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【短編小説】私はトイレ 

《あらすじ》
 都心にある大手企業本社ビル内の女子トイレ。さまざま女子社員が訪れては、オフィスとはちょっと違った顔を見せている。女子トイレだけが知っている、ありふれた女子トイレ内の日常が、今日もスタートした。
 気になるのは、始業まもなく駆け込んできた女子社員だ。昼休みが過ぎ、夕方になっても、ブースに閉じこもったまま出てこない。

《本文》
私は、トイレ。
名前はまだ、ない。この先も間違いなく、ない。
都心にある大手企業の本社ビル37階、東側中央に居座って30年が過ぎた。

ビビッビ~~~♪ 
午前8時50分、始業ベルが鳴って10分も過ぎただろうか。若い女が駆け込んできた。イッセー・ミヤケの制服を着ている。社員だ。
有名なデザイナーがこしらえただけのことはある。わが社の女子社員は私服から制服に着替えたとたん、一段も二段も女っぷりが上がる。

そろそろ来る頃だと思っていると、今日もやって来た。今日も不機嫌だ。ブースから出ると、鏡の前に陣取った。
彼女は、ノーメイクで出勤する。
「低血圧だから、朝は弱いのよ」
化粧時間も惜しんでベッドにしがみつき、勤務時間を割いて化粧に費やす。化粧だって、仕事だ。

針金のような細い目が、みるみるうちにパッチリしていく。まつ毛だって、毛虫も顔負けするほどフサフサだ。トイレを去るときは、完全に別人。彼女の変身テクは、仮面ライダーと十分に張り合える。
おまけに不機嫌さは消え、別人のようにイキイキとしている。

たいていの女は、用を足したあと、鏡に向かう。この2人組は、鏡に向かったあと、用を足す。鏡の前は混みあうことがある。用足しタイムより、化粧タイムのほうが長いからだ。
鏡の前にいるのが、先輩ということだってある。押しのけてまで使うことはできない。空いている間に鏡を使うほうが合理的ということだろう。2人とも、今春入社した新入社員だ。

また1人、女子社員がやってきた。2人組の同期だ。
「ねぇねぇ、営業3課のカレ、彼女いるんだって」
「うっそー、彼女がうらやましい」
「社内の女みたいよ」
あの女か、この女か、何人かの女子社員が挙がった。
「キャンディーズにきいてみようよ」

キャンディーズとは、掃除のおばちゃんたちのことだ。モップとバケツを持って、いつも3人で歩いている。モップをマイクに見立てて、キャンディーズと呼ばれるようになった。
現在も掃除の女性たちはいるが、モップ姿ではない。女子社員たちは伝統的に、「わからないことはキャンディーズにきけ」と言い伝えられている。

社員の恋愛から、社員の癖、人事異動まで、キャンディーズの言うことは実に当たるのだ。
今どき、社内恋愛なんて珍しい。キャンディーズならわかるはずだ、正確に。

 女子トイレは、姦しい。2人以上集まると大騒ぎになる。どこの店が美味しい、インテリアがオシャレだとか、ウエイターがカッコイイなど、話題が尽きることはない。よくもまあと感心する。

昼近くなると、トイレはちょっとしたラッシュになる。休みになってからトイレに来ると、その分、休み時間が減るからだ。
ラッシュを避けるようにやって来る女もいる。今日も、昼休みになってすぐやって来た。
迷うことなく、一番奥のブースに行き、立ち止まった。そこは彼女の定位置だ。彼女はいつもこのブースを使う。しかし、今日は使用中だ。しばらく待っていたが、出てくる様子はない。しかたなく真ん中のブースに入った。
 
一番奥のブース。
朝一番で駆け込んできた女が入ったきりだ。何かあったのか、生きているのか、もしかして……。いやいや、昼休みに訪れた女が一度、ノックした。中からノックの返答があった。生きてはいるってことだ。ならば、なぜ出てこないのか。気になる。

 午後も入れ替わり立ち替わり、女子社員がやってくる。
「女はトイレでサボってるって言われたわ」
「男だって、タバコとか吸いに行くじゃないね。床屋にも行くし」
官公庁や昔からある大手企業のなかには、勤務時間中に理髪店に行くことを容認されているケースがある。
「午前と午後でヘアスタイルが変わってるなんて、女子社員にはいないものね」

「そもそもさ、女子がトイレでコミュニケーションしてるから、部署間の連携がスムーズなのよね」
「文具の貸し借り一つとっても、女子コミュあってこそだもんね」
おっしゃる通り! 目に見えないところで、女は活躍している。

それにしても、一番奥のブースが気になる。
もうすぐ4時だ。朝9時に立てこもってから7時間。一度も出てこない。万一のことがなければいいのだが。
私はトイレだ。トイレのことはすべてお見通しだ。ブースの中だって、お見通しさ。

見るのはお安い御用だが、ブースの中は見ないことにしている。それを矜持として長年、私はトイレをやってきた。完全なプライベート空間にしておきたいからだ。
かといって、ことによりけりだ。この場合は、やはり見るべきではないか。

あっ、来た。同じ課の女のようだ。
「大丈夫? 様子を見てこいって言われたの」
「大丈夫よ」
生きていた。
「周りからだいぶ責められて、アイツも反省してるみたい」
「目が腫れちゃってね、鼻水まで出ちゃうし。出るに出られないのよ」

同じ課の女は、給湯室からタオルに包んだ氷を持ってきて、ブースの下から手渡した。
アイツかぁ。悪気はないんだが、言葉がキツイんだよな、アイツ。パワハラ問題にならないといいがな。レピュテーションリスクは企業の命取りになりかねない。

終業15分前。
同じ課の女がまた来た。
「よほどわるいと思ったらしく、『何かうまいもんでも食べさせてやれ』って1万円くれたわ。何、食べようか」

8時間ぶりで一番奥のブースのドアが開いた。
「まだ、腫れてる?」
「腫れてるけど、お化粧して、眼鏡をかければ何とかなるんじゃないかな。自分が思うほど、人は見てないから」
「それも、そうね」

どうやらパワハラ問題は危惧に終わったようだ。
ジャ~~~。
トイレのミッションは、水に流せば達成だ。きれいさっぱり。

「どこに行く?」
「三丁目のお店ね、今ワイン飲み放題サービスやってるよ」
「そこに行こう♪」


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