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南ユダ王国の滅亡(5/9)

あらすじ

 ミカエルら一行は、聖都陥落の混乱の中、住人の殺された屋敷に逃げ込む。そこには、バビロニア軍を率いるメディア人の参謀総長がいた。ダニエルは、彼に、七つの時ののち、バビロニアは滅び、メディアとペルシアの時代がくると告げる。ルーシーがラファエル天使の代理だという、馬とミカエルは会う。

   13 リューアル

 ダニエルには警護役の少年らにくわえて、不自由民まで複数ついてきている。もしものとき頼りになるアリオクもいる。従順とはほど遠いわたしまで、ダニエルに従うことはない。桶のあった村にもどるほうが、神戸に帰る可能性が高いような気がしてならない。

ハカシャに寄りそっていそいそと歩いているルーシーを置き去りにしても、権謀術数にたけたルーシーは天使の使命をまっとうするだろう。いましかないと、自転車で逃走しようとしたとたん、なぜか、木の自転車はバラバラに砕け散った。

 異変に気づいたルーシーは駈けもどってきた。【異次元をさまよう彼女が、あなたをどこにも行かせたくないんでしょうね。グゥフフン】

「あの女の人が王女メディアなん?」

【冗談ですよ】

 炎上したダビデ王の王宮に近い、ハカシャの屋敷の納屋にルーシーを背負ったわたしとダニエルの一行は逃げこんだ。敵軍の王の側近であるアリオクも当然のようについてくる。ダニエルはなぜか見咎めない。

【いざというときの保険のようなものですからね】とルーシーはうそぶく。【なんたってネブカドネザル王の護衛長なんですから】

「アンタが足を痛めへんように、羊の皮で靴をつくってくれたもんな。靴をはいてる犬をはじめて見たわ」

 ルーシーは耳を貸せと言う。【目的があったのですよ】

「まさか」

【彼は自転車の破片を麻袋に拾いあつめていました。同じものをつくって王に見せるつもりなのでしょう】

「鉄製の戦車のある時代に、木の自転車がめずらしいかなぁ?」

【人類の発展は、知識と技術の継承によってなされます。時間はかかっても、彼らは鉄で自転車に似たものをつります、かならず】

 暗闇の中、兵士らの怒号や喚声が間断なく聞こえる。それ以外の物音はしない。この一画に住む住民の大半は逃亡するか、捕縛されるか、殺害されたらしい。

「いつのまにか、ダニエルもアリオクを頼りにしてないか? 谷底を這い上がるときも、アリオクに背負ってもろたらしいし」

【シャムライがどんなに勇敢でも、まだ少年ですからね。大人の男性の力にはおよびませんよ】

 常軌を逸した兵士らによって引き起こされる地獄絵図を目のあたりにした屋敷の召使らは息を殺し、納屋の床に這いつくばっていた。逃げそびれたわたしは広い納屋の片隅に積まれていた藁の山に倒れこんだ。ルーシーもすぐそばで寝そべった。

 手のとどくところにうずくまっていたダニエルに、ハカシャが声を潜めて言った。「カナン人の召使が言うには、メディア軍の総参謀長が接収したので命拾いをしたそうです。それで屋敷の焼失もまぬがれたと」

 屋敷内にいた彼の親族の遺体は、屋敷を接収した総参謀長の計らいで城壁外に移送されたという。

 わたしはルーシーの背中にかぶさって、たずねた。「総参謀長って、デイオケスのジィちゃんのことやろ?」

 ルーシーはわたしの耳に息を吹きかけながら、【データによると、彼の祖父フラワルティは最高指揮官を兼任していますので、宗主国のバビロニア軍のシデオン将軍に勝るとも劣らぬ権限を有する軍人と言えるでしょう】

 耳がこそばゆいと言って、ルーシーの口をふさいでいると、

「静かにしろ」シャムライが押し殺した声で言った。「犬の唸り声のせいで馬が落ち着きをなくしている」 

「そっちこそ黙ってろ」

言い返すと、ハカシャが突然、泣きだした。見つかったら、串刺しにされると怖れているのだ。

「ヤキトリの手前になるわけか」

【幼いハカシャは暗がりの中で恐怖と戦っています】ルーシーの棒状の手がわたしの青あざをはたいた。【傷ついた少年の心の痛みを、共有できない天使など神の御使いの名に恥じる行いです!】

「他人の痛みが共有できるんやったら、犬と契約してへん」

 シャムライの尖った声が飛んできた。「殺されたいのかっ」

「やってやろうじゃん」

 言い争っているうちに、戸外が静かになった。

「敵の兵士らは神殿の方角に去ったようです」

 ハカシャはそう言って、ランプに灯りをともした。

 頭の上で突然、いななく声が聞こえた。

 囲いの中に背の高い赤い馬が浮かびあがった。

「穀物を保管しておく納屋が無事だったのは、総参謀長の愛馬のおかげのようですね」と、ダニエルは言った。

「先陣をきって走るので赤い火=アククゥツと呼ばれている」とアリオクが言った。「陛下が所望しても、総参謀長はけっして手放さない名馬だ。メディア人にとって、馬は太陽の象徴なんだ」

 大きな鼻孔で鼻を鳴らし、前脚で地面をかくたびに、赤い前髪が耳の間でフサフサと揺れている。鼻の穴を開いて血のような色の汗をかいていた。頭から尾までも長いが、蹄から頭の先まで3㍍近くある。ルーシーは同系色のアククゥツの足元にそろりと近づき、においを嗅ぐと歌うように吠えた。アククゥツは応えるように前脚を高くあげていなないた。シャムライがルーシーを追い払おうとしたが、アククゥツは、邪魔なのはおまえだとでも言わんばかりに長い顔で彼の背中を押しのけた。

「この馬、好き嫌いがはっきりしてるやん」

 ルーシーとアククゥツは旧知の間柄のように互いに見つめ合っていたが――、【彼は、ラファエル天使の代理だそうですワン。ようやく意思の通じるわたしと巡り会えたと言ってたいへん喜んでいます。彼の感激に応えるためにも、わたしはこれまで以上に職務に忠実でありたいと肝に命じます。したがって、のど飴を2つ授与してください】

「馬がのど飴、舐めるのん?」 

【Beg pardon?】 

「馬が飴を……」

【2つともわたしのものですが】

「念のために訊くんやけど、どっちがエライのん?」

 アククゥツは長い首を上下した。

【自分だと意思表示していますが、見栄を張っているのです。代理と名代では、雲泥の差です。名代の場合はガブリエルさまから直々にお達しのお言葉を賜わります。代理の場合は、情報システムセキュリティ省内の神光掲示板に命令コードが出るだけです。天界の辞書に、代理は本人にかわってする人と書かれていますワン。ご名代という敬語はあっても、ご代理という敬語はありません】

「あんたの話を聞いてると、自分を小者やとつくづくと思うわ」

【ブレイン・ネットに関して、彼はわたしに劣りますが、それは彼のプログラムが、道案内に限定されているからです。言ってみればツーリング・ホースですよ。グゥフフフン。この世界での彼の名は、アククゥツですが前世では――ま、いいでしょう。後の世に生まれ変わるときは、おそらく赤兎馬と呼ばれるでしょう】

「横山光輝の劇画『三国史』の赤兎馬やったら、あぶないやん」

【乗り手の天寿をまっとうさせない凶馬だと言いたいのですね。あれは薫卓と呂布の非論理的な左脳に欠陥があったからです】

 シャムライはアククゥツのうなじに触れて、「安心しろ、おまえの主人は無事だ」と話しかけている。

「うちらの内緒話がシャムライに聞こえてるんか」と怪しむ。「関西弁やのに」

 ルーシーは頭を無限大の形に振った。わたしたちの見えている世界が一瞬、停止した。

【スキルを高める信号を、彼の内耳に送れば黄金の耳=ゴールデン・イヤーになる可能性がなきにしもあらずですが、もともと天使としての機能がインストールされていませんからね。むりでしょう。わたしたちへの嫌がらせでやっているだけですワン】

 目の端で、シャムライの耳を見る。金冠頭のように黄金色の耳になるのかと思いきや、ゴールデン・イヤーとは通常では聞き取れない周波数の音まで感じることができる耳のことだそうだ。

「信号を送るつもりやったら飴はやらん」

【寛容の精神に欠ける天使は神の裁きを受けますよ。それが嫌なら、のど飴を、わたしだけに2つ――】

 シャムライの精悍な横顔に影がさした。「ユダの王は、馬を備えることを禁じられていると申命記の17章にある。神の御言葉なのか、レビ人祭司の考えたことなのか、おれにはわからんが、どの王よりも神に忠実な方とされたダビデ王は、パレスチナ一帯を治めたのちに、馬の命ともいえる腱を切断し、早く走れないようにした。だが晩年、馬と100台の戦車を備えた」

 話し声を聞きつけたティイワは大声で反論した。

「われわれは騎兵や戦車に頼るのではなく、力ある神ヤハウェの戒律に忠実であるべきなのだ。神が守護してくださる」

 ティイワの頭の中はやはり竹輪だったようだ。わたしのもっとも苦手なタイプだ。キタバは押し黙っている。ハレやハカシャはどちらの考えにくみしていいのか、不安げな表情を浮かべている。

「メディア人は馬を〝男の翼〟だと言っている。おれたちは彼らのように馬を乗りこなせない。先代のエホヤキム王はエジプトのファラオに馬と戦車を送ってくれと懇願したそうだ……」

 シャムライは物憂げな表情でアククゥツを見上げた。

 アリオクが口をはさむ。「名馬は、乗り手の主人とともに敵地にむかって疾駆する。武具の触れ合う音にも慄かない。この赤い馬は俊足なので総参謀長の命をいくども救ったと聞く」

 ルーシーが横から、【アッシリアは、馬の背で帝国をつくったと、のちの歴史家に言わしめています。当初は1頭の馬に、騎手と射手が乗り、敵を攻撃したのです。それが次第に1台の戦車に騎手1人に射手2人で攻撃するようになりました】

 馬がひく鉄製の戦車に乗る弓兵を現代に置き換えると、装甲車になるのか? それを敗ったのが、メディアの騎馬兵団なのか!?

「ソロモン王の時代には、1400頭もの馬がいたと列王記にしたためられていますが――」キタバはダニエルにたずねた。「どうして馬がいなくなったのですか」

 ハカシャがダニエルに代わって答えた。

「旱魃による飢饉や、いくさの敗北などで馬の数が著しく減少したと父から聞きました」

「腱を切断しなくても減ったのなら、なおさら馬や戦車を買い入れるべきだった」

 シャムライは無念そうだったが、ダニエルはたしなめた。

「神のなされることに疑いを差しはさんではなりません」

 いつのまにか、意見は対立していた。

「なぜ他国から輸入しなかったのですか?」とキタバは重ねてたずねた。

「馬はとても高価なのだ」アリオクの口調は諭しているように聞こえた。

「奴隷1人の対価は銀30シェケルだが、馬1頭は少なくとも銀150シェケルする。戦車にいたっては銀600シェケルはくだらない」

 ルーシーが耳打ちする。【銀1シェケルが約2.2㌦ですので奴隷は約66㌦、馬は約330㌦、戦車は約1230㌦になります。1995年のプラザ合意後、4月の円相場は、戦後最高値の1㌦が79円75銭をつけます。秋口には1㌦100円に戻すのですが、ドル安円高は長くつづきます。そのレートで換算すると、奴隷1人が約6600円、馬一頭が33000円ほどです】

 1995年1月17日から2日と経っていないのに、どうして3カ月後の4月のことや秋口のことが、ルーシーには予測できるのか?ルシファーの娘で、ガブリエルの名代だという、とんでもない触れ込みは本当なのか?
 1995年には神戸の地震を皮切りに驚天動地の事件が起きるらしい。

【宗教団体が地下鉄で化学物質を散布し、日本中を恐怖に陥れます】

「秦野もそんなようなことゆーてたな。つまり、あわてて帰っても、ええことがないって言いたいわけやろ。何が起きても、帰りたい。人間1人が、たったの6600円やで。安すぎる。一個300円の、144分の1のガンプラがなん個、買えるんやろ? 6600を300で割ると……22個か」

【銀30シェケルは、90日分の賃金に相当したのです】

「1日働いて、なんぼになるのん?」

【76㌣ほどです。貧しい人びとは大量に収穫できた大麦や稗を食べていましたのでどうにか暮らせたのです。大麦は、1.1㌦で10㍑買えたのです】

「10㍑……?」

 ルーシーの丸い目の上に眉毛のような黒い毛が数本生えていて、それが毛羽立つときがある。

【2㍑入りのペットボトル、5本分ですよ。現代でも1日2㌦で暮らしている人はたくさんいます。さほど変わっていないのです。人身売買も行なわれていますしね。話を耳にするだけで吐き気がするような犯罪がいまも昔も、目に見えないところで平然と行なわれています】

 蔑みと怒りを含んだルーシーの唸り声にシャムライの声が重なる。

「訓練された兵馬となれば天井知らずの高値だ。この馬1頭で傭兵が何十人も雇える」

 彼は馬の顎を撫でながら言った。

「われわれの国には、鉱石を溶かす大きな炉がない。あっても燃料となる木材がない。馬具や戦車の車輪をつくる鍛冶職人が、いない。いまでは農具さえ手に入りにくい。腕のいい鍛冶職人はほとんどが寄留民なので、エルサレムに反乱の兆しを感じ取った彼らはシリアかバビロンにすでに移住してしまった。今回の進攻で、残っていた石工や陶工や木工も連れ去られるだろう」

 キタバが口をはさむ。

「ダビデ王は神殿を建造するために莫大な量の鉄を貯えたと言われている。塩もだ。ソロモン王の治世下では数十万タラントの鉄が他国から寄進されたと歴代誌に記述されている。フェニキアからは杉が送られてきたと」

 だれもが感じるだろう疑問がわく。もしかすると、ソロモン王は溶鉱炉を造ろうとしていたのではないか。購入したと言えば、民の反感をかうので寄進されたと言ったのでは――。

 ルーシーは唸る。【1タラントは20~40㎏だそうです。仮に50万タラント寄贈されたとすれば、最大で約20000㌧に相当します。大型船並みの重量です】

「神への信仰と城壁があれば、人も町を守れるとダビデ王は遺言された」

 ティイワが声高に言うと、

「神の顕現する神殿より大事なものなど存在しない」とキタバが同調した。「ユダ王国を包囲したアッシリア軍は一夜で滅んだではないか。慈悲なく罰せられたのだ」

 シャムライは濃い眉をくもらせた。ダニエルを敬愛する感情と、攻撃にさいして必要な馬と戦車を配備しなかった指導者らへの強い憤りと不信感の狭間で彼の心は揺れているようだ。彼の強固な意志も葛藤が生じると感情をコントロールできなくなる気配だ。

「レビ人祭司や律法学者どもの言いなりになっているから、おれたちは、国を追われる身におちぶれたのだ。祭司らに、おれたちを導く力のないことははっきりしている。いまになって、先代のエホヤキン王の心痛が理解できる。バビロニア軍に対抗し得る軍備を整え、自国を守ろうとしたのだ。王国が分裂したとき、北の王国には主立った9部族が従った。領地のないシメオン族も彼らに従った。ユダ王国に従ったのは、どの部族からも疎まれていたベニヤミン族と神殿のレビ人祭司だけだ。いま聖都の滅びを目前にして、味方のはずのベニヤミン族は投石兵すら寄こさない。当然だよな。初代サウル王はベニヤミン族だった。聖都は彼らのものだった。出自がユダ部族であるダビデ王は、ベニヤミン族から聖都を取り上げたのち、王となる者はユダ部族に限ると定めたのだからな」

「おまえは、〝神の民〟の名に値しない」とティイワは言った。

「おれの名は、アラム語では、北の王国のサマリアを意味すると父は言っていた」と、シャムライは言い返した。

 気まずい空気が流れ、それぞれ思い思いの場所に座りこんだ。

「なんで軍備を整えなかったん?」

 こっそりルーシーに訊く。

【整えられる状況になかったのです。軍事力の弱い小国はつねに強国の支配と干渉を受けます。本来なら軍事費に当てられる費用を、宗主国は貢納させます。一挙両得ですからね。属国を弱体化できるうえに自国が富むわけですから――とはいえ、ユダ王国の最大の敗因は貴族と祭司の腐敗にありました。貴族は私有地をひろげ、祭司は防備にあてるべき金を神の名のもとに着服し、私服を肥やしたのです】

「この国には、神サンや預言者はいても、〝フォースにバランスをもたらす者〟を探すオビ=ワン・ケノービがおらんへんのや」

【オビ=ワンの役目を、ダニエルさまが果たすのです。ダニエルさまは不正をせず、武力を用いず、目的を達っせられます】

「魔法使いやな」

【神の御言葉を預かる、預言者であられるのです】

 長じてペルシアの高官になるのかもしれないが、12歳の少年にできることなどタカがしれている。

「アククゥツがオビ=ワンかもな」と言って、馬の口にのど飴を2つ投げ入れる。

 ルーシーは苦悶の表情を見せる。【わたしの善良な心は腐敗し、企みを回避することができない】

「だれが何を企むのん?」

【わたし以外の者にのど飴を1度に2つも与えるとは――あなたはアククゥツとわたしを離反させる魂胆なのか……】

 仕方なく要求をのむ。ルーシーの両頬がのど飴でふくらむ。

【〝神々の門〟とも〝背徳の都〟とも呼ばれた伝説の都バビロンのヴィジョンを見せてあげましょうか? イザヤ書の21章に、『エラムよ、のぼれ、メディアよ、囲め』とバビロンが2つの国に攻め滅ぼされると預言されています。『倒れた、バビロンは倒れた、その神々の像はことごとく打ち砕かれて、地にふした』とあります。ユダヤ人は自らは非力であっても、神がバビロンを滅ぼすと信じています】

 カランカランと飴が牙のあいだで転がる音がする。

「神戸に帰ろうな。ここにきたときに入ってた大きな桶にもどろうな。世界最終戦争があると予言されてるイスラエルのメギドに行きたいとずっと思てたせいで、こんな悪夢を見るんやわ」

 嘆いても、

【5カ月後、このたびのいくさに勝利したバビロニア軍が凱旋するときのヴィジョンですよ。大軍が運河にかかる吊り橋を渡る場面など立体映像で見ると、臨場感にあふれています。ハリウッドの歴史ものより、興奮しますよ】

「いまの神戸がどうなってるか、見せてよ」

 と言っても、ルーシーは、

【神のメソッドに誤りや不可能はありません。光子と電子を所有するスーパークラスのお方なのですからね。ただし、オブジェクト=対象者を意識して神がコトを為される場合、対象者そのものが敵に破壊されないようにモジュレーション、つまり調整です。それをする必要が生じるのです。わたしたちはそのために派遣された2個のカプセル――ひらたく言えば、蓄積プログラムなのです】

 マンガならここで、□※?§◇……となるはずだ。

【Have you seen? 四大文明発祥地のひとつ、ユーフラテス川ですよ】

 気づくと――、

 風景の中に自分が溶け込んでいる! 映像なんかじゃない。ルーシーもわたしもアククゥツの背にまたがって、川面を低飛行していた。大河の両岸に広がる椰子林や麦畑を俯瞰しながら、ゆったりと流れるユーフラテス川を下っていく。両岸がひと目で見渡せないので、海上を飛んでいるかのように見紛う。

【アククゥツのおかげで、グレードアップしましたからね。彼のサイドエフェクト――特技のことですが――時空を越えて翔ぶことができるのです。ナイス・ビューイングでしょ】

 数えきれない船やいかだが、海と見紛う大河を下っている。

【中央のもっとも大きな軍船に、ネブカドネザル王が乗船しています」

「これってほんまに紀元前6世紀なん?」

【傭兵の掠奪部隊と属領の将兵らは現地に残っていますが、同盟国のメディア軍はすでにユーフラテス川を渡河して、山岳地にある彼らの王都エクバタナに帰還しています】

「報酬はどーなるん」

【他国からやとった傭兵には賃金が支払われますが、賦役で駆り出された属領の兵士らに支払われることはありません。それで掠奪がおきるのです。昔も今も兵士の動員で国内は疲弊し、混乱しますが、大航海時代を経て技術革新は進みます。そのもっとも良い例が通信設備です。悪い例が核兵器です。世界は確実に終末にむかっています。日本は世界の雛型だと言った宗教家がいました。唯一の被爆国である日本に起きたことは、世界に波及するという意味です】

「なんも信じてへんから、何がどうなってもどうでもええわ」

 巨大都市バビロンは、大河を堰き止めるようにしてそびえ建っていた。

 大きなため息をついたルーシーは、はかないとつぶやき、それでも思いなおしたのか、

【荷駄を運ぶロバやラクダをつらね、食料と水を補給しながらの行軍は数カ月におよびます。バビロニア軍が昨年の侵攻の三カ月後にエルサレムを包囲できたのは、さきほど言ったように全軍が撤退していなかったからです。覇権国の米軍基地が日本の各地にあるのと似ています。現在の日本は思いやり予算という名目で米国に支払っていますが、当時のイスラエルも変わりません。金銀や穀物、果実、織物などを宗主国のバビロニアに貢納していたのです。当然、昔も今も異を唱える人びとが現われます。軍備を整えずとも、神への信仰があれば強国は攻めてこないと断言する律法学者や上級祭司に対して、何事にもおよび腰の貴族、戦わぬ王は王ではないと民を扇動する氏族や戦士団や下級祭司、くわえて王国の滅亡を預言者などなど――収拾がつきません。聖書で批判されている王もいますが、好き勝手に意見を言う側近に惑わされない王が存在するでしょうか。23歳で王位についたエホヤキン王に何ができるでしょう】

 ふむふむとわたしはうなずき、

「武闘派が氏族と戦士団で、非戦派が上級祭司と預言者なんや。そこにどっちつかずの金持ちの貴族と商人が加わるわけや。ちょっとずつ全体の構図が見えてきたわ」

 バビロニア軍の兵士は南の地平線に陽炎のように浮かぶジクラト=聖塔が望めた瞬間、歓喜の声をあげた。

【遠征軍の将兵は疲労困憊しています。戦闘のときも掠奪のときも、兵士は平常心でいられなくなるせいで、神経バランスが壊れているからです】

 聖なる都と讃えられるエルサレムとは比較にならない、壮大な光景だった。天をつく高塔。町全体を囲む城壁。縦横に敷かれた道路。整然と居並ぶ建物。

【メソポタミア随一の都市とうたわれる、バビロンの聖塔はかつてニムロデ王の建てた〝バベルの塔〟に匹敵します。山岳地のメディアから輿入れした王妃のために建てられた〝空中庭園〟は近隣諸国にも有名を馳せています】

「ネブちゃんの奥サンって、メディアから来てるんや。メディアは信用できひんようなことゆーてなかったか?」

【信用できないから人質をとるのです】

 長い石段が見える。四角形の巨大な土台の上に7、8段の台座が積み重なっている。上にいくほど台座は小さくなり、最上階は四角形の壁で囲まれている。天井はなく、内部には上向きの矢印の形の置物が天に向かってに突き出ていた。台座の脚の間から角と鱗のある生きものが顔を出している。

【矢印は鍬に似た武器を表し、農耕の神=ベル・マルドゥクの象徴なのです。ベルはアッカド語で主人を意味します。ダニエルさまが近い将来、ネブカドネザル王から与えられる、ベルテシャザルの名は、この国の最高神マルドゥクにちなんで、王を守護するという意味です。マルドゥクの子=ナブ神は筆記用具を表す楔型で現されます】

「大昔からロゴマークはあったんや。すぐそばにしゃがんでる、鱗と角のある恐龍のような置物は何?」

【随獣のマシュフシュです。蛇と龍の合体した生きものです。蛇はメディアの髄獣で、龍はアッシリアの髄獣です】

「ずいじゅうって何よ」

【神につき従う、けもののことです】

「日本の神社で見かける獅子やキツネみたいなもんなんや。ここの神サンは蛇と龍のハイブリッドを連れてるのん?」

【大昔メソポタミアを支配していたシュメル人が信仰していた神はティアマトと呼ばれ、龍の化身でした。伝説では、その龍を滅ぼしたのが、カルデア人の祖先、アッカド人の崇めるマルドゥク神ということになっています】

「『ジュラシックパーク』やな」

【バビロンには、多種多様の神々が祀られています。月の神のシン、太陽神のシャマシュ、天の女神イシュタルなど】

「日本といっしょなんや。神サンだらけゆーことなんやろ?」

【さぁ、着岸しますよ】

 波止場に船が横づけされると、蟻の行列のように将兵がぞくぞくと下船した。最後に錨を下ろした船から武具をまとったデイオケスが降りてきた。彼はまぶしげに空を見上げているが、アククゥツに乗ったわたしたちの姿は目に映らないようだ。

【総参謀長の孫のデイオケスは、数カ月ぶりに目にするジクラトを複雑な思いで眺めていることでしょう】

「なんで、自分の国に帰らへんのよ」

【祖父の総参謀長に従い、故郷に凱旋すれば、どのような栄達が待っているかと期待に胸をふくらませていましたからね。彼は将来、メディアの王位を継ぐことを彼の父親も本人も願っていました。しかし、後ろ盾を失いましたので望みは遠退きました。エクバタナに帰還することなく、メディア王であるキャクサレスの命令でバビロニアの属領地パールサ、のちのペルシアに派遣されることになったのです。人質のようなものです】

「後ろ盾って、総参謀長のことなん?」

 ルーシーは素知らぬ顔をし、

【見てください、この壮大な眺めを、輝きを――。1度は、鉄器時代の幕開けを飾ったアッシリア帝国のセンナケリブ王によって破壊されたバビロンですが、ネブカドネザル王とその父親の2代で以前より強固に、そして麗しく建て直したのです。もしも現存していれば観光資源になったでしょうに残念です。いつの時代も新たな覇者は旧来の文化を許容しない傾向にあります】

 戦利品と捕虜を加えた大行列はいつ果てることもなくつづいた。

 波止場を人馬が埋めつくし、立錐の余地もない。捕虜の人数は数えきれない。

【王と貴族と職人と女子どもらで1万余の民が捕らわれたのです。ユダ王国全域から集められましたからね】

 眼下では、馬上の大男が、デイオケスに駆け寄った。

 彼らの話し声が耳に入ってくる。

「バビロニア軍の将軍が、船中で、神官長と宦官長を居室に呼び入れて密談をしていましたぜ」

「いまさら、死者はもどらん」デイオケスは物憂げに答えた。

 大男はさらに言った。「連中は、総参謀長の死因について、キャクサレス陛下への報告に困っているようです。デイオケスさまもお気をつけなすって」

 大男は馬の腹をひと蹴りし、後方の集団にまぎれこんだ。

「死因……?」

 首をかしげるわたしに、ルーシーは事もなげに、

【気にすることはありません。わたしたちの使命とメディア人の総参謀長の生死は無関係です。幸運なことに】

「幸運……?」

【口が滑ったのです。FAT=管理表通りのエンディングを実現することが、最大の責務だと思ってください】

「ひょっとして、デイオケスのジィちゃんは殺されるん?」

【毒を盛るのは、女性に多いのですが、宦官は、女性に近い男性ですからね】

「耳打ちした大男は、だれなん?」

【ウリツゥです。総参謀長の馬番だった男ですが、奴隷長に昇進したのです。宦官長のアシュペナズに内通し、主人の毒殺に手を貸したことへの恩賞でしょう】

「デイオケスはそれを知らへんの?」

 ルーシーは聞こえなかったのか、

【ユーフラテス川の東西にまたがるバビロンを見ましょう。3階、4階建ての石造りの家が隙間なく建っているでしょ?緑の丘を模した空中庭園をはじめとして、図書館や博物館などの公共施設が備えられています。整備された道路沿いには8層もある巨大なジクラトや壮麗な王宮や神殿がそびえています。それら建造物の手前に釉彩煉瓦の青い門が立ち、美しいたたずまいを見せています。罪深き都と聖書に記されていますが、属領からの貢ぎ物で人びとの暮らしは豊かでした。波止場は遠国の船で賑わい、戦えば圧倒的な戦力で相手の国を打ち負かします。古代世界でもっとも繁栄したバビロニアの王都、それがバビロンなのです。ニネヴェとともに美しい都でした……現存していれば……】 

ルーシーは黒目を潤ませた。

「ネブちゃんは戦費が足りんって嘆いてたやん」

【たしかに。王は都の整備に大金を注ぎすぎたのです。聖書に描かれるネブカドネザル王は野卑で傲慢な印象を受けますが、実際の王は、バニパル王とかわらず美意識が高く、聡明であったと思われます。残念なことに、ティルスにこだわりすぎました】

「ユダヤ人を捕虜にしたから悪く言われるん?」

【学校で学ぶ歴史は、遅れて登場した西洋文明によって人類が発展したように教えられますが、正しくありません。セム語族の人々が住む都市はヨーロッパが未開の地であった頃から世界各地に存在したのです。シュメル人が礎を築き、ニムロデ王やネブカドネザル王が手を加えたバビロンもそのひとつと言えるでしょう。チィグリス川上流にあったニネヴェも……さらに言えば、日本の縄文時代は最古の文明と言えるでしょう】

「ネブちゃんは領土がメディアやエジプトより狭いゆーて、悔しがってたやん」

【アッシリア滅亡後の西アジアにおいて、領土の広さがどうあれ、国力においてバビロニアに勝る国はありませんでした】

 満々と水をたたえた広く深い運河が都の周囲をめぐり、二重の城壁が町を囲んでいた。

【全長にわたって100の門があり、門に隣接する建物の屋上は4頭立ての戦車が乗り回せる幅がありました】

 精銅製の門は陽光を反射し、その美しさは比類がない。天空を映したような青い門をくぐる、おびただしい兵士の群れが見える。

 ラッパの音が高からに鳴り響いた。

【ネブカドネザル王の行列ですよ。青く染められた煉瓦で壁面が飾られた〝イシュタルの門〟を黄金の戦車が通過しているところです。市街をまっすぐに貫く〝行列道路〟へと進みます。道路は2層になっていて、上層の道路脇の壁面には獅子と雄牛が浮き彫りにされています】

 この都市のどこにも憂いや翳りは見あたらない。

「ほら、あの、味の素のCMで流れる曲を流してよ。キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』でも流れてたやつ……」

【エルガーの『威風堂々』ですね】

 しかし、聴こえてきたのは辛気臭い調べだった。

「画面と音楽がズレてるで!」

【サティの『グノシェンヌ第1番』です。バビロンにもっともふさわしい曲を選んだのです】

 ルーシーはグワンとひと声、吠えた。

【繁栄したが故に背徳がはびこり、神の怒りをかい、滅びる宿命にあるのです。シュメル人の都市ニップルやアッシリア人の王都ニネヴェがそうであったように、だれにも止められない。栄光と衰退は背中合わせなのです。いつの日にか、ロンドンやパリやニューヨークや東京も……】

 遠征軍の凱旋パレードはバビロンを沸騰させていた。黒と白の敷石で敷き詰められた上層の道路を、王の乗る黄金の車を護衛する騎馬部隊が行軍し、下層の道路を補給部隊や捕虜が行く。

【これまでいくども市民の歓呼に迎えられましたが、今回のエルサレム遠征ほどバビロンの人びとを熱狂させたことはなかったのです。カルデア人の神ベル・マルドゥクが、ヘブライ人の神ヤハウェに勝利したのですからね】

「エホヤキン王は捕虜になっても、弟のマッタニヤが即位したんとちゃうのん?」

【ネブカドネザル王の命令で、マッタニヤはゼデキヤと名を改め即位したことでユダ王国の名は残りましたが、ユダ部族の主だった人びとのいなくなった都はこののち荒廃し、もはや聖なる都とは呼べないでしょう】

「アンタが嘆くことないやん。ここでは喜んでる人も仰山いてるねんから」

【バビロンが滅びるという流言蜚語を耳にし、この街の住人は少なからず気にかけていたのです。今回の遠征で、ユダの若き王を捕虜にし、神殿の床や壁の黄金を剥ぎ取り、神殿前の精銅製の水盤や2つの聖塔を壊し、持ち帰ったのですから大勝利です。神殿はいまや脱け殻です。紀元前581年に第3回目の捕囚があり、エルサレムに残っていたユダの民は聖都から追われます。ユダ王国は完全に消滅しますが、エホヤキン王が生き延びたことで王統は引き継がれ、イエスさまのご生誕にいたります】

 窓という窓から花が投げられた。捕虜は壮麗な都のあり様を目にし、飢えが増したようだった。鎖につながれた手で花びらをひろって食べていた。その中に、神殿でわたしたちを襲ったケニ人もいた。

【ダニエルさまの乗る2頭立ての馬車は、王と王直属の親衛隊のすぐ後方に続いています】

「アリオクが推挙したん?」

 ルーシーはそれには答えず、

【半日かかって、全軍が神殿のある広場に達するのです】

「シャムライらは? ヤディもいまの映像に映ってなかったように思うねんけど……アタシらは神戸に帰るとしても……」

【Well,Well.眠くなりました】

 ヴィジョンは一瞬で消えると、ルーシーはあくびをし、アククゥツの足元でまるまった。

 納屋の戸口が開いた。

 みな、一様に警戒した。ダニエルは素早く身を隠した。

バビロンに舞った花々の香りが鼻腔に残っている。髭もじゃの大男が袋を背負って入ってきた。ヴィジョンで見たウリツゥだ。ルーシーは薄く目を開けた。

ダニエルをのぞいてシャムライら5人、ケニ人の4人、召使の3人、それにアリオクとルーシーとわたし。みなの瞳がいっせいに大男を見つめた。

「おれは総参謀長の馬の世話をしている」

 岩のようにゴツゴツした顔のウリツゥはそう言って、目の粗い麻袋を放り投げた。

「食い物だ」

 ダニエルとルーシーとアククゥツ以外は、麻袋の中身に突進した。アリオクは姿を消していた。馬番の大男はアククゥツにまぐさを与えると、この屋敷の召使に命じて、庭にある井戸から水を汲んでくるように言った。

「馬は澄んだ水しか飲まない。桶の水は、真っ先に馬に飲ませるのだ。おまえたちが口をつけた水を飲んで馬が病になれば大事だ」

 馬と人間の価格に5倍以上の差があるのだから当然なのだろうが、「なんや、割りきれんな」と愚痴りながら平たいパンを食いちぎる。

 ルーシーは鼻息を荒くし、【どうして一人で食べる気になれるのですか。非常識です。極悪非道です】と文句たらたら。

「取りに行かへんから、いらんのやと……」

【基本ソフト=0Sである、あなたには感謝の念が欠けています。ここまで楽に生き延びられたのは、だれあろう、このわたし――すなわち応用ソフトのおかげです――もし、わたしが逆の立場なら何をさしおいても、命の糧となるパンと水を大恩人に差し出します。ああ、そうであれば……あなたのやさしい心根を思い、万感、胸にせまるものがあるでしょうに】

「性格が歪んでへんか?」

【あなたほどではありません】

 ルーシーは鼻の頭にしわを寄せながらパンを噛む。黒目を宙に浮かして、アククゥツのよだれの入った水を飲み、ひと息つき、

【神の戸口が開く頃には、毛並みのツヤがなくなっているかもしれません。ジィーズゥージィー】

 いつもの騒音がはじまった。 

「ワンワンウーッでは、戸口は開かへんの?」

【磁気モーメントの方向が定まらないことには、光の波がねぇ。電力を貯めておくコンデンサーが――ひたらく言えば結界がねぇ――エンジェルカードの問題も解決していませんし……磁場は循環的なんですよ。力ではなくポテンシャルが重要でねぇ……電源官に掛け合わないことには、更新頻度の高いトランザクション処理システムに侵入できないわけですよ】

 きっとこのまま帰れなんいだと思うと、気力が萎える。

 ここでの食糧は基本的に平たいパンと濁った水のようだ。婆サンのつくる料理に不満だったけれど、ここの暮らしと比べると、まだしも彩りがあった。

【大丈夫ですよ、どこまでもついていきますから】

「頭ン中を読まんといてよ」

【リサーチしているわけではありません。わたしに搭載された高水準プログラムを主とすると、あなたはサブルーチンなのです。つまり、呼び出す側と呼び出される側の関係です。情報を共有しているわけではありませんが、メモリーのサイズが不確定なうえに配列に誤りのあるデータであっても、時と場合によっては勝手にジャンプしてくるのです】

「わけのわからん言葉でケムにまいてるつもりやな。英語と理数は鬼門やとわかってて、そこを突いてくるなんて卑怯や」

【現代国語や古文、漢文は得意なんですかぁ。文法が暗記できないんじゃないですかぁ。なんとまぁ、お粗末な脳細胞なんでしょう。意識や意思をつかさどる脳は分子や細胞でてきた精密機械ですワン。データの集積装置が満足に機能しないだなんて、お気の毒ですぅ。キャパシティとメンタルの問題ですね。ジィーズゥジィー……】

「応用ソフトかなんかしらんけど、アンタが死にかけたときに泣くんやなかった。のど飴を返せっ」

【グゥフフフン、グゥワン、クシュン】

 よだれがわたしの顔に貼りつく。

 金冠頭を前に傾け、突き刺す真似をした。

「いざとなったら、アタシひとりで逃げるんやから」

【ミ・カエル、Feel sick!】

 ルーシーの鼻の穴がふくらんだ。ジーズゥジーズゥと鼻息を立てている。鋭い牙で対抗する気らしい。こっちは金冠頭でいくしかない。バーベキューにするぞと言って首をのばし頭突きの構えでいると、ウリツゥがそばにきた。

「これをやろう」と言って、黴びた硬いものを差し出した。

「石鹸か?」とたずねる。

ウリツゥは「凝乳だ」と答えた。

 ルーシーに投げてやると、食べながら唸る。

【どうせ、わたしはバーベキュー用の犬ですからね、黴臭いチーズでも食しますよ。Shit!イエスさまが再臨されるとき、白馬に乗って地上に来られます。犬が御供をするのは、吉備団子ひとつで家来になる『桃太郎』か、なんの対価もなしにくっついていく『フランダースの犬』くらいですよ。Oh,Sad to say.のど飴と稗のパンで、名ばかりの天使長につき従うわたしがいたましいですワン】

「この犬は食うときも、唸るのか?」とウリツゥは不思議がる。

「何か、用か?」

「おれは総参謀長に先駆けて神殿広場に一番乗りしたんだ。あんな不思議なものをはじめて目にした。黄金の像に見えたぞ」

「魔術だと思わないのか?」

「バビロンには名のしれた魔術師が幾人もいるが、おまえと犬のようなことはできない」

ウリツゥは大きな体でしゃがみこむと、金冠頭に触れようとした。

「死んでもいいのか」

 ウリツゥは熊手のような手を引っ込めると、

「おまえの腕にしているものはなんだ」

「何に見える?」

「わからないから聞いている」

「養い親からもらったものだ」

「おれにくれないか?」

「いやだと言ったら、おれたちを売るのか」

「馬番のわしを侮るのかっ」

「お話があります」

 物影に潜んでいたダニエルが、大男の前に進み出た。

「何だ……」ウリツゥはたじろいだ。

 多少、衣服や顔面が汚れていたが、この中にいるだれよりも気品に満ちていたからだ。

「この屋敷に滞在している、総参謀長に取り次いでいただけますか」

「なりません!」シャムライが真っ先に止めた。

「この人数です。おそらく総参謀長は、われわれが潜んでいることをすでにご存じだろうと思いますよ」

「護衛長のアリオクが伝えたのか」シャムライが歯がみした。

「いいえ。彼はバビロニアの王のもとに参じたのでしょう」

 ダニエルは常に冷静だった

 髭もじゃのウリツゥは勿体ぶった顔つきでしばらく考えこんでいたが、懐から小刀を取り出し、「魔物の黄金の被り物をくれれば、取り次いでやってもいい」と言った。

 即座に首を横に振った。

 ダニエルは涼しげな顔と声で、「ミカエルさま、彼の要望を聞き届けていただけますか」

「断る」と言い終わらないうちに、ルーシーは唸り声をあげ、上着の袖口に咬みついた。

【いま、わたしたちにできることを行動にうつさなくては、神のご意志にお応えできないのです。命を使う使命を忘れたのですかっ】

「神サンからは、なんにもしてもろてへん」

【全能の神の御名を辱めるのですか!】

「なんで髪の毛を差しださんなんのよ。さんざん危ない目に遭うたのに。このうえ、丸坊主にされるやなんて、ゼッタイいやや!」

【時間は一方向に流れているわけではありません。わたしたちはみな重なり合う次元の空間を移動しているだけなのです。ひとりひとりの意識の集積によって、未来は確定するのです。ここであなたが、犠牲的精神を発揮すれば、これまでの過ちが許され、天使としてふさわしい処遇うけられます。エンジェルカードの申請も……】

「話がちがうやん。バビロンが滅びることは確定してるのに、いまになって未来を変えられるやなんて――アタシの知らん未来をアンタが知ってるゆーことは、未来はきまってるゆーことやないの」

「いつまで犬とジャレてるんだ!」シャムライが怒鳴った。

「おまえの頭髪など馬に比べれば、半分の値打ちもない!」

 いくさに役立たず、食料にもならないと言いたいのだ。

 袖口に咬みついているルーシーを押しのけると、出目を三白眼にし、

「金色の髪を失えば、おれさまと犬はもとの世界に戻れなくなる」

「お言葉の通りかもしれません」ダニエルの声は音楽のように心地いい。「それでもなお、彼の求めに応じていただきたいのです」

 拒めないと心のどこかでわかっていた。聖なる光の一部であるダニエルの言葉に勝てる者などいないと、内なる魂は知っている。

信念の差によるのか? 

 神への愛の有無によるのか? 

 しぶしぶうなずくと、シャムライは小刀を逆手に持ち、わたしに近寄り、金色のイガ栗のような頭髪を根元からバッサバッサと切り落とした。

 あっという間に金色の尖った髪が削がれ、坊主頭になった。

 ウリツゥは、被り物じゃないのかと落胆した様子だったが、金色に光る髪の束をかき集めると両手でつかんで持ち去った。はじめは、気に入らないヘアスタイルだったが、いざ、頭からなくなると、風通しがよすぎて無性にさびしくなる。

【大切なものを喪ってからでないと、その価値を知ることができない気質にあなたは生まれついたのです】

「爺サンや婆サンのことをゆーてるん?」

 頭皮をかきむしると、金の粉がハラハラ落ちた。

【カッターナイフを使用するたびに、禿げになる心配はこれでなくなりました。感謝にはおよびません】とルーシー。

 ウリツゥが戻ってくると、ダニエルはわたしをうながした。

「ご一緒にまいりましょう」と。

 シャムライが同行すると申し出たが、ダニエルはそれにはおよばないと言う。

 なんでやねん。

 過去の世界にタイムスリップしても逃げ道はないようだ。選択肢がないと言うべきか。世間の常識も、神サンも、なんの関係もないというのに、信念と神への愛に欠けるせいで利用され窮地に追いやられる。

「不公平や!」と憤る。

 とたんにルーシーはまばたきもせずに言った。

【それを言うのはわたしのほうではありませんか? 天使長のはずがなんの取り柄もない、ただの怠け者につき従うことになったわたしの身にもなってみてください。本来なら、あなたはダニエルさまに、『このわたしがついている』と言うべきところなのですよ。天界に戻ったさいには、神光掲示板に事の顛末を書き込むつもりですワン。天界中に情報を拡散してやりますよ】

「その手で書き込みはできへん」

 ルーシーはまたもや、【Shit!】とののしり、【ローマの哲学者のセネカは言っています。『小犬は見知らぬ者に出会うと吠えたて、下種は美徳に出会うと気分を損ねる』と】

「なんのこっちゃねん」

【人間の劣等意識について、セネカは語っているのです。博識と美徳に勝れた中型犬のわたしはむやみに吠える必要がありません。But、下種すなわちセネカの弟子、暴君ネロのような下等な人物はおのれより上種の者と出会うと卑屈になり、暴言を吐くのです】

 大男のウリツゥに従い、篝火に照らし出された中庭に出た。

 満天の星空が頭上にひろがっていた。つかめそうでけっしてつかめない数えきれない発光体にむかって両腕をのばした。

 ダニエルは立ち止まり、

「『目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ』と先人は記しています(イザヤ40:26)」

と静かに言った。

 じゃかましいとわめこうとした。

ルーシーがわたしの後ろ足を噛んだ。

ますます頭に血がのぼる。

憤怒を抱えたまま、屋敷の奥へと入る。

両開きの立派な扉の前に来ると、馬番のウリツゥは魔物とダニエルを連れてまいりましたと大声で告げた。

「入れ」低いが、よく通る声が扉の中から聞こえた。

 押されたわけではないが、もし敵が潜んでいれば、真っ先に攻撃されるのは下っ端である。

「アンタが先に入り」と言うと、ルーシーは【自己犠牲ほど尊い精神はありません。あなたに譲ります】とさらりと言う。

 下種の魔物が先に入った。

 フラワルティ総参謀長は大男の馬番と変わらぬ堂々たる体躯をしていた。一見したところ、養父と変わらぬ高齢者に見えたが、もっと若いのだろう。背後の椅子には目もくれず、立ったまま骨つきの肉をかじりながら、裸眼で地図らしきものに見入っていた。

鎧をまとったシニアのプロレスラーみたいだ。

扉の前で眺めていると、赤銅色に日焼けした顔の総参謀長は広げた羊皮の地図をたたみ、目をあげた。

「セム族か」

 白髪まじりの髭におおわれた傷だらけの顔面とは裏腹に、その声は穏やかだった。

 青灰色の瞳はデイオケスと同じだった。

「日本人だ」と答えると、総参謀長は大声で笑い、「エラム人、ヘブライ人、シリア人、アラビア人の諸部族もふくめて、総じてセム族と呼ばれている」

「アンタは?」

「わしらの祖先は北方に住む遊牧民だった。その頃は、セム族に捕らえられて奴隷市で売られていた。白人奴隷と呼ばれてな。いまは西方の白人がセム族に捕らえられて売られている」

 ひと足遅れてダニエルとルーシーが入ってきた。

「おお!」真打ちの登場に総参謀長は声をあげた。「バビロンの王宮で王につき従う侍童を何人も見かけたが、妖しいと思ったことがなかった。おまえの眼差しにさらされると、わしの野太い声や腕がこの場にふさわしくないように感じるほどだ」

 ダニエルは匿ってくれたことに感謝の意を述べると、

「あなたさまに身の危険が迫っております。そのことを、おしらせしたくてお目にかかりました」

 ダニエルはもしかして、ルーシーがわたしに見せるヴィジョンや話す内容を感知できるのでないか……?

「そのような、たわ言をわしに告げてよいのか?」

「何人もむやみに殺害しないようにと、あなたさまがご命じになられたと、うかがいました」

「われわれの国メディアはこのエルサレムより高地(海抜900~1500㍍)にある。東には広大な砂漠地帯があり、南にはエラム人の国がある。降雨はわずかだが、肥沃な平野もいくつかある。よい牧草地もあるので牧畜に従事している遊牧民がほとんどだ。羊や牛や山羊、ロバ、ラバなどを飼育し、よい品種の馬を育てるのに適している」

 ダニエルはうなずいた。

「青銅や金の細工をする有能な金属細工人もメディアは擁しておられます」

「わがメディアは隣国のアッシリアに長く支配された。表向きはアッシリア帝国傘下の自治国とされていたが現状は異なった。貢ぎ物として、バクトリアのラクダとラピス・ラズリを献上し、家畜と馬を税として課された。初代のデイオケス王によって、競い合っていたあまたの部族が統一され、ようやくアッシリアに対抗できるようになった。その後も、紆余曲折あったが、バビロニアと和商協定を結び、ようやく自国の領土をもち、広げることができた」

 総参謀長は手にした骨つき肉を皿にもどし、その手で胸当てや肘当てなどの武具を体から取りのぞき、わたしたちにも食べるようにすすめた。

「お言葉のみいただきます」とダニエルは応じない。

 パンや肉や夏の果実が山積みになった皿がテーブルに並んでいたが、近いうちに毒殺されかもしれない人の食べ物は、よだれが出るほど食べたくても食べられない。

 総参謀長が、物欲しげなわたしを見据えた。

「おまえなのか、犬を使って妖術を使うという少年は?」

 黙っていると、「黄金の冠はどうした?」ときかれ、「巷では、嵐をよぶバアルの化身とも噂されているようだ。偶然とはいえ、雷鳴がとどろき、雹が降ったので、みな、恐れ慄いたようだな」

「妖術ではありません。神の御業です」ダニエルが代わって答えた。

「われわれの神は、公平と正義を地上に行なわれるのです」

「メディアの王都エクバタナにも、マゴス神官団なるものたちがいて、奇怪な儀式に日夜、励んでいる。いくさの勝利でさえ、火の神のお告げと加護によると、マギと呼ばれる神官どもは真顔で広言する」

「メディア人の信じる神を信じておられないのですか」

 ダニエルがたずねると、

「いくさに神の加護はいらぬ。戦備を整え、地形を知り、斥候を放ち敵方の陣形を探り、戦術を考える。ユダの指揮官のように無謀な戦い方は戦術とは言わぬ。味方の損失をいかに少なくするかを考えてこそ勝利できるのだ。神の加護でいくさに勝てると考える者は勝利できない。この屋敷の者は、このような詳細な地図を所持しながら、なぜ、傭兵の寄せ集めのバビロニア軍の包囲網をかいくぐる方策を考えなかったのか、ふしぎとしか言いようがない」

 総参謀長はいかつい顔をしかめると、

「もう一日早く、わしが入城していれば、この屋敷の者も死なずにすんだであろうに――シデオン将軍は、わしの策にことごとく異を唱える。退却すると見せかけてユダの戦士を平原に誘い出し、短期決戦をせよといくども申し伝えたにもかかわらず、難攻不落のエルサレムを包囲するとは――戦略のなんたるかがユダの兵士同様、わかっておらぬ。バビロニアの王も同じ考えゆえに、わしはシデオンに後をまかせて一旦、後方に退いたのだ。わしの進言で、エルサレム城内に内通者を潜入させていたから陥落したのだ。そうでなければ無駄な月日を要しただろう。いかにも――心許ないことだ」

 総参謀長はイチジクを皮ごと口に放りこみ、一気に飲みくだすと、「わがメディア王も、ネブカドネザル王がバビロンの北――わが国との国境に近い場所に城砦を築いてもなんの疑いももたず安穏としておる。自国の脅威となることに一向に気づかぬ。マギどもは、わしがキャクサレス王に具申せぬようこの地へ送りこんだのだ。孫のデイオケスともどもな。王の側近をつとめる、わが家の長子はお人好しの能なしだ。迎合することしかしらん」

「バビロニア王とメディア王の双方にご不満がおありなのですね?」

「キャクサレス陛下は、かつてわが国の国境を侵しつづけた黒い海の北に住むスキタイ人と和平を結び、余勢をかつてメディアの南部に住むペルシア人を従え、隣国のバビロニアと手を携え、スキタイ人らも加わった大軍で強敵アッシリアを倒した。おかげで東はバクトリアから西はアララット山の麓、アルメニアまで四方に版図を広げた。しかしいまでは安寧を求めるようになった。力づくで奪った領土が未来永劫、子孫のものとなるようにと日夜、祈っておられる。マギどもに耳を貸したせいだ。やつらは宦官同様に王宮に巣食う獅子身中の虫だ。おまえたちの国の祭司どもも同類だ。神の加護でいくさに勝利できるなら、戦馬も戦車もいらぬ」

 ダニエルは眉ひとつ動かさずに、

「ネブカドネザル王は、今回の軍事行動にさいしても、お召し抱えの占星術師にアンモンの都ラバに進軍すべきか、それともエルサレムに向って軍を進めるべきか占わせたと聞き及んでいます」

「ほぉ、よく存じておるな。わしは占いのたぐいは信じぬ。エジプトとティルス、パレスチナの南北に位置する両国を牽制するのであれば、中間点となるエルサレムを掌中におさめなくてはならぬ。肝要なのは北のメギドと南のペリシテ人の都市ガザだ。この2つの町は隊商にとっても軍隊にとっても〝関門〟となる」

 いつものようにルーシーの声が頭の中心で聞こえる。

【古代以来、ガザはエジプトとパレスチナ、シリアをつなぐ要衝として栄えてきました。いまもイスラエルと敵対するパレスチナ自治区の中心地です。時代を経ても基本は変わりません。ユダヤ教徒とイスラム教徒が混在して暮らすことは不可能です。互いに神の名のもとに相手を敵とみなしているからです。世界の火薬庫と言ってもいいでしょう】

 総参謀長は骨つき肉を手に取り、唸るルーシーに投げた。

ルーシーは床に落ちるのを待って、においを嗅ぎ、ゆっくりと咀嚼した。

「はじめて見る犬種だな? 履き物まで履いているのとな。人が話すように唸ると耳にしたが、どこで手に入れたのだ」

「畜犬交換センター」と答えると、総参謀長は微苦笑した。

 ルーシーはなんと訳したのだろう。捨て犬だったとは訳していないはずだ。たぶん、産地は東の国で、総参謀長の愛馬と同じ価格だと言ったに違いない。

「黄金のように光る冠はどうしたのだ? 見てみたいと思っていたのだ。さぞ、見ものだったろうな」

「抜け落ちたので、妖術はつかえなくなった」

 と言うと、

「奇怪というか、面妖というか」

 総参謀長は近寄り、しげしげと毛髪の根元を覗き見た。

「代赭石などを用いてつくった糊を髪につけ、金粉を散らしていたのか?」

 骨つき肉をくわえたままルーシーは口の端で唸った。

【古代ではぁ、赤鉄鋼に動物の脂とアカシアの樹脂と砂を混ぜてぇ、強力な接着剤を使っていたのですワン】

 ギシギシバリバリと骨を噛む音がつづく。

「アンタの言うとおり、金粉が剥げ落ちたのだ」

 わたしが答えると、ルーシーは骨つき肉を床におき、

【もっとましな言い訳はないんですか? 下種につける薬はない】

「2度と生えてこぬのか?」

 首を縦にふると、

「おまえはギリシア人なのか」

「ニッポン人だ」

「はじめて耳にする部族の名だな。孫の話によると、おまえと犬は東の果ての島からきたと聞いたが、真実か?」

「2600年後のニッポンからきた」

 総参謀長は破顔した。「途方もない話だな」

「未来の世界からおれさまと犬はきた」

「兵士の人数を把握するとき、千の単位で考えるが、それを年数に置き換えて考えたことはない。7人から10人で最小の部隊をつくり、統率する者を選び、それを10倍、100倍にして指揮官となる者にまかせる。2600はいくさのできる兵力ではないが、ひとつの町を占領し、維持するにはやや多すぎる。いまもそうだ。ユダ部族の、神の箱なるものを恐れるネブカドネザル王は、かつてのアッシリア軍を越える10万もの兵士を近隣諸国から徴募したと吹聴しているが、実際は、数万に満たない兵力だ」

 ダニエルははじめて動揺した。「まことでございますか!」

「多く見積もっても6、7万だ。服属国は命じられた数の兵士を集められない。わが国には2万で出兵するようにとお達しがあったが、数千がやっとだ。それさえ、リュディアとの国境に配備している兵の一部をさいて移動させなくてはならなかった」

「では、エルサレムを包囲している兵士の数は……?」

「せいぜい2万だろう。それらの兵士をエルサレム近郊の荒野に長く張りつけておくには水も糧食も足りないと気づき、早々におのれひとり、バビロンへ帰還しおった。気紛れな王は近隣の山に登ったおりに総司令部をおき、総司令官のシデオンに指揮をとるように命じた。それで親征したつもりになったようだ」

【ネブカドネザル王は気紛れで山に登ったのではありません】とルーシーは吠えた。【その山はエルサレムのキデロンの谷の東側に位置するオリーブ山の北にあって標高820㍍あります。西暦70年、ローマ軍がエルサレムを攻撃するにあたって、司令部をおいた場所です。ローマ人はおそらく事前に知っていたのでしょう。標高812㍍のオリーブ山の樹木を伐採したとヨセフスの『ユダヤ戦記』に記されています。戦略を立てる総司令官はエルサレムの城内が眺望できるスコプス山にいて指揮をとらなくてはならないとさまざまな歴史書で学んでいたのです】

 総参謀長は、ネブカドネザル王を御しがたい王と思っているようだ。

「近いうちに1個師団を残して移動がはじまる。逃げるのなら、兵士の統率が乱れているいましかない。ただし、ヨルダン川の東側=トランス・ヨルダンの、アンモンとモアブに逃げるのはやめておけ。ティルス攻めに必要な戦費を、ハマトで陣を張るネブカドネザル王はこれらの国から調達するつもりのようだ。いや、それは口実だな。どちらの国も富はしれている。われわれメディア軍を疲弊させるための戦略だろう」

「王はハマトに?」

 ダニエルが訊き返すと、総参謀長は、ネブカドネザル王は現在、精鋭部隊を従え、オロンテス川の東、ダマスカスの北方、シリアとフェニキアの国境に近い〝ハマトの地〟と呼ばれるリブラ郊外において陣を張っていると言った。

「10日間でバビロンから移動できるのか?」

 独り言をもらすと、

「なぜ、日数を知っている?」

「……」

黙っていると、総参謀長は、「のちの世からやってきたのなら、これから起きることも知っているということだな」と言って笑った。

 ダニエルは深くうなずき、意を決したように、

「あなたがたメディア人とペルシア人の子孫が、魔都バビロンを滅ぼし、西はリディアをはじめギリシアの島々、東はガンダーラ、クジャラートを従える広大な領土を治めるでしょう。そのとき、ユダ王国の民は自由を得られるのです」

 総参謀長の眼光が鋭くなった。

「そのような戯言を、ネブカドネザルの耳に吹き込むつもりなら、いまここでおまえらの命を奪わねばならぬ」

「バビロンが滅びる、その日まで、笏状をもつ者、王に真実を告げることはありません。わたしたちの神は、ソドムとゴモラを滅ぼしたように穢れた彫像を拝するバビロンを滅ぼすと定めておられます」

 総参謀長はさぐるような目つきになり、

「それはいつなのだ?!」

「神殿の御物が喪われた70年後に――」

「わしも息子も孫も生きておらぬな。キャクサレス王も」

「ネブカドネザル王の権威は存命中、揺らぐことはありません。しかし、王の血をひく後継者と、その王位を纂奪した者たちは帝国を治める能力を有しません」

「わしの死んだ先のことなどどうでもよい」

「ご子息の一族がどうなってもよいと?」

 総参謀長は椅子に座り、「おまえたちの王と大祭司と兵士は捕らえられ、ネブカドネザルのいるハマトへ護送中だ。時勢を押し止める力はだれにもない」

 わたしは思わずつぶやく。

「王はエルサレムにむかったのではないのか……」

「新たに召し抱えた星を見る女の助言で、ハマトにとどまったのだ。わが軍には、西はティルス、パレスチナが一望できるレバノン山脈の南端に位置するヘルモン山(海抜2814㍍)の頂に監視哨を設けるよう命じた」

 総参謀長はため息まじりに、「若い頃のネブカドネザルは陣頭で指揮し、予言者や占い師の言葉に惑わされることはなかった。戦略にたけた有能な軍人だった。大河と2重防壁に守られた王都のせいで、王の心は守りに入ったのだろう」

 ルーシーがキュンキュン鳴くので、顔を寄せると、

【フェニキアの諸都市はリブラの南西に位置しています。彼らがこぞって兵をあげ、エルサレムに援軍を送れば、王は軍を率いて一気に交易路を下って、エルサレムにむかうフェニキアの連合軍を殲滅する戦略を立てています】

「伝令官が南下しているゆーてたけど……」

 ぼんやり考えていると、

【ヘビ女のせいで、王は偽の情報に踊らされたのです。フェニキアの諸都市にその意図はありません】

 総参謀長は腕組みをし、「いくさの多くは誤った情報によってもたらされると、軍人の養成機関で教えられる。予言のたぐいもそのうちの1つだ」

「バビロニアの王は近い将来、世界帝国の王となられます。その1年ののちに、病に倒れられるでしょう。いまから準備をなさるべきです」

 ダニエルは感情を排した声で言った。

 総参謀長は揶揄するように、「いまはまだ帝国の王とは称されぬということか? 野心家のバビロニア王のおかげで、同盟国のわれわれメディア人は酷使されている」

「世界の平衡点、聖なる都エルサレムを掌握した王は、のちの世の人びとから地上における帝国の支配者と呼称されます」

「4カ国のうちでネブカドネザルが、世界帝国の王となるのか?わがメディア王ではなく」

 ダニエルはうなずき、「バビロニアの時代は長くつづきません。あなたさまの子孫が世界帝国の王となられるでしょう。アッシリアやバビロニアの王と異なり、その名声はゆるぎなきものとなります」

「子どものたわ言に付き合う気はない。下がれ」

「お願いがあります。ネブカドネザル王がユダの現王の命を奪わぬよう、王に進言していただきたいのです。願いをお聞き届けくだされば、死の淵にいるあなたさまの運命を変えてさしあげます」

 総参謀長は日焼けし顔面を上気させた。

「わしが死ぬというのかっ」

「神がその御業をお示しにならないかぎり、そうなるでしょう」

「死から逃れられる者などいない。恐怖心でわしを意のままに操ろうとしても無駄なことだ」

「わが神ヤハウェをお信じになることです」

「わしにはいかなる神も不要だ」と総参謀長は言った。「多くの将兵がいくさ場で死んだ。わしの戦略のせいでな。いまさらおのれひとり、死神から逃れようとあがいてどうなる」

「生き永らえることで、あなたの子孫が王となり、のちにどの国の王も為し得なかった大帝国をうち建てるでしょう」

 総参謀長は鼻毛を抜き、吹きとばし、「いまも、兵士は暴行掠奪を日々の軍務と心得ている。この町には呻き声と悲鳴しか聞こえぬ。ユダの戦士は篭城して長期戦にもちこむつもりだったのだろうが城内に裏切り者がいてはいくさにならん」

「閣下が密偵を送りこんだとおっしゃいました」

「戦闘とは名ばかりのいくさだ。相手は、逃亡兵がほとんどだ」

「このいくさで、ユダ王国は滅びたも同然です」

「戦いが終わったあとまで無益な殺戮をしたいとわしは思わぬが、兵士を諌める者がいない」

 バビロニアとメディア双方の財産となる捕虜を、むやみに殺戮してはならないとバビロニア軍の4人いる司令官に通達したが、1人として聞き入れなかったと総参謀長は淡々と言った。

「閣下のご温情なくば、わたしどもは塵となっておりました」

「戦闘がはじまるまではわしが最高指揮官だが、いくさがはじまればバビロニア軍の総司令官であるシデオン将軍が何事も決める」

 総参謀長は杯を手にし、銀製の壷を傾けた。

「このおっちゃんは、バビロニアの軍人が好きやないねんな?」

 こっそり訊くと、ルーシーは立派な尻尾を立てて唸る。

【この地上で、他国の人間を信じきれる民族はいません。疑心暗鬼が無用のいくさや争いを生むのです】

 総参謀長は杯をもった手を止めると、「おまえは犬と話せるのか」

 わたしたちが話していると気づいた人間は、総参謀長がはじめてだった。

「驚くことはない。額に刺青のあるおまえが犬と話してもなんの不思議もない。わしは愛馬と話せる。そうか、それでその犬は履き物を履き、ターバンを頭に巻いているのか。やはり異形の民だな」

 総参謀長は、わたしたちに下がるように言った。

「定めのないときまで、生き永らえられますように」

ダニエルは低頭し、顔を上げると、杯に毒が塗られていると告げた。

「そなたひとり、残れ」総参謀長はダニエルに命じた。

 やはり、ダニエルはわたしとルーシーの話を聞いているようだ。

 納屋に戻ると、羊肉とパンと果物が届けられた。

 シャムライらは輪になり、ダニエルの威光を賛美し、舌づつみをうった。ケニ人も押し頂くようにして食べている。しばらくしてもどってきたダニエルをみなで囲み、口々に礼を言う。ダニエルは黙って微笑を浮かべている。腕時計を見る。6時14分59秒。気づかないうちに7分経過している。針がわずかずつでも動くということは、帰れると思ってもいいのか。

「なぜ、おまえは食べない?」とシャムライが訊く。

「あとで」と答えた。

 みなが毒味をしてからでないと食べる気にならない。

 彼らは食事を終えると、ランプをさげて床下に降りて行った。

 わたしとルーシーは馬小屋で夜明けを待つことにした。アククゥツが寂しがるし、みなと折り重なるようにして狭い場所で身を横たえるなんて、思うだけでぞっとする。子どもの頃に集団生活をしたせいか、眠りを妨げる寝息が耳障りで煩わしい。

「ダニエルはレベル5なんやろ? レベル1のアタシとレベル4のアンタで援助する理由がない」

 ルーシーは蔑みの目でわたしを見る。

「毒にやられて具合が悪いのん?!」

【このミッションがなぜ、あなたとわたしに下されたのか、真剣に思い悩んでいるのですワン。あなたが前世の苦難をわずかでも記憶していれば、平和の君の恩寵を骨の髄まで感じるでしょうに。残念でなりません。いまから話すことを、心して聞いてください】

「アタシらって、前世でも知り合いやったん? ほんなら、アタシはミ・カエルとちゃうわけや。ミ・ワンワンなんや」

 ルーシーはわたしの手に咬みつく真似をした。

【あなたはユダ国からやってきたレビ人祭司の見習いで、わたしはサマリアの王族の末裔です】

「ルシファーの娘とちゃうかったんや。アッシリアの書記官やいうのはやめたん?」 

【Shut up!】

「退屈やからヴィジョンでたのむわ」

【紀元前724年、第108代のティグラト・ピレセル王の率いるアッシリア軍は、イスラエル王国の都、サマリア城を包囲したのです」

「北の王国も南の王国もなんで篭城するんやろ? 敵の攻撃をひたすら待つ作戦なんて、日干しになったあげくに負けると思わんのかなぁ。撃って出ても負けるからなんやろけど。北王国と南王国は仲が悪かったそうやのに、することは同じなんや」

【アッシリア軍は、フェニキアやシリアを服属させ、古代王国のバビロニアを駆逐しています。短期戦、長期戦のどちらにも強かったのです。鉄壁の防壁を誇るサマリア城を攻めるさいに、数万におよぶ軍兵を動かすことなく、兵糧攻めに出たのです。城壁の外では、蝗の群れのような兵士たちが朝な夕な悠々と食していました。それが3年間つづいたのです。幸か不幸か、ティグラト・ピレセル王が病を得て急死したために、攻略するのに時を要しました】

 敵の工兵部隊は丘陵の土塁にしつらえた鉄製の石投げ機をつかい、火で焼いた大石を城内に投げこんできたという。

【まがまがしい流星に似た深紅の光芒は、月の放つ怜悧な光明とは異なり、サマリア城内の人々の折り重なる骸の山を照らしだす灼熱の光彩のようでした】

「エルサレムのときのナレーションと似てないか? ちがうバージョンはないのん?」

 ルーシーの黒く濡れた鼻の頭にしわが寄った。

【第109代シャルマネセル王の率いるアッシリア軍の破城槌車と攻城梯子による攻撃に、ナフタリ族を筆頭にガド族、ルベン族の必死の抗戦で耐えました。食料が尽きたのが主な敗因でした。アッシリアが兵糧攻めに出たのは、北王国の兵士がアッシリアの兵士と拮抗する戦闘力があったからです】

「南のユダ王国からの援軍がないんやから負けてもしょうないんとちゃう?」

 ルーシーはうなだれた。

【紀元前721年、北の王国が陥落したあの日、わたくしは王宮内の神殿にいたのです】

 突然、ヴィジョンが見えた。

 シューシャンと名づけられた乙女は、純白の長衣の上に薄紫のベールを被り、ひれ伏していた。とんがり帽子に似た黄金の兜と黄金の顔面の美少年の小さな像に向かって、少女は祈っていた。

「天空の支配者バアルよ。イスラエルの王と民にお力を!」

「バアルって、どーゆーことよっ」思わず詰め寄った。「ヤハウェのまちがいやろ?」

 ヴィジョンは一瞬でかき消えた。

 ターバンから突き出たルーシーの耳は根元から折れたように真横にへしゃげている。

【降雨と豊穣の良き訪れを告げる巫女でありたいと思いつづけていました。ユダ王国から派遣されたレビ人祭司らはわたくしのことを、バアルに仕える魔女と罵っていましたが気にしませんでした。あの頃のわたくしはまっさらの心で、偽りの神バアルを崇拝していたのです。バアルの神殿に仕える巫女となるために北王国の重臣の一人であった父よりそのように育てられたのです。当時は自分のヒトコネクトームが、つまり人間の神経回路の全体図が、父ルシファーによって秘匿されているだなんて知らなかったのですもの。なんの疑いもなくバアルの神=金冠頭の美少年像に香をたいて祈りますよ】

 犬の声にも表情があって、甘えているようにも拗ねているようにも聞こえた。こういうのを、媚態というのか?犬の声音にもそんなものがあると知り、ますますあなどれないと思った。

「もしかして、アタシ……アタシの前世はバアルの親戚なんや、そやから金冠頭なんや」

【いいえ。あなたはレビ人祭司の見習いでした】

「三白眼のアオガエルやなしに人間の男やったんや!」

【当時の名はペレス。タカと同類のミサゴのことです。英語読みではオスプレイ――アメリカ軍の最新鋭輸送用ヘリの名で、骨を砕く者という意味ですワン。初飛行は1989年。この年の1月に新天皇が即位し、4月に天安門事件があり、11月にベルリンの壁が崩壊し、小学生だったあなたが、クラスメートの男子の手に噛みつき、大怪我をさせた年でもあります】

 いきなり、現実に引きもどされる。

「骨は見えてたけど、噛み砕かへんかったで」

【ミサゴは猛禽類ですからね、尋常でない行いをするのです】

「ほんなら、あんたの、シャンプーみたいな名前の意味は?」

【シューシャンは、ユリの花です。グゥフフフン】

 ルーシーは丸い黒目の長いまつげをしばたいた。

「ヴィジョンをごらんになってもおわかりのように、ダニエルさまに勝るとも劣らぬ美貌の持ち主でした】

 グゥフフフンとルーシーはもう一度、口の両端から奥歯を見せて笑い、

【あなたは、神の掟、律法に背く行いをする者には鉄槌がくだると、城門の前で毎日飽きもせず、唾を飛ばして説教していました。額に刺青をして預言者気取りでした。むさくるしく、うっとうしい若者でしたよ】

「ええっ! アタシってそのときおでこに刺青してたん? そやから生まれたときから青いあざがあったんや。ナットクやわ」

【わたくしはユダ王国のプロパガンダだと思っていましたから、刺青を目にしただけで全身に悪寒が走りましたワン。あなたのほうはわたくしを見かけると、説教も忘れて見惚れていました。だからぁ、わたくしは反省しているのです。極めつけの美少女に恋をし、無視されたあなたは失意のあまり、リニューアルのさいに性別をさだめて変成することを忌避したのではないかと……。お気の毒ですワン。ギョロ目の青白い顔は、ほぼ昔のままですものね。額の刺青が五芒星のあざになるなんて思ってもみませんでしたワン】

「手術ができんはずや」

【今世に変成してもわたくしの目を惹こうと金冠頭にまでなって、ほんとしつこい性格ですわ】

「いまの話――」ルーシーの頭にゴツンと額をぶつけた。「アンタに都合がよすぎひんか? 本気で、アンタの言うように考えたんやったら、あざのない美少女か、ダニエルみたいな美少年に生まれ変わりたいと思うはずや」

 ルーシーはペロリと鼻の頭を舐め、【ですからぁ、わたくしはアッシリアの書記官に転生したのち、このような姿になり、あなたは幸運にも天使長ミカエルにリニューアルしたではありませんか。なんの不足があるのです】

「リニューアルで、これか……。なんで、フツーの容姿の人間に生まれ変わらんかったんやろ?」

【基本、天使は両性具有です】とルーシーは言ったあと、コフンコフンと空咳をした。

そして、【何に生まれ変わるかは、天使変成省の担当事務官によって認定されるのです】と言い足した。

「百歩、いや百万歩ゆずって、あんたの話が事実としたら担当事務官の仕打ちを恨むわ」

【あなたの脳細胞に内蔵されたスタック領域のデータは、最後に入れたデータのみを見たり消したりできる構造になっているようですね。その結果、狂信的なレビ人祭司見習いとしての遺伝情報が末梢された可能性が大です。データが重なることで衝突を起こしたのか、プログラミングのさいに分析と手順に誤りがあったのか。とにかく属性の継承に異変があったために、あなたは、わたくしのように覚醒していないのですワン】

 覚醒している犬にしては、タワシのようにゴワゴワした毛並みはみすぼらしくないのか。

「アンタもアタシも天使らしい特別なところが、ゼンゼンない」

【誤った認識です】とルーシーは即座に言った。【天界、すなわち天国のサーバーにどっちつかずの煉獄の住人が紛れこむことがままあるのです】

「アタシは煉獄の住人なん? 天使長の話は嘘なんや」

【つらい真実を話す前にのど飴を1つ】

「天国と煉獄のどっちに属したてんか、はっきりしてよ!」

【レビ人祭司見習いだったあなたは、サマリア城の陥落後、ナフタリ族の戦士や貴族らとともに捕らわれの身となり、メディアの首都エクバタナに連行されました】

「人の話をちょっとは聞いたらどやのん!」

【わたくしはどこにも行かず、潔く、命を断ったのです】

「ええっ! アンタらの神サンの決まりでは、自殺した人は天国に行かれへんことになってるはずや」

 ルーシーは目を潤ませると、【当然の報いです】と小声で言い、鼻水をすすり、大きなくしゃみをした。ついでに臭い屁もひり、【不満足な食生活のせいでお腹にガスが溜まっているのです】

 言い訳をし、骨の欠けらをまる飲みしたときのように目を白黒させた。

【どこまで話しましたか?】

「〝わたくし〟が死んだとこまで――」

【北の王国は滅びましたが、アッシリアによる強制移住はその後もつづいたのです。10年後の紀元前712年、アッシリアの第112代エサル・ハドン王の支配下で最後の強制移住がなされました。北のイスラエル王国最後の王ホセアは、牢獄で亡くなったと言われていますが――グゥゥフフフン――〝イスラエルの石〟を所持して逃亡したと言われています】

 もしかして、ターバンの裏側に貼りつけた石のことを言っているのか?

「アンタが死んだあと、どうなったんよ」

【サマリアの地に移住してきた異教徒は彼らの信じる神を持ち込みました。生き残ったイスラエル王国の人々と結婚する者たちも出てきたのです。神はそれをよしとされず、疫病が流行り、多くの民が死亡しました。人びとは恐れおののき、アッシリアの王にレビ人祭司の招聘を求めたのです。レビ人祭司らはサマリアにもどり、人々にヤハウェが真の神であることを知らしめたのです】

「ペレスもその中にいたわけや」

【あなたは、わたくしへの思いが断ちがたくサマリアへ戻ったのですが、疫病にかかって早世しました。なにしろ、見習いですからね】

「そんなはずないって!」

【あなたは、わたくしの遺体が投げ捨てられた凹地に自分も葬ってほしいと言い残して死んだのです。わたくしに毛嫌いされていたことなど、すっかり忘れて】

「大嘘やって!」

【わたくしの遺体は白骨化し、衣もなく、黒い髪が見えるだけになっていましたが、息絶えたあなたはその上に倒れ伏したのです】

「そんな気色悪いことを遺言するはずない!」

【そして、無事に天国へと召されたのです】

「天国の住人なんや。どうでもええわ。覚えてないねんから。そのときから、何年ぶりにリニューアルしたことになるん?」

【ざっとですが2700年ぶりでしょうか】

「2700年もあったら、世界中の本が読めると思わへんか?」

【死んだ魂は無活動の状態に入る場合もあります】

「やっぱり、死ぬんや」

【地上の千年と、神のおられる天界の千年はまったく異なります。そもそも天界に時間など存在しません】

「そやから神サンは、すぐに腹を立てるくせに、肝心なときに知らん顔なんや。神サンの時間と人間の時間がズレてるからなんや。それで忘れた頃に災害がやってくるねんな。自分の創った人間が仰山、死ぬような戦争があっても気がつかへんし」

 ルーシーは、グゥフンと鼻息を吹きだし、

【全能の神は、たったの6日間で天と地と万象とを創造されました。多少の行き違いはあってしかるべきです】

 地球の年齢は46億年のはず……。そういうありきたりな数字は頭の隅に追いやり、

「7日間とちゃうのん?」

【出エジプト記23章12節に『あなたは6日の間、仕事をし、7日目には休まなくてはならない。これはあなたの牛およびロバが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである』とあります。愛ある神は、人びとが召使や外国人や動物を適正に扱うよう期待されて、そのように取り決められたのです。神はわれわれ1人ひとりの髪の毛1本までご存じです】

「旧約聖書をパラパラと拾い読みしたんやけど、神サンは仔羊を生け贄にすることや、複数の愛人をもつことや、奴隷をもつことや、外国人労働者を働かせることを認めてるように読めるんやけど――それっておかしないか? ほんまもんの神サンが、そんな取り決めを認めるはずがない」

【神は、最初の人間夫婦に『2人は1対となる』と仰せです。神が律法を授ける以前に不都合なことが一般的な慣習になっていたのです。一夫多妻は神の言葉、テモテ第13章2節で禁じられています】

「ほんでもダビデにもソロモンにも奥サンが何人もいるやん」

【ささいなことをぐちぐちと……】

 ルーシーはグワングワンと怒りをあらわにし、そっぽを向いたが、のど飴を見せるとパクリと口に入れた。

【わたくしは死後、天国と地獄の38度線、いわゆる煉獄、略してG2CS=ジィツウ・コスモス・サイド、イタリア語でプルガトーリョ、英語でパーガトリィにいました。しかし、イエスさまが憐れに思われ、お救いくださったのです】

「ルシファーが神サンの長男やったら、あんたはイエスの姪になるんやもん。おじさんやったら、当然とちゃうか」

【なんと恐れ多い! イエスさまがどのようなお心で、わたくしのために天使作成ソフトをお創りになったのか、それを思うと涙が滝のように流れます】

「そもそも、あんたは、煉獄の住人やったんや。ガブリエルの名代やゆーからさ。天国の住人やとばっかり勘違いしたわ。なんで、天使のかわりに犬や馬がくるんか、これではっきりしたわ」

【グワングワングウゥグゥクククククゥ……。I felt sad when I left Heaven】

「ヘブンだけわかったから泣かんといて。ルーシーは完璧なヒラテンやってわかってる。やきもちで意地悪ゆーただけやから、ごめん。堪忍してな。なんの記憶もないゴボテンやからつい、本心をゆーてしまうねん。本音でしゃべるから人付き合いができひんねん」

【屈辱です。わたしはあなたと違い、魂の誕生の一瞬から、すべてのデータがレジマタ=内部メモリーに記録されているのです】

「いましかわからん頭やねんて」

【きっとバグだらけになっているのです】

「なんなんそれ?」

【虫です】

「獅子身中の虫のことなん?」

【コンパイルして、虫を探す必要があります】

「名前も聞いたことのない殺虫剤なんか、頭に振りかけんといてよ。金髪が錆びるかもしれへんから――あっ、もうないんや」

 ルーシーは腹ばいになると、前脚で頭を抱えた。

【あなたと友でいるために、わたしの前頭連合野の細胞は日々、罪悪感に苛まれています】

 ウグゥウグゥとルーシーは唸る。

【神のご意志にそえない苦しみもさることながら、他者を軽蔑したり、見下してはならないと理性ではわかっていても感情が負の方向に傾いてしまうのです。この罪を懺悔せずにはいられません】

「ぜんとうぜんや……? 英語もわからんけど、日本語もわからん。そや、全答全矢って書くんやろ?」

 こっそりフラッシュライトをつけ地面を照らし指で書いた。そして、あごの下から顔を照らした。

「坊主頭のゾンビみたいで、こわないか?」

【バカは変身しようとしまいと、知能に変化はないと知りました】

「あんたの言うことに全問的中できひんから言うて、イケズゆーことないと思うけどなぁ。イエスとイケズと語感が似てへんか?」

【あなたの脳内には、すべてを停止する扁桃体しかないのだとたったいま、わかりました。これも神の思召しなのでしょう。クゥグゥウウウウウ……】

「鼻水がたれてるでぇ。藁で拭いたろか」

【Fuck you!】ルーシーは飴を噛み砕いた。

「神サンと親戚やからリニューアルしても、アンタは気が短いねんな。知能も性格も変わらんわけや」

  14 女魔法使い

 バビロニア軍の移動がはじまった。出立の日の早朝、カルデア人の司令官1人とバビロニア軍の1個師団1万人を残して、エルサレム郊外の平原にメディアとバビロニアの総勢2万を越える両軍は集結した。水やまぐさを補給した属領の将兵らはそれには加わらず隊列が整い次第、個々に移動した。服属国から徴兵された将兵らは、宗主国のバビロニアの命令をうけて半強制的に駆り出されているのでいっときでも早く帰国したい気配が見てとれた。

【主力部隊を率いるのはバビロニアのカルデア人です。バビロニアも一枚岩ではありません。王弟に従う一派が勢力を増しています。しかし、主立った将校はいまのところ常勝軍団を率いるネブカドネザル王に従っています】

 ルーシーとわたしは移動の列に加わらず、将校専用の野営テントの中にいた。黒い山羊の皮で作られている天幕と呼ばれるテントの内部は陽光をさえぎって涼しい。

 腕時計を見る。

 7分経過、6時21分59秒。ルーシーは24時間あればどうにかなるゆうなことを『メサイア』を歌う前に言った。

「なぁ、ルーシー、3日間で35分と7秒しかたってへんで」

 ルーシーはワンと吠える。【白いミルトスの花と青あざみの花が丘陵地に咲き乱れています。神の御業に感謝いたしましょう】

「観光客の気分にならん」

【『わたしの舌にひと言もないのに、ヤハウェよ、あなたはことごとくそれを知られます』。詩編139章4節です】

「持って回った言い方せんでも、のど飴がいるゆーてるねんな」

【ダニエルさまがリブラにむかってお発ちです。早くても数日、かかるでしょう】

 厚布に覆われた馬車にダニエルは乗っている。2頭の馬の御者はケニ人の2人。残りのケニ人とシャムライらとハカシャの家の召使3人はその後ろにつき従っていた。後宮の住人となる王族の美少女が中にいるとメディア軍の将兵らは思いこんでいる。ダニエルの乗る馬車が騎馬兵団の後方に加えられると、前後の兵士らの耳目を集めた。絶世の美女をひと目見ようと躍起になっている。何かの拍子で垣間見た兵士の言葉が関心を増幅した。その美貌もさることながら身辺からただよう高貴なたたずまいが男たちの心を揺るがしたようだ。

【あなたがダニエルさまとの同行を嫌がったせいで、シャムライらが腹を立てて、わたしとあなたは置いてきぼりにされたんですよ。総参謀長が救いの手をさしのべてくだされなければ、食べ物もままならないエルサレムから移動できないところでした。これでは使命を果たすどころか、飢え死にする恐れすらでてきました】

 軍勢にただよう倦怠感に辟易する。殺戮と掠奪の限りを尽くした彼らはみな、披露の極致にあるように見えた。

「城門を破られて、降伏するまで、あっという間やったな。総参謀長の言うとおり、戦争とは言えん戦いやったわ。こんなことやったら、ユダ王国もはじめから歓迎ののぼり旗でも立てて城門を開けといたほうがよかったのに」

 捕虜となったユダ王国の将兵は千人足らずだという。それ以外の兵士は逃亡するか、戦闘で殺されたようだ。手足を拘束され、鉄の鎖でつながれた将兵の群れは魂を失ったように地面にうずくまっていた。

「ヴィジョンではもっと仰山の捕虜が映ってたやん?」

【本格的な奴隷狩りは、いまからです。傭兵部隊が近隣の町や村に派兵されます。最終的には約1万人が捕虜になります】

「アタシらが最初にいた村は、皆殺しにおうてたやん」

【あれは、〝王の大路〟沿いの村だったので、食糧を奪うために真っ先に標的になったのです。王国の最南端の町、ヘブロンは城壁もあるので、最低でも2個大隊2千人の規模で派兵されるでしょう。抗えばさらに増兵されるので、町の有力者は戦わない選択をするでしょうね】

 ひづめの音が聞こえた。

 平原を埋めるメディア・バビロニア両軍の将兵の前方に総参謀長がアククゥツにまたがって現れた。兵士らはそれぞれ手にした武器を頭上にかかげて雄叫びを発した。

「フラワルティ、われらの守護神!」

 総参謀長は白髪まじりの長髪をなびかせて、並み居る将兵の前を駆け抜けた。そして、手綱をひき絞り、全軍が見渡せる位置に後戻りした。当時はくつわがなかったので、手綱だけで馬を制御していたらしい。

「フラワルティ、無敗の将!」

 兵士らは彼の名を呼び、歓呼で迎えた。総参謀長のすぐ後方に彼の後継者と目される孫のデイオケスが控えていた。ヤディの姿も見える。総参謀長が将兵の列に加わると、漆黒の馬にまたがったものものしい出で立ちの男が現われた。

 兵士らは盾と武器を打ち合わせる。

「シデオン将軍に栄誉を!」

 みなは口々に叫ぶが、フラワルティへの歓呼と比較すると雄叫びをあげる人数が少ないように聞こえた。しかし、将軍は、総参謀長と同じように片手を差し伸べて馬をすすめた。

 武具の音が馬上の将軍を鼓舞するが、シデオン将軍の目の色は暗く沈んでいた。もしかすると、毒殺に失敗したことを悔やんでいるのかもしれない。将軍は兵士らの前から早々に姿を消した。

「暗殺に失敗したウリツゥは、出世せぇへんのとちゃうのん?」

【ダニエルさまのひと言で、未来は変わりました】

「アンタが見せてくれたビジョンが変わるゆーことなん?」

【上書きされるだけのことです。そもそも歴史なんて、時の為政者によって、上書きにつぐ上書きなんですから一見、確定したように見えてすぐに覆されるのです。ですからぁ、一日でも早く、ドルが基軸通貨の時代が終焉を迎えて、イエスさま、おん自らが、この地を統治なさる日を迎えなくてはなりません】

 ルーシーは、ああ神よと鳴いたあと、

【『ヨハネの黙示録』の17章に象徴的な記述があります。7つの頭と10の角をもつ獣にまたがった女が、神に裁かれるさまが描かれています】

「7つの頭と10の角?」

【新約聖書の「黙示禄」では国を〝山〟と表現しています。『7つの頭は、この女のすわっている7つの山であり、また、7人の王のことである』と。G7とそれに従う10カ国のことだと思いませんか?これらの国の王たちをまどわす女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、ぶどう酒に酔い痴れているそうです。『女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである』と記されています】

「――ということは、アタシらは自分の国を滅ぼす手助けをすることになるのん? 東京へ行ったことないけど、滅ぼしたいなんて、いっぺんも思たことない」

【大いなる都とは、現時点では、ニューヨークでしょうか。秦野亜利寿は象徴的存在です。天使長であるあなたの手で、ヘビ女を滅ぼさなくてはなりません】

「断る」

 ふと思いつく。わたしやルーシーが目の前の出来事に介入するつど、未来は変ってゆくのではないのか……?

 そのとき――、

「メディア、バビロニア、双方の将兵諸君の働きに感謝する」

 総参謀長の声は静かだが、居並ぶ兵士の耳によく届いた。兵士らは水を打ったようにしずまった。

「戦闘はおわった。バビロニア軍の守備隊はこの地に残留するが、本隊はハマトへ向かう。わがメディア軍の半数はバビロニア王の下命により、急遽、モアブへ向かうこととなった。他の者は誇りをもって王都エクバタナへ帰還せよ」

「バビロニアとメディアに栄えあれ!」と将兵は呼応した。

 わたしはルーシーに訊く。

「総参謀長はいつ、毒殺されるのん?」

 彼の運命が変わったのなら、未来も変わるはず。

【1度、死んだ人間は2度と死なないとダニエルさまは総参謀長に告げたはずです。以後はペルシアの動静に気をつけるようにと】

 シデオン将軍と直属の部下の3人、それにデイオケス副司令官に率いられた部隊の大移動がはじまった。ダニエルの乗る馬車とシャムライらがつづく。積み荷を運ぶラクダやロバの補給部隊の次に射手部隊、槍手部隊、工兵部隊、ウリツゥと捕虜の一群、重装歩兵と軽装歩兵は最後尾を行く。

「総参謀長はどこへ行くつもりなん?」

【総参謀長は自軍の守備隊が配備されているエリコへ向かうはずです】

 砂煙を立てて移動する軍団を見送る総参謀長に忍び寄る影があった。猫のように足音をさせない男だ。馬上の総参謀長は男が目の端にかかると、災いが降りかかったように小さく舌打ちをした。

 影は乾いた地面にひざまずいた。

「陛下より、伝言がございます」

 バビロンの王宮にいるはずの宦官長のアシュペナズだ。どんな小さな声も音もルーシーの聴覚のおかげで聞き洩らさないですむ。総参謀長は苦笑をもらすと、アククゥツからおりて従者に馬をつないでおく手綱を手渡した。

 アシュペナズは総参謀長の耳元に口を寄せた。「他にも、お耳に入れたき儀がございます」

 ルーシーは歯ぎしりする。【宦官こそが国を滅ぼす元凶】

「ネブちゃんはなんで、宦官を重用するのん?」

【おのれの意に逆らわぬ者を、権力者は好みます。いくさの天才であっても宦官の企みに気づかないのです。あの男は、王に何事かあれば、思い通りになる幼い皇太子を王にたて帝国を牛耳る魂胆でいます。さきに言っておきますが、王弟の一派とは敵対しています】

「ネブちゃんはそんなこともわからへんの?」

【王を不安がらせるのも安心させるのも、彼ら宦官なのです。王はアシュペナズの口車にのってエルサレムの神殿を破壊しようとしています。しかし、あまたの神々や呪術や占いを信ずる王の心は揺れています。恐怖に苛まれているのです】

「そこら中の国を滅ぼしたのに?」

【メソポタミアとパレスチナを平定し、覇権を手にしたのちに、王に〝7つの時〟が訪れます。7年間、獣のようになるのです。正気を失うという意味です」

「7つの時? 闇の中から聞こえた声もそんなふうなことゆーてたし、ダニエル書にもそんなようなことが書いてあったなぁ。なんでいっつも7なんやろ。ラッキーセブンはウソなんや」

【ダニエルさまは、王の異変についての話を総参謀長にしたはずです】

 総参謀長は数人の親衛隊員を従え、アシュペナズとともに坂下に見える堅牢な造りの建物の中に徒歩で入っていった。

【宦官長は噂を聞きつけ、わたしたちの所在をたしかめるつもりです】とルーシーは警戒する。

「うろうろせんと逃げよ」

【わたしたちの任務は、ダニエルさまの保護にあります。そのためにはバビロニアとメディアを離反させる罠を仕掛けなくてはなりません」

「あぶないめぇにあうのはイヤヤで」

【不平を聞く耳はありません。わたしの優れた耳は彼らが何を話しているのか、チェックするために機能しているのです】

 ルーシーをおんぶラックで背負うと、頭から裾まであるマントに身をつつみ、テントから抜け出した。木ぎれを拾い、それを杖にして、すがって歩くようにとルーシーは言った。首をひっこめ、背中を曲げると老婆に見えるはずだからと。

 ケッと小さく言うと、耳を噛まれた。

 屋敷内に入ると、彼らの消えた部屋の中が見える窓をさがした。戦闘で戸板の窓の大半は壊れていた。相対する2人を見つけると、忍び足で内部をのぞき見た。アシュペナズは、掠奪で散乱する室内には一瞥もくれず、血と埃にまみれた大理石の床をなめるように腰をかがめて、長々と挨拶の口上をのべた。

「エルサレムを平定したとうかがい、飲まず食わずのていで、早馬でリブラより駆けつけました。戦勝の由、慶賀の至りに存じます」  

 ルーシーの長いあごがわたしの頭にのった。坊主頭なので、あごが滑りおちそうになる。ルーシーは両手であごを支えてくれというが断る。2度と毛が生えてこない予感がする。一時的にしろ、金冠頭になったせいで、わたしの毛根は腐ったおそれがある。

「陛下は、城壁内の生き残ったユダの民は捕縛したのちに、王宮と城壁を破壊せよと申されました。ただし、神殿の建物には手をつけるなとのご命令でございます」

「見ての通り、わしは部下とともにエリコに向かう」

「陛下は、ユダの民らの崇める聖なる櫃なるもののありかを知っている大祭司を当地に残しているのではないかとお疑いを――現に、その者らへの尋問を怠っているとの報告が伝令官より届いております。それゆえ、わたしめがこうして急ぎまいったわけでございます」

「貴国の護衛長に、その権限を委譲するためにわしは居残っていた。あとのことは信任の厚いアリオクに任せればよかろう」

「仰せの通りと申しあげたいのですが、密偵ではない護衛長は、聖櫃の探索にしくじるのでないかと陛下は危惧しておられます」

「異教の民が信じる、ただの箱が、貴国のなんの役に立つ」

 アシュペナズは指輪をいじりながら、

「総参謀長に従う馬車の中に何者がいるのか、わたしは存じています」

「地獄耳というべきか、あるいは空耳というべきか。そう言えば、〝王の耳〟と呼ばれているアリオクがいたな。彼の者の本来の役目は密偵であったはず」

 宦官長は話を転じた。

「わたしとて、彼らのいう聖櫃など百害あって一利なしと思っておりますが、霊力があると聞けば、それが人であれ、物であれ、陛下はご所望でございます。文武にすぐれた王として広く知られたアッシリアのバニパル王でさえ、呪術に類する書籍を求めたと仄聞しております」

 総参謀長は片頬で嗤い、「霊力がある箱や、呪物で国を守れるのなら、アッシリアは滅びず、ユダ王国はかような次第になっておらぬ」と言い捨てた。

「よろしいのでございますか」と、アシュペナズは上目づかいにささやいた。

「馬車の中を王命によって、あらためさせていただいてもよろしいのですか」

「そなたの指図は受けん!」

「さようでございましょう」

 アシュペナズは口元を歪め、丸めた背筋をのばした。

「宦官風情が、メディア軍の総参謀長にこうしてお話するだけでも恐れ多いことにございます」

「そなたの思いのままに、ネブカドネザル王に言上してくれ。この場で罷免してもらってもかまわぬ。齢60になる。このトシだ。いつ、役目を解かれても早すぎるとことはない」

 アシュペナズは閉口した顔つきになり、「同盟を結んでいるからこそ、申し上げるのでございます。近頃の陛下は眠りが浅く、常に苛立っておられます。かつては強国であったアッシリアと同じ憂き目を見るのではないかと仰せになられて……お心を悩ませておられるのです」

「そのような大事を、ネブカドネザル王が自ら洩らされるとは考えにくい」

「わざわざバビロンから同行を命じた神官や呪術師に、聖櫃の行方を問いただしましても要領を得ません」

「宦官長には好都合ではないのか」

「わたしめを、不忠の者だとお考えでございますか。何事も、陛下の御身を案じてのこと。そのために陛下の身辺には細心の注意を怠らないのでございます。陛下あっての帝国でございます」

「陛下に拝謁したおりに、馬車の中のものは差し上げるとお伝えしてくれ。ネブカドネザル王の下命により、エリコに逃げこんだユダの逃亡兵を始末し、さらにモアブに下り、制圧したのちに故国に帰還し、そののちになるが――いつになるか」 

 宦官長は、髭のないつるりとした顔面にあらわれる感情の波を気取られないようにするためか、長い指の細い手の指で総参謀長の胸のあたりをさした。

「アリオクの報告書には、黄金の冠をかぶった魔物を匿っておられるとしたためられておりました。いかがなさるおつもりですか」

 総参謀長は鼻毛を引き抜きながら、「魔物の頭の皮を剥ぎ、黄金の毛髪を引き抜いて、わがキャクサレス王へのみやげにするつもりであったが、なぜか、そなたのように禿げてしまった。今や丸坊主である。そもそもは、宦官であったそうだ」

 アシュペナズは総参謀長ににじり寄った。

「禿げていてもかまいません。陛下が是非にとご所望されておられます」

「まずは、メディアの王にご検分いただいたのちのことだ」

 総参謀長はそう言って宦官長にむかって鼻毛を吹き飛ばした。

「ここだけの話でございますが、つき従っていた占星術師と称する女が陛下の不興をかい、エリコにむかったよしにございます。おそらく魔物の行方を探してのことかと……」

「どうして、女は疎まれたのだ?」

 総参謀長の問いに、宦官長はしばらく考えていたが、

「リブラに住む、ユダの民の何人かを救ったからです」

「なんとも不可解な話だな」

「女は、おのれの魔力を見せただけだったのですが……」

「わが軍が捕らえたときは、いかにすればよいのだ?」

「陛下は誤解なさっています。魔女は役立ちます」

「ならば魔物はわが君主に、魔女は貴国の君主に献上しよう。兵士らにもしかと申し伝える。魔女を見分したことがないので、見分けがつくかどうか――宦官長の意にそえるかどうかわからぬが努力しよう」

 アシュペナズは突然かん高い声で言った。

「わが君主ネブカドネザル王は英明にして剛直、バビロニアの神々の象徴とも言われるお方でございます。メソポタミアの平定はベル・マルドゥク神の陛下への思召しと存じております。されど、不思議な力をもつ魔物を目にしたことがないと陛下は仰せでございます。いっときの怒りにまかせて魔女を御前からしりぞけられましたが、やはり、魔女の霊力を必要とされています。お腹立ちでございましょうが、魔女も魔物も、陛下は御所望なのでございます」

 眉をひそめて聞いていた総参謀長は瞬きをする間もなく腰に帯びた剣を引き抜き、宦官の喉首に切っ先を向けていた。

「唯一の、わしの戦利品に手はつけさせぬ」

 アシュペナズは青白い顔色を一層、青くし、「陛下はあなたさまが魔物をわがものとしていることもすでにご存じです。引き渡しを拒めば、あなたさまを亡きものにしてでも魔物を連れ帰れと仰せになりましょう」

「さてと、どうする? 宦官長」総参謀長の目は怒りに燃えていた。「魔物を生かすも殺すもそなた次第だ。どうしてもと言うなら、むくろにして渡してやろう」

「フラワルティさまの身を案じて、お気に障ることを申し上げております」

 アシュペナズは頭を低めた。「わたしめはハマトにもどります。よくよくお考えのほどをたまわりますように」 

 総参謀長は剣をおさめた。

「王の懐刀とは宦官長のことをさして言うのだな。忠告に感謝すべきなのだろうが、礼をのべる気はない」

 アシュペナズは窪んだ眼窩の目を光らせた。

「黄金の冠の魔物と占星術師の女とはときを同じくして現われました。女の身なりはあきらかにこの地の者と異なっております。噂によると、女魔法使いだと言う者も――魔女だと言う者も。犬を連れた魔物の衣服もですが、その者の操る乗り物も、はじめて目にする形をしていたと聞きおよびました」

 凶事の兆しだと言って、アシュペナズは勢いよく踵を返した。

 埃が舞い上がった。

 総参謀長はアシュペナズの背に向かって言った。

「故国のエクバタナからバビロンへ参上したおりに会えればよいのだが、そうもいくまいな」 

「あなたさまの身に災いが降りかかっても、わたしは存じませんとだけ、申し上げておきます」

 宦官長は捨て台詞を残して出て行った。

 その日のうちにわたしとルーシーとは、甲冑に身を固めたフラワルティ総参謀長麾下の騎馬軍団とともに、先に出発したシデオン将軍の率いるバビロニアの本隊が北上した隊商路をすすみ、分岐路となる町ラマを迂回し、ユダ王国の2つの部族のうちのひとつ、ベニヤミン族の住むエリコにむかった。

 総勢50人ほどだった。

 ルーシーを背負ったわたしはアククゥツに乗ることを許された。手綱をとり、鞍にまたがっていさえいれば、アククゥツは腹を蹴ることも鞭を使うこともなく総参謀長の後ろを走ってくれた。ルーシーがマジックで描いてくれた羽根のおかげもあるのか、落ちそうになると、背中でパタパタと音がして、からだが浮くのだ。井戸に落ちたときも、何もないのに背中に羽根が生えているように感じた。

 道中、ルーシーはエリコについて解説した。

【〝月の都市〟と呼ばれるエリコはヨルダン渓谷内にあって、海面下、約250㍍に位置しているため、町の周囲は切り立った岩山に囲まれています。まさに月面にできた都市のようなのです。古代の人びとはどうやって、エリコの地形と月の地形とが似ていると知ったのでしょう。国土の7割が森林の日本人の目には一見、不毛の地に見えますが、やしの木がよく茂っています。気候は亜熱帯性です。モーセに率いられたヘブライ人が、荒野で40年間さすらったのちにはじめて攻略した都市としても有名ですが、それよりも、わたしはイエスさまのお話をしたいと思います。この地は、イエスさまの宣教活動において目立った舞台の1つとなりました。盲目のバルテマイとその友の視力を回復させたのです】 

「病気が治せるやったら、神サンはなんで、やる気のないアタシを神戸に帰してくれへんの」

【固定作業を行なうシークエンス回路からの信号は一方通行です。フラグレジスターがあればデータ処理部からの信号の受信も可能ですが……神の御使いに選択の余地はありません】

「フラグなんたらはいつ出てくるん? ひょっとしたら、神サンは下っ端のアタシらのことを忘れてるんとちゃうか?」

【認識にバイアスがかかってる脳とは話し合いにならないワン】

 雨季には川になるという蛇行した道を抜けると、異世界が広がっていた。切り立った周囲の岩山を見上げる。1本の木も見当らない。岩の峰の谷底に城壁を巡らした町がある。ヤシ林はあるが、こんな場所でどうやって生きていけるのか。

【ヤシの実は、灯火となる油やアラックという酒になります】

「エルサレムは断崖絶壁の岩山の頂上やったし、ここは岩山の谷底やし。こんな場所に住む気になる人らの気持ちが、わからん。町全体が城壁にむかって傾斜してるやん。日本やったら、お殿様はお城にいるけど、武士も町人も平地に住むのになぁ。ここでは農作業のために毎日、登り降りするだけでも大仕事になる」

 岩山をめぐる急な斜面にさしかかった。

 参謀総長の馬がいななき、急停止した。

 覆面をした謎の一団が斜面の影から群がり出た。ラクダに乗った彼らが、味方でないことはひと目で知れた。

「やはりな」と総参謀長はうなずいた。「わしが少人数で出発したことを知り、これ幸いと待ち伏せたようだな」

 剣をかざした一団は嬌声をあげて襲いかかってきた。

 総参謀長の部下は馬をおり、総参謀長を中心に盾で円陣をつくり、対峙した。ルーシーを背負うわたしの乗るアククゥツはこの時を待っていたように、他の馬を引き連れ入り組んで道を爆走した。ラクダが追いつけないことを、赤い火=アククゥツは知っているのだ。血管の脈打つ、まっすぐのびた首にしがみつく。

 総参謀長に従う親衛隊がどうやって、敵を撃退したのか知りようもなかったが、想像はついた。彼らは危機にさいしてどうすればよいのか知りつくしていた。嬌声が悲鳴にかわるのに時間はかからなかった。アククゥツは円を描くようにして反転し、引き返すと、真っ先に総参謀長のもとに駆け寄った。

 数体の死体が転がっていた。金で雇われたベドウィンだと総参謀長は吐き捨てた。横転したラクダは脚や胴体を斬られ、苦しんでいた。血のにおいを嗅いだことはないが、油と魚の切り身が混ざったようなにおいがした。

 ルーシーにこの子たちを助けてくれと頼んだが、無理なことはわかっていた。せめて楽にしてやりたかった。カッターナイフを彼らの眉間に当てがった。

【そんなことをすれば、身を守る武器を失います!】

 光の渦が吸いこまれると、1頭ごとに刃が折れた。傷ついたラクダたちは静かに息絶えた。もう使いものにならない。

「呪術師というのは、まことだったのだな」と総参謀長は言った。

 切り立った岩山に周囲を囲まれたエリコの町に入ると、エルサレムを攻略する前から駐屯している占領軍の指揮官が下馬し、総参謀長を出迎えた。

「閣下のおいでを一日千秋の思いでお待ちしておりました」

 1個大隊の将兵で、住民を監視し、逃げこんでくるユダ部族の民は捕虜にし、抗う兵士は処刑したという。

「メディア軍の本隊は王都エクバタナへ帰還する予定であったが、モアブとアンモンを攻略するようにバビロニア王より命ぜられた」

「理不尽な!」部隊を統率する指揮官は憤った。「同盟国は本来、同等のはず。エリコをわれわれに任せ、さらにモアブとアンモンとは!」

「わしの預かる2個大隊はほどなく到着する。そなたたちはその者らと合流しこの地を平定したのちは、本国へ密かに帰還せよ。現在、軍をふた手に分けているが、この状況は危険だ。

バビロニアの思惑どおりになってはならぬ。モアブへ派兵した軍の損耗のはげしい場合は、加勢してはならぬ。勝利が見えたとき、ひそかに出陣せよ」

「敗色が見えたとき、われわれがエクバタナにいては、デイオケスさまを見殺しにすることに……」

「メディアを滅ぼすわけにはいかぬ」

「総参謀長はどちらへ?」

 総参謀長は指揮官の問いには答えずに、ベニヤミン族の族長の生死をたずねた。存命だということだった。

 指揮官は岩の地面に片膝をつき、顔をあげ、「ベニヤミン族はおおむね恭順の意を示しております。この町にはレビ族の祭司を志す者が多くいるうえに、彼らの言う預言者なる者も少なくありません。そのせいか、邪教を拝する者が多く住むエルサレムは滅びて当然だと口走る者が数しれず。祭司どもの中には徒党をくんでバビロニアが滅びると言う者がごく少数ですがおります。その者らは牢獄に閉じこめております」

「賢明な措置だ。武器をもたぬ民や祭司はなるたけ殺めてはならぬ。とくにバビロニアが滅びると言う者は、捨ておけ」

 指揮官はふたたび馬にまたがり、馬の首を回し、総参謀長の隣にならぶと、騎馬軍団を率い、螺旋状の道に馬を進めた。

 市中に入ると、わたしとルーシーは珍獣のように兵士や住人から見られた。

「魔物だ」と噂する声が聞こえた。

 月の都市と呼ばれるエリコは、灰色の岩山に囲まれた坂道の町だった。落馬すると、城壁を飛び越えて崖下まで転がっていきそうだった。

 一行は堅牢な建物に逗留した。

 やしの木はところどころに植わっているが、谷底に位置する町の空は岩山でくぎられており、殺伐とした光景に息苦しさを覚えた。 

 わたしとルーシーは、アククゥツの繋がれた馬小屋にもぐりこもうとしたが、参謀総長に引き止められた。

「ダニエルの言った、7つの時についてわしは熟考した。思うに、バビロニアの命運が7年後に尽きるという意味ではないのか? どう思う?」

「いきなり聞かれても……なんの話か――たぶん、もうすこし時間はかかかるかと――」

 足元でルーシーが唸る。【そうだと答えるのです】

「そうだそうです」

 総参謀長は「わかったぞ!」と叫び、膝を打った。「この犬が、魔物なのだな。人語を解し、妖術をつかえるのだな?」

 どう答えるべきか思案した。

 総参謀長は、じれたように、「ダニエルは、わがメディアのために、なんとしてもわし自身が生き延びねばならぬと言った。そして、王がどんな夢を見るのか、わしに話してくれた。大木の夢だ。王の権威を表しているという、その木が7つの時ののちに、切り倒される。これは、ティルスの攻略に長い時を要し、王の野心は急速に衰えるという意味にもとれる。しかし、ふたたび芽をふき、葉が茂り蘇るというのだ。新たな芽とは、わがメディアのことではないのか?」

 総参謀長は今後、いかにすべきか教授してくれと、真顔でルーシーにたずねた。ルーシーの唸り声を通訳する。

「この地で死亡したことにし、メディアの属領パールサ(ペルシア湾岸沿いの地)に身をひそめ、同志をつのり、地歩を固めることをすすめます。その後は属領のアンシャン(イラン高原)に移り、名を変えてエラム王国(現イラン南西部)の都スーサに移り住み、その地に居住するイスラエルの民の富者に協力を求めるとともにバビロンの豪商ヨアキムと連絡を密にし、現在の大祭司アザリヤの子・ヨザダクの保護を依頼することです。うまく立ち回れば、総参謀長ご自身の栄華が望めるだけでなく、あなたの後継者はアッシリアに勝る大帝国を打ち建てることになります」

「なぜ大祭司の子を保護しなくてはならん?」

「反目するイスラエルの民とユダの民の心を1つにするには大祭司の存在が必要です。現在の大祭司の後継者が無事であれば、イスラエルの民とユダの民の有能な者は総参謀長の忠実なしもべとなるでしょう。デイオケスさまの部下、ヤディのように」

「大祭司の子を保護すれば、その者を旗頭にして、反乱を起こすのではないか」

「大祭司は神に仕える者、民を率いる王ではありません。大祭司は戦うことをよしとせず、神の愛を得るために堪え忍ぶように説きます。このたびのいくさでも、大祭司は終始、王と側近に開城をすすめたそうです」

 総参謀長は深くうなずいた。「わかった」

 わたしの口はくぐつのようだった。

「新たな帝国を築くには、狡猾なアラム人や不実なエラム人の上に立ち、操る者たちが必要になります」

「カルデア人にもメディア人にも、その能力のないことは、すでにあきらかだ」

「ユダの民がいます」

「バビロニアの王はまつりごとにユダの民を重用しない。メディアの王もだ。彼らはたびたび反旗をひるがえす」

 かえって好都合だとルーシーは言った。イスラエルの民もユダの民も、アラム人やエラム人より主人に忠誠を誓うと。そして商人となったイスラエルとユダの民には、戦費を調達する能力があると。 

 総参謀長に伝えると、

「北の王国イスラエルは滅び、南のユダ王国も風前のともしびではないか」と総参謀長は言った。「しかし、バビロンに住むイスラエルとユダの富裕な商人は、故国を援助せぬ」

 ルーシーは唸った。通訳する。

「祖国を失った故に、彼らは学んだのです。負けいくさに富は浪費してはならないと。敵対する国の双方に戦費を貸し、漁夫の利を得ればよい。それがいずれ、祖国をとりもどすことになると」

 その通り伝えると、総参謀長は、

「国が滅んだのは南北2つの国だけではない。アッシリアも滅んだが、彼らはわが国とバビロニアに征服されたのち、それぞれ同化していった。ハランに住む星占術師の一族のようにな」

 ルーシーはもどかしそうに唸る。わたし自身の声であってそうではない。

「ユダの民には、彼らの神への信仰を記した書物があります。アッシリアにも書物は数え切れぬほどありましたが、多くの民は読み書きができませんでした。親から子へ伝える物語はあっても、自分たちは〝神に選ばれた民〟とは伝えないと思います。イスラエルの民とユダの民の男子はほとんどの者が文字を知っています。彼らは彼らの先祖が記した書物を繰り返し読みます。これから記されるであろう書物も読み、書き写すでしょう」

「それがなんだ?」

「彼らはいつの日にか、失われた国土が神の手によってもどると信じています。2千年ののちに、エルサレムに帰還しても、周囲の国々と戦いつづけなくてはなりませんが、彼らの信仰が揺らぐことはありません」

「2千年……」

 総参謀長はひげを引っ張りながら室内を徘徊した。

「ためしに1度、死んでみるか」

 総参謀長は立ちどまりつぶやいた。

「アシュペナズはおのれの手の者が、わしを暗殺したと勘違いし、メディアへの警戒をゆるめるだろう。不安があるとすれば、将兵の練度がなおざりになることだ。モアブとアンモンを平定できれば、デイオケスがなんとかするだろう」

「アンシャンとパールサの初代の王は、あなたの孫デイオケスです。そのとき、バビロニアは滅び、メディアの現王の子孫は属領の王となるでしょう」

 話しながら、そんなことは起きないと言いそうになる。50年よりもっと先に、デイオケスが生きているはずがない。

 ルーシーが、言うなと足首を噛む。

「そそのかされいる気もするが、試してみるか」

 総参謀長がそう言ったところへ、ベニヤミン族の族長が腰をかがめて入ってきた。

「仄聞したところ、大祭司の親族がこの地にいるそうだな」

 ベニヤミン族の族長は怯えた表情を見せた。

「ヨザダクと申す者でございますか?」

「その者をここへ呼べ」

「仰せの通りにいたしますが……」

「案ずるな、バビロニア王から保護するためだ」

 族長は少年を連れて戻ってきた。黒い髪が渦巻く他に、とくに特徴のない容姿をしていた。

「バビロニア軍がエルサレムを包囲する前に、大祭司からこの者を預かりました。生まれた男子の中で、際立って聡明だと聞いております」と族長は言った。「12歳になったばかりですが、モーセの記した巻き物を暗唱できます」

 少年は創世記の1章から唱えはじめた。

「耳障りだ」と総参謀長は言った。

 少年はなぜ、さえぎられるのか、見当もつかないようだった。

「上位の者と相対したとき、この者は述べるべき口上を知らないようだな」

 総参謀長の言葉に、族長は憮然とした表情になった。

「まだ成人式前です」

 総参謀長は少年に訊いた。

「この町にとどまるか、父である大祭司のもとに行くか、あるいは、わしとともに行くか、望みを言うがいい」

「この町にいたい」少年ははっきりと言った。

「そのようにせよ」と総参謀長は返した。

【大祭司の後継者を保護せよ!】とルーシーが吠えた。

 総参謀長はルーシーにむかって言った。

「この者は自らの運命をおのれの意志で選んだのだ。おまえたちが先の世からきたというのなら、わしひとりの算段で定まった運命は変わらない」

 総参謀長には、ルーシーの言葉が伝わっていたのだ。

 黒衣の女が入ってきた。裾の長い衣服をまとい、ベールで顔を隠している。名乗らなくてもだれかわかる。

「この子は大祭司の子ではありません」と彼女は言った。

「思った通りだな」総参謀長はうなずいた。

 族長は少年の手をひいて出て行った。

「女魔法使いか?」

 問われた黒衣の女はベールをとり、「人びとの運命を狂わす魔女ですわ」と答えた。

 参謀総長は破顔した。

 正体を現わした秦野はわたしの首に抱きついてきた。  

「ミカエルゥ! ミカエルゥ! やっと会えたわぁ。2度と泣かないってぇ、ゆったけどぉ、アリィ泣いちゃう!」

 赤紫の髪の秦野は眩しかった。輪型の金のピアスには宝石がぶら下がり、首には金や真珠のネックレス、指にも赤い色の宝石。宦官長からもらったのだとか――。

「黙示録」に登場する女そのものだった。

 総参謀長は気色ばんだ。「おまえは宦官長の手の者か」

【ちぇッ、この女を追いはらえっ】大祭司の子が偽物だと見破れなかったルーシーはふてくされている。

 わたしは秦野の腕を振り払い、「アンタさ、わたしに地獄に墜ちろって、言ったじゃん」

「いや~ん。冷たくしないでぇ。ミカエルがぁ、メディア軍の捕虜になってぇ、エリコにむかってるってぇ聞いてぇ、アリィも来ることにしたのよぉ。ミカエルはぁ、いまじゃ有名人よぉ、ターバンをした赤毛の犬を連れた魔物がいるってぇ、みんな噂してるわぁ。アリィもなーんとなくうれしくなってぇ~。でねぇ、こっちへ来ようと思ってたわけなのよぉ~」

「運転手と車は、どーしたんだよ」

「どうもこうもぉ、ないわよぉ~。でしゃばる運転手なんてぇ、パパといっしょで、うっとおしいだけよぉ。アリィがぁ、アリィらしくおしゃべりできるのってぇ、ミカエルだけなんだものぉ。だからぁ、いなくなってもらったのぉ~。でねぇ、気がついたらぁ、殺し合いの真っ只中に放りこまれてるじゃないのぉ」

「殺しあいって、だれがだれとのだよ?」

 総参謀長が口をはさむ。

「もとからリブラに居住しているユダヤ人を、バビロニア兵が殺している。彼らの金品が目当てなのだ」

「びっくりしたなんてぇもんじゃないわぁ~。とにかくリブラから逃げるのがこのさいお得だと思ってぇ、メディア軍のいるエリコにきたわけよぉ~」

「お得とかじゃないと思うけどさ」

 秦野は人差し指を1本たてて、左右に振り、「ノンノン。歴史なんてどうでもいいのぉ、騎馬軍団のいるぅメディアのほうがぁ、バビロニアより強いわよぉ」

「あっちでレイプの被害に遭わなかったのかよ」

「アリィほどのぉ美貌だとぉ、その危機は充分にあったわよ~。でもねぇ、ミカエルんちに行くときにぃ、バッグに小物入れを入れていたおかげでぇ、魔法使いってことになったのよぉ~。中に裁縫針と糸があったからぁ、アリィねぇ、実習したのよぉ! 将来、外科医になりた~いと思ってたからぁ」

「もう1度、たずねる。おまえは――宦官長の――」

 総参謀長の声は秦野の耳に入らない。

「縫い針を焼いてぇ、こっちのぉ、お酒を消毒液のかわりにぃ使ってぇ、怪我した人の傷口を縫ったのよ~。麻酔薬になる大麻もあるしぃ。大麻ってぇ、大昔から使われてたのよ。知ってたぁ? 他にもぉ、なんて名前だったか、忘れちゃったけどぉ、役に立つ葉っぱがあってけっこう便利ぃ」

「『漂流教室』かよ」

 ルーシーは牙をむき、唸っている。よく見ると、秦野は、ビロードのようにつやつやした爪まで黒い子猫を連れていた。秦野の腕の中にちんまり収まっていて、ぬいぐるみに見える。

「死体を解剖してみたのよ~。そしたら、どぉよぉ、人体の仕組みがぁ、な~んとなくわかったからぁ、肝臓や腎臓を取り出してぇ、内蔵を痛めた人にくっつけてみたのぉ。血管がうまくつなげなくてぇ、こまったんだけどぉ、聞いてるぅ? ミカエルのカッターナイフがあればぁ、もっと上手にできたかもぉ」

「秦野にサイコパスの趣味があったなんて意外だよ。言っとくけど、カッターナイフはもう刃がないから」

 総参謀長はしゃべりまくる秦野の勢いに気圧されたのか、室内に用意された椅子とテーブルに近づき、腰かけた。卓上に食事の用意がされていた。総参謀長は飲み物を一息で飲み干し、輪型のパンを食べはじめた。

「アリィねぇ、ドラちゃんのおかげで助かったのぉ、傷口にぃ、ドラくんが手を当てるとぉ、怪我した人が治ったのぉ~。こんど、ミカエルが怪我したらぁ、ドラちゃんにアリィがたのんでぇ、やってもらったげるぅ。猫ってぇ、犬の10倍はぁ、役にたつわよぉ」

 助けた人たちがユダヤ人だったわけか……でも、それは王に召される前のことのはず……アシュペナズの密告があったのか?

【クソ魔女め! 地獄に堕ちろ! 黒猫め、噛み殺してやる!】

「ほらぁ、犬はやかましいだけよぉ。ドラちゃんはかわいいし、魔法だってつかえるものぉ」

 黒い子猫は、『ドラえもん』から名づけられたらしい。

「おまえたちは宦官長の推察したとおり、知り合いのようだな」と総参謀長はおもむろに言った。「魔物に女魔法使いか……。これで、7つの時の意味が確実に起きると思えた。われわれメディア人が、バビロニアの王の言いなりになる時は、過ぎようとしていると、な」

 部屋の外で、中の様子をうかがう者がいることに総参謀長は気づいた。

「アシュペナズの手先だな。わしの身代わりになる者がむこうからやってきたようだ」

 総参謀長はパンを吐き出すと、わたしたちに話しつづけるようにと手真似で知らせた。

 ルーシーはテーブルに首をのばし、皮靴を履いた前脚をテーブルにかけるやいなや骨つき肉をくわえた。 


アッシュル・バニパル王の壁画


リブラとユーフラテス川の地図

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