためになるなら、家を建てる決断をした私を応援してくれたし、助けてくれた。
  しかし、私への支配がなくなったワケじゃない。
その間も指図は減らなかった。そして私に対して気が利かない、配慮が足りないとグチをこぼすこともしばしば見られた。

  ある年の瀬の朝、母親から電話があった。
「料理してたらめまいがして立てないから作りに来て欲しい。」と。
私は急いで支度して母親を見に行き、話を聞くと、昨日、コーヒー色の尿をした。今朝も同じ尿をしたと話す。普通ではないことや、年末になるから受診を勧めたがこの時は行くとは言わなかった。

 お昼頃、やっぱり受診すると言い、病院へ連れていく。結果は悪かったら夕方遅くでもします、との事。
  夕方、電話がかかり、緊急入院する必要があると言われ、紹介された病院へ入院することになった。
 約3ヶ月ほどの入院生活。私は自分が持病で生まれた時から母親に苦労かけていたことへの恩返しがてきる、と毎日洗濯物を取りに行き、子どもも連れて行ったりと看病した。 珍しくはないがなかなかの病名らしく、退院後も感染に気をつけるようにと医師に言われていた。

 退院した母親は久しぶりお稽古に復活し、指導していた。そんなある日、一緒にお稽古に出ていた私は、医師に安静と感染に注意と言われていたのに、あんな大きな声を出してええんかな?という思いが頭によぎった。   その晩、弟から連絡が入り、母親の再入院を告げられる。
  今度は原因不明で無菌室に入ってしまった。
投薬の内容がきつくなり、副作用でムーンフェイスになってきた。検査結果は一長一短で回復の兆しが見えなかった。 私は、お寺に祈りに行った。できることは叱られてもした。
  ある夏の日の朝、病院から電話がなり危篤状態だと告げられる。急いで弟と子どもと駆けつけると、危篤状態から脱した状態だった。そこでみんなと朝食をとり和気あいあいと過ごす中、母親は大丈夫だから家に帰ってもいいという。

  一旦帰って昼寝をしていたら、突然通り雨が降り始めた。私は「なんか、イヤな雨だな…」と寝ぼけながら思っていた時、病院から危篤状態の連絡が入る。
  駆けつけた時、息を引き取った。

葬式が終わり、一段落してお墓の手入れに行った時、ふと墓前を前に私は「私はあなた(母親)に認められたかった。」と思ってもみなかった心の声が出ていた。自分でも驚いた。そして泣いた。嗚咽しながら泣いていた。

  元夫はこの間何の力も役にもならなかった。本人から手助けの申し出さえなかった。
  葬儀も終わり、遺品整理も一段落した頃、ふと家計が徐々に厳しくなってきた事に気づいた。
見直すと、子どもに費用がかかり始めても元夫のお小遣いの金額は変わらず、保険料にかかるという金額に嘘があったことが分かり、減らすことを話し合った。
  この頃から家族・家庭を築くんだという私の努力や耐えてきたことの限界を超え、リコンを決意した。
私の精神衛生のためにリコンをする!と決めてから、頑張った。リコンできたのは、母親が他界したから、というのが大きい。生前だとまた脅されて支配され私は我慢し、そのうち崩壊していただろうと思う。

 

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