ヴィクトル・ツォイ 音楽活動の軌跡
ヴィクトル・ツォイについての博士論文まである、ヴィタリー・カルギンによる伝記「Viktor Tsoi 」もある、そんなに有名なアーティストということが調べていくにつれ分かってきましたが、自分用に調べたことを、音楽活動とその時代のソビエトの出来事に限ってまとめ、コメントを付けてみました。大人の夏休み自由研究、ということでご勘弁。今後伝記も読んでみたいです。
1978年
1978年
芸術家グループ「チェンバーNo.6」に所属し、音楽活動開始
1980年
1980年 初の国家公認のロッククラブ「レニングラード・ロック・クラブ」誕生。
ソビエトも、80年代には国策としてのロックの利用を模索し始めたのか。ベトナム戦争時のアメリカのように、「戦争に行かない若者たちには銃の代わりにギターを持たせ、ロックという宗教で反戦運動をさせておけ」といったところか。体制側から「ロックという信仰」を与えられた彼らは決して国家権力の脅威にはならない。体制側からすれば、歌が民衆の力になることも見越して先手を打つ、といったところだろう。それはそれで無闇な暴動、殺傷を避ける平和的対応策だと言える。国家が民衆に銃口を向けないためにも。ツォイと同時代を生きた吟遊詩人、朋友アレクサンダー・バシュラチェフは、彼らの「ロックンロール」を「ロックンロール!素晴らしい異教信仰」と歌い、「私は鐘の時代を愛している」と歌った。【桃と紅茶】
1980年 モスクワオリンピック夏季オリンピック。ソ連がアフガニスタン紛争に介入したことを受け、米国をはじめ60ヵ国以上がボイコットした。
1981年
モスクワのアルテミー・トロイツキーのアンダーグラウンド・コンサートで「オートマティック・サティスファイアーズ」の一員として演奏、イゴール・チホミロフとアレクセイ・ルイビンの3人で「ガリンと双曲面」として活動。イゴール・チホミロフはこの後間もなく徴兵で脱退。
1982年
1982年1月30日
「レニングラード・ロック・クラブ」のメンバーになる。КИНОとしての活動開始
1982年3月5日
後の妻マリアンナと出会う
最初のアルバム「45」をリリース(メンバーはアレクセイ・ルイビン)
1983年
1983年2月19日
キノグループとアクアリウムグループの合同エレクトリックコンサートを開催。ユーリ・カスパリアンがメインチームに参加。
1983年春
アレクセイ・ルイビン脱退。
ツォイは「ロッククラブ」の第2回フェスティバルに出演し、グループ「キノ」が受賞者の称号を獲得し、フェスティバルのオープニングを飾った「私は家を非核地帯と宣言する」という曲を披露した。
1983年9月1日 大韓航空007便(アンカレッジからソウルに向かっていた)が予定していた飛行ルートを逸れてソ連の領空に入り、Su-15迎撃戦闘機に撃ち落とされた。乗員乗客269人が死亡。
1983年秋
徴兵礼状が届いて精神的に不安定になったツォイは、手を切ったためプリャシュカの精神病院に行き、そこで1か月半過ごし、無事に「徴兵」された。ツォイは血を見ることに耐えられなかったことが知られている。恐怖症からのパニック発作のようなものだろうか。退院した後、ツォイは「Tranquilizer」と「I'm walk down the street」という曲を書いた。入院する前にツォイを知っていた一部の人々(例えば彼の妻マリアナ)は、病院にいたことがミュージシャンに強い影響を与え、彼は「違う」状態で退院したと主張している。【参照wikipedia】
1983年
マイク・ナウメンコとパヴェル・クラエフでのコンサート
Виктор Цой и Майк Науменко:Концерт у Павла Краева(1983)
この動画(写真のみ)では、初期の初々しい歌声が聞かれる。代表的な楽曲もこの頃に歌われているが、まだ多少内向的な静かな歌い方だ。マイク・ナウメンコが中心となっているコンサートなのだろうが、ツォイの曲に聴衆も合唱していたり、話しかけたりと、若いシンガーを温かく見守る雰囲気が感じられる。【桃と紅茶】
1984年
1984年1月29日
モスクワの第30回特別学校でコンサート(シングルアコースティックコンサート)
1984年2月4日
マリアンナと結婚
ゲオルギー・グリャノフ(ドラム、ボーカル)加わる。
1985年
1985年3月 M.ゴルバチョフが書記長に就任。政権に就いて2ヶ月でアルコール中毒撲滅運動を開始。運動は1990年に終了。 ペレストロイカ「建て直し」とグラスノスチはこの後の政権の弱体化と国内の諸民族間の緊張・紛争の激化を招いた。
1985年 春
レニングラード ロック クラブの第 3 回フェスティバルの受賞者となる
1985年8月?
息子アレクサンダー生まれる
1985年夏から秋
トロリーバス(カスパリアン宅にて)
Троллейбус ( дома у Каспаряна )
父親になってますますロック小僧っぷりを発揮なさる神々しいまでのお姿が見られます。【桃と紅茶】
1985年
V.Tsoi and KINO "Films" 1985 バンド初のTVクリップВ.ЦОЙ и КИНО "Фильмы" 1985 г. Самый первый ТВ клип группы
ご家庭の生活がどうなろうと、人民の知ったこっちゃありません。ただただひれ伏して拝聴するのみ。【桃と紅茶】
1985年 秋
『ディス・イズ・ノット・ラブ』が全米でリリースされた
1986年
1986年1月
アルバム「Night」がリリースされた
1986年2月
第4回ロック・クラブ・フェスティバルでキノ・グループは最優秀テキストの賞状を受賞
1986年4月26日
(現在のウクライナ首都キエフの北方100㎞)チェルノブイリ原発事故発生。史上最も有名な原子力災害。
1986年5月
ネフスキー文化センターでの第4回LRCフェスティバル
4-м фестивале ЛРК в ДК "Невский".
低音での歌唱を取り入れ始めていますが、初期の生意気盛りっぽいお声もキュン死級です。【桃と紅茶】
1986年6月8日
モスクワのレクリエーションセンター「MIIT」でのコンサート、MRLフェスティバル「春に向けた運動」
1986 年 夏
ツォイはヴェテラノフ通りにある浴場で1日1時間(午後10時から午後11時まで)働くようになった。
当時のソビエトには、正式な職業についていない者はRSFSR刑法第209条(「寄生」)に基づく罪状で最大2年の懲役刑もあったため、国内唯一の公営のレコード会社「メロディア」と契約していなかったツォイには何かしらの正式な就労が必要だった。また、1981年、刑法に空手の指導を行なった者は5年の自由の剥奪を課すとする条文が定められたが、1989年には廃止されている。参照:RUSSIAN BEYOND しかし、どうしてこんな国で「ブルースリーにあこがれています。」と言って堂々と武術を披露する勇気があるのよ、我らがヴィーチャは。無謀…。【桃と紅茶】
この年の夏、セルゲイ・ルイセンコの映画「休暇の終わり」の撮影でキエフに滞在する。
モスクワのMIIT DCで「水族館」と「アリス」とのジョイントコンサート
1986年8月31日 午後11時12分旅客船アドミラル・ナヒモフ号貨物船ピョートル・ヴァセフ号に衝突され沈没し、423人が犠牲となった。
1986年?月
ベースでのリハーサル
Репетиция на базе 1986г.
「バンド小僧」感が半端なくて見ている方も幸せになる。【桃と紅茶】
1986年?月
ゲオルギー・グリヤノフのアパートでのリハーサル風景
Кино Репетиция у Георгия Гурьянова 1986г. (только видео)
1986年10月19日
レニングラードのLDM、「世界を救え」フェスティバルでコンサート。
1986年10月?月
キーロフ(キーロフ州の州都、モスクワからは東へ約900km)でのコンサート。メタウルゴフ文化センターにて
Концерт в Кирове октябре 1986г в ДК Металлургов
1986年秋
ブロヒン通りの住宅建物の地下「カムチャツカ」のボイラー室で働き始めた1988年まで。
ラシッド・ヌグマノフ監督の短編映画「 Ya-Kha 」の撮影に参加
アレクセイ・ウチテルのドキュメンタリー「Rock」の撮影に参加
1986年?月
ヴィクトル・ツォイとユーリ・カスパーリャンのコンサート in DKスヴャジ(1986年)Виктор Цой и Юрий Каспaрян Концерт в ДК Связи 1986-й год
1986年12月6日
モスクワのカフェ「メテリッツァ」でコンサート。
Кино в кафе Метелица 1986 год.
1曲目が終わるとコンサート主催者は、会場にいたKGBの将校の圧力で、 "キノ "への電気を遮断し、ステージから去るようにと言った。技術的な理由でコンサートは終了したと告げた。しかし、ツォイはそんなことはお構いなしに「エレクトリヒカ」を歌った。ボーカルマイクが入らなくなったら客が歌った。参照: youtube 【桃と紅茶】
1986年12月25日
レニングラード・ロック・クラブでのコンサート
Концерт в рок-клубе 25 декабря
この映像では楽しそうに客席に話しかけたり、笑顔を振りまいている。前年デビューしたThe Smith(英)の影響だろうか、シャツをはだけて体を揺らしているが、この雰囲気が出せる人は天性なのだろう。映像だけでも強力な吸引力がある。これでは西側が脅威に思っても仕方ない。逆に今もロシア国民が手放さないのも仕方がない。このカリスマ性だけでもクイーンやビートルズ、ミックジャガー、ボブディラン、etc.一人で数多のロックスターをしのいでる。清志郎の吸引力に似ている。東洋人だからだろうか。音楽を楽しんでいるのが伝わってきて、見ている者を幸せにしてくれる。【桃と紅茶】
1987年
1987年 春
この年セルゲイ・ソロヴィヨフ監督の映画「Assa」(ロシア語: Асса)の撮影でナタリア・ラズロゴワ(1956年生まれ)映画評論家と出会い、後モスクワへ引っ越す。
1987年5月
グスタフのアパートでのリハーサル
Репетиция в квартире у Густава (май 1987)
ほんとに楽しそうで、ずっとこのままでいて欲しいと思ってみてしまう。【桃と紅茶】
1987年?月
ジョアンナ・ストリングレイのインタビューに答えて
Viktor Tsoi Speaking English
1985年5月、ゴルバチョフ新書記長はアルコール中毒撲滅運動を開始しています。そんな最中に「昨夜は何飲んでいたの?」との問いに堂々と「ウィスキー」とお答えになる我らがヴィーチャ。そしておそらくビデオのお姿からは明らかに昼間に飲んでいらっしゃる。ヴィーチャ曰く「夜は大事な睡眠の時間だからね。(夜は寝る)それが法律さ。」(だから今飲む)と。凡人には一生涯辿り着けない高みにお達しでした。それにしても…無防備な笑顔は爆死級ですが、こういう時はカメラは断りましょう。粛清が心配…。【桃と紅茶】
1987年5月19日から24日
リトアニア、ビリニュス、リトアニカ・フェスティバルでのコンサート
1987年6月3日
レニングラード・ロック・クラブのフェスティバルで「創造的な時代のために」賞を受賞
КИНО - V Ленинградский рок-фестиваль (1987)
1987年7月
LDMのV LRKフェスティバルでコンサート
1987年7月9日
モスクワ、クラブ「PROK」、コンサート。
Фестиваль Прок , Дом кино ,Москва ,9 июля 1987
なんか、客席にロバ―ト・デニーロがいるね。これ、有名な話らしいです。ツォイは緊張からか歌い方が安定していないし、もう、やけくそ。それがまたいいね。【桃と紅茶】
1987年 ヨシフ・ブロツキーノーベル文学賞受賞
(レニングラード出身。1972年6月4日にソ連から国外追放され、1980年にはアメリカの市民権を得ている。)
1987年11月1日
レニングラードの文化宮殿「ペルヴォマイスキー」でのコンサート
1987年 秋 ラシッド・ヌグマノフ監督の映画「ザ・ニードル」の撮影のためアルマ・アタ(カザフスタン)に滞在。
1987年?月
セルゲイ・クレヒン/ポップ・メカニクス - 作品「父」。ミュージカル・リングに参加。
Сергей Курехин/Поп-Механика - Пьеса "Отец". Музыкальный Ринг
セルゲイ・クレヒンは現代音楽の作曲家。キノーはこういう試みにも参加していました。ユーリ・カスパリアンはもともとチェロ奏者だったので、その関係でこのような演奏も試したかったのでしょうか。【桃と紅茶】
1988年
この年、映画「ザ・ニードル」プレミア公開。映画は麻薬依存の恋人のために戦う内容。(雑誌「ソビエト・スクリーン」はツォイを1989年の最優秀俳優に指名した)
この年、アルバム『ブラッド・タイプ』のリリース
1988年2月17日
アレクサンドル・バシュラチェフ死亡。享年27歳。「クラブ27」(公式発表は自死。バシュラチェフもツォイと同じく「カムチャッカ」で働いていた。アレクサンドルという名前はツォイの子供と同じ)
バシュラチェフは、大学卒業後ジャーナリスト時代に発電所に関する記事も書いていた。チェルノブイリ原発事故の真実や政界中枢の危機的状況を知っていたのだろう。そしてそれは、狂わなければ耐えられないほどのものであっただろう。実際に1986年秋にはこの事故を題材にした歌の録音がある。また、なによりも恋人が妊娠中だった。彼の第一子は生後間もなく死亡している。気分障害、うつ状態だったとすれば、次子も同じ運命をたどるのではないか、という強迫観念に取りつかれていたのかもしれない。また、恋人もマタニティブルー気味であったならば、バシュラチェフを気遣う余裕もなかったかと想像される。天才肌の詩人ゆえに無理もないことだが、他殺説もささやかれている。【桃と紅茶】
1988年2月20~21日
A. バシュラチョフを追悼するコンサート、LRC、ツォイはこのコンサートで「最後の英雄」「血液型」を弾き語りしている。そして、ツォイはこの1988年の間バンド活動を控え、シングルアコースティックでコンサートをしている。
Виктор Цой - Памяти Саши Башлачёва 21.02.1988
プロ意識で最後まで歌ったが、心ここにあらず、と言った感じで痛々しい。【桃と紅茶】
1988年3月8日
ポップ・メカニック - レニングラード・レーニン・スポーツ・コンサート・コンプレックス
Поп-механика - 8 марта 1988 Ленинград СКК им. Ленина
1988年3月25日~4月17日
モスクワMELZ文化宮殿で映画『アッサ』のプレミア開催。9月の一般公開を待たずして国内でブレイクする。
1988年 4月17日
MELZ文化宮殿でのコンサート
Камчатка (ДК МЭЛЗ, 17.04.88) キノ-カムチャツカ(映画『ASSA』のライブ・プレゼンテーション、モスクワ 観客とのコミュニケーション
1988年 4月25日
文化宮殿でのコンサート「Railwaymen」、(シングルアコースティックコンサート)。
1988年5月15日 ソ連はアフガニスタンからの軍の撤退開始。1989年8月終了。本格的に、ソビエト社会主義共和国連邦内部分裂始まる。
1988年5月 レーガンがモスクワを訪問。ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。
1988年 5月17~18日
レニングラードのLDM「ニューウェーブ」でコンサート(シングルアコースティックコンサート)。
1988年7月 史上最大級の被害をもたらしたアルメニア地震が発生。死者2万5千人、重傷者は14万人。
1988年9月
映画『アッサ』の一般公開
1988年 秋
ユーリ・ウラジミロヴィッチ・ベリシュキンが、ヴィクトル・ツォイの 初代プロデューサーになる。以降1989年末までキノー・グループのディレクターを務める。これまでは妻マリアンナがプロデュースに関わっていた。
1988年10月28日
SKKイムでコンサート。V.I.レーニン、レニングラード、(コンサートビデオ「Changes」の撮影)
1988年?月
グループ "キノ "とヴィクトル・ツォイ "戦争"。番組「Vzglyad」の撮影Группа "Кино" и Виктор Цой "Война". Съемки для программы "Взгляд"
1988年のテレビ番組録画。何月かわからない。この映像の吸引力が半端ない。今まで見たパフォーマーの中で断トツでした。【桃と紅茶】
1988年11月20日
ルジニキ・スポーツパレスでのアレクサンドル・バシチョフの追悼コンサートに参加。キノー演奏途中、コンサートの最後を飾るはずだったバシチョフの曲「鐘の時」(録音)が突然流れた。ツォイは聴衆に、理由は不明だが最後の曲が間違ったタイミングでオンになり、その後歌ったり演奏したりするのができなくなったと発表した。この時、ソ連のコンサート史上初めて客席から椅子が撤去され、客は着席ではなく立ってコンサートを鑑賞した。
Концерт памяти Башлачёва | Москва, Лужники (1988)
この時退場するツォイの背中が丸くなっていて寂しげだった。【桃と紅茶】
1989年
1989年1月14日
КИНО | Концерт в Дании 14.01.1989 | Обновленный звук デンマークのコペンハーゲンで行われた「Next Stop Sovjet」というチャリティーコンサートに出演し、前年地震による被害を受けたアルメニアを支援した。
Кино - Концерт в Дании | 14.01.1989
この映像では、ツォイの無理しい感がはんぱない。生き生きした感じが無くなっている。何かに怯えている感じ。メンバーも温度差はあれ、同様に見える。
この前後ツォイの精神状態はかなり不安定だっただろう。ツォイは精神科に行ったかもしれない。あるいは精神安定剤を使用していたのか。薬の副作用のように顔の輪郭が丸くなっている時期がある。目つきも変わっているときがある。体調不良で代謝が悪くなればホルモンバランスが崩れて太る。あるいは浮腫む。また、処方薬であってもある種の成分は音楽家にとって致命的になる。例えば、フラベリックの副作用では1~2週間ほど音程の認知が半音ずれる等の副作用がある。【桃と紅茶】
この年、キノ グループのメンバー全員がフランスに行き、そこで「ザ ラスト ヒーロー」を制作した。
1989年 2月2日から5日
アルマトゥイАлматы(カザフスタン南東部。モスクワから訳3800㎞)でのコンサート。アルマトイ、スポーツ宮殿にて、オクトーバー50周年記念Виктор Цой - Концерт в Алма-Ате 1989
1989年2月
映画「ザ・ニードル」ソ連で正式公開
1989年?月
番組「Pop-Antenna」ヴィクトル・ツォイ(インタビューを含む)とバンド・キノの番組「ポップ・アンテナ」への参加(レニングラード)
Виктор Цой и группа Кино - Передача Поп-Антенна (1989)
1989年5月5日
ミンスク、ディナモ・スタジアムでのコンサート
Группа КИНО(Виктор Цой) - концерт в Минске 05.05.1989.
1989年5月
スヴェルドロフスクでのコンサート
1989年5月9日から11日
ヴィテブスク(夏の円形劇場)でコンサート
コンサート・イン・ヴィテブスク КИНО В Витебске 1989
1989年 東欧諸国での革命の嵐始まる
1989年8月12日と13日 ルジニキ・スタジアムにて「モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル」ボン・ジョヴィやオジー・オズボーン、スコーピオンズらが出演した。
1989年8月23日 ソ連統治下のバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の市民数百万人がソ連史上最大の平和的な抗議デモを行った。約600キロメートルに及んだ人間の鎖は、史上最長の人間の鎖としてギネス世界記録にも認定された。ソ連崩壊の大きな要因となった。
この頃アルバム『ア・スター・コールド・ザ・サン』をリリース
КИНО - Звезда по имени Солнце | черновик (1989) | Видеоальбом
1989年9月21日から22日
ハリコフ、スタジアム「メタリスト」でコンサート。
Дневной Концерт в Харькове 1989 (Полная Версия)
選ばれた?女性数名が花をもって舞台下で待機。曲の合間に舞台に上がってきてビクターに花を手渡している映像が見られる。
1989年10月27日から29日
モスクワのUDS「ソビエトの翼」でのコンサート(曲「ノック」のビデオの一部)
1989 年 10 月27日
ヴズグリャド番組でテレビ出演。ツォイ談「私は、第一に、我が国は特に大規模な投機を行っていると考えています。第二に、何らかの方法でそれを展開できる犯罪者がいる場合、それは法律がそのようなものであるか、政府が弱いことを意味します」
1989年10月27日付プログラム "ヴズグリャドVzglyad"「ソ連における協力について」
この真面目な雰囲気の中で演奏したのね。あるいはこの談話が何らかの引き金を引いたのか?国内の混乱で汚職の取り締まりが手薄になっていれば、たとえ手違いでも危険分子として誰かが、(もともと政府のブラックリストに入っていた)ツォイを政府に“売る”ことも難しくはない。【桃と紅茶】
1989年11月、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊。東欧民主革命加速。
1989年12月
ユーリ・シュミレヴィッチ・アイゼンシュピスが、これ以降ヴィクトル・ツォイが亡くなるまでキノ・グループの監督兼プロデューサーを務めた。ユーリ・ウラジミロヴィッチ・ベリシュキンからの引き継。
1990年
1990年1月25日
ユーリ・カスパリアンと渡米。パークシティでのヴィクトル・ツォイのコンサート ユタ州サンダンス映画祭 Park City Utah State Sundance Film Festival USA
このころ日本にも行っている。
90年3月 バルト3国のリトアニア共和国が独立を宣言。この後他の共和国も、続々と独立宣言が続く。
1990年3月16日
ペルミでのコンサート、UDS「ハンマー」
Группа КИНО(Виктор Цой) - концерт в Перми. УДС Молот.
1990年 4月8日
ウファのスポーツ宮殿で行われた第8回コンサートの最終回に参加。録画は"ЧК"というバンドの映像から始まる。
1990年5月5日
モスクワ、オリンピスキー・スポーツ・コンプレックスでのコンサート。Москва СК "Олимпийский"
笑顔を見せて舞台に登場するも緊張した表情。「Печаль」の時は特に、とてもロックンロールレジェンドのようには見えないやさしいまなざしで客席を見ていた。「Последний герой」では無理に自分を奮い立たせているような歌い方をしている。「Перемен!」、「Камчатка」を歌う時の泣き笑いのような表情が気にかかる。【桃と紅茶】
1990年5月25~26日
アンガルスクでのコンサート Концерт в Ангарске 1990
最前列は全員兵士たちという異様さ。途中客席から観客が大勢飛び出してきて兵士たちが止めるが止まらない。兵士全員舞台に背を向けている。コンサートの表情は、前年のように明らかに憔悴した様子はなく、ある種の落ち着きは見られる。しかし、相変わらず軽快さは戻らない。【桃と紅茶】
*アンガルスク:モスクワから東へ約5,000km。モンゴルに近いイルクーツク州、キトイ川とアンガラ川の合流点に位置する都市。ドイツからの賠償金を基に、1945年以降に工業都市として一時期はアジア最大ともいわれる地位を確立した。「石油化学者の都市」という評価が定着している。イルクーツク地域の南部、最も発展し、経済的に発展した地域と言われる。人口の90%はロシア人。姉妹都市、石川県小松市(2017/11/13締結)。wikipedia
1990年5月27~28日
イルクーツク、トゥルドスタジアム、のコンサート。
*イルクーツク(モスクワから東へ5,000km以上。モンゴルに北接するイルクーツク州、バイカル湖に注ぐアンガラ川沿いの都市。姉妹都市・金沢市、日本。市内には「金沢通り」という名前の通りがある。最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛は1701年にイルクーツクに滞在した。1705年伝兵衛を教師としてサンクトペテルブルクに創設されたロシア最古の日本語学校が1753年イルクーツクに移設され、日本から漂流し、ロシアに帰化した者たちが教鞭をとっていた。18世紀末には日本人・大黒屋光太夫が一時滞在した。主に19世紀、ロシア中央から囚人や政治犯が送られる流刑地だった。第二次世界大戦後は、日本人の抑留地のひとつだった。【参照google map】
1990年5月31日
ブラーツク、メタルルグ・スタジアム、のコンサート。
*ブラーツク(モスクワから東へ5,000km以上。モンゴルに近いイルクーツク州。バイカル湖に注ぐアンガラ川沿いの都市)、姉妹都市・日本、石川県七尾市【参照google map】
1990年6月2~3日
ウクライナのドネツクで6月2日から3日まで開催されたジョン・レノンを追悼する国際音楽祭「MUZ-EKO-90」(歌手50周年記念)で演奏(スタジアム「Lokomotiv」で)の記録(最後のテレビ映像)Донецк, стадион "Локомотив"
1990年6月17日(18日、19日?)
アルハンゲリスク、労働組合スポーツ宮殿(別名アイススタジアム)でのコンサート。
【参照】オンライン出版物「29.ru」https://29.ru/text/culture/2017/06/23/50533141/
(Архангельскは、白海に注ぐ北ドヴィナ川の河口近くに位置するロシア北西部の都市。サンクトペテルブルグから東へ約1000㎞。歴史的に、軍事上の機密の理由などから、ソ連時代は外国からの旅行者はもとより一般市民の立ち入りも禁止された閉鎖都市であった。)【参照wikipedia】
映像は動画ではなく音楽と写真のみ。しかし、このような歴史的事情のある都市でこの時よくコンサートできたね。政権末期だったからなのか?画期的だったはず。この投稿動画の解説には、コンサートは予算不足のようで、装飾も控えめなステージだったと記されている。写真では、地元のファン?からお花をもらっているツォイの横にユーリ・アイゼンシュピス(プロデューサー)が寄り添うように立っている。私だって寄り添いたいから、気持ちはわかる。また、同コンサートの別動画説明によると、 «Северный комсомолец»という地元紙がこのコンサートの記事を書いているそうだ。【桃と紅茶】
1990年6月21日
28歳の誕生日
1990年6月24日
最後のコンサート、モスクワ、ルジニキ、ウラジーミル・レーニン中央競技場のグランド・スポーツ・アリーナ(現在はルジニキ・オリンピック複合施設のグランド・スポーツ・アリーナ)Группа Кино Последний Концерт В Лужниках 1990
最前列の軍服の多さが異様な雰囲気を醸し出している。ツォイの歌うときの悲しそうな目。ほとんど泣き顔、泣き声のようになる時がある。装甲車?と軍服の兵士たちの間をツォイが歩いて会場に入ってくるバックステージシーンが物物しい。ユーリ・アイゼンシュピス(プロデューサー)も横から一緒に歩いてきて、ツォイの前に回り込んで小型カメラを担いでツォイを撮っていた。アイゼンシュピスは、この後も舞台の上で演奏中のツォイを自ら近接撮影している。誰かに頼めばいいのにと思うが、自分で撮りたかったのだろう。私もその場にいたらと思うと、気持ちは分かる。Youtubeへの同コンサート別投稿映像では、会場上空にヘリコプターが2機旋回するシーンもある。また、この時、過去4回しか点灯されなかったオリンピックの聖火が灯されたことも付記しておく。【桃と紅茶】
1990年7月初旬、中旬
カスパリアンとツォイはユールマラ(現ラトビア共和国)近くの港のスタジオで新しいアルバムの素材を録音した。例年のようにラトビア(プリエンシエム村)で避暑を兼ねる。フランスでレコーディングする前に短期間活動を休止。【参照Wikipedia】
1990年8月15日
正午頃、ラトビア、トゥクムス地区現在のセムスキー郷)、スロカ -タルシ高速道路R-126の35キロメートル付近にて交通事故死(享年28歳2か月)モスクヴィッチ-2141モデルカー(州ナンバープレート - 「I (Ya?)68 32 MM」)に乗車。
最後のコンサートではオリンピックの聖火台点灯など、国家による評価、ある程度の経済的成功も享受した。当時国内最新式の車を持てるほどに。このために運転免許も取った。この車は当時のプロデューサー、ユーリ・アイゼンシュピスが与えたものだが、事故の時点での所有者は全く別人。ゆえに事故死した場合の保険金支払いについては不明。車は、当時ブレーキに問題があると言われていた真新しいモスクヴィッチ2141。
この休暇中、ツォイは自作の歌詞のように「自分に気をつける」こともないほどの、片道わずか15~20分ほどの距離を運転していた。この種の業界では「クラブ27」といって、27歳で死去した天才的芸術家を奉ずる制度があるが、ツォイは、自身が28歳を迎えたことでこのような名誉への列席を許されなかった安堵から、精神的にはゆとりも生まれ始めていたのかも知れない。夏休みも後半で、運転は全く初めてでもなく、それまで往来したことのある道だったであろう。(以降仮説)ということは、彼の運転習慣のデータ、どこでどうすれば事故になるかというデータはあったということになろうか。データがあれば、後は誰かが実行するだけだ・・・。特にこの時はペレストロイカの弊害で、ソビエト時代には制御されていたマフィアの活動が活発になっていた。さらに政権中枢内部の混乱で国家による取り締まりの力も弱体化していただろう。罪を問われることもない、確かな身分もない訓練された実行犯はいくらでもいただろう。
ツォイは1990年年明けにアメリカから帰国後、ペルミ、ウファ(両市ともモスクワから東へ約1400km)でコンサートをしている。続いて5月25~31日の短いサイクルで、モスクワから東へ5,000km以上もあるイルクーツク州の3都市アンガルスク、イルクーツク、ブラーツクでコンサートを開催している。これまでアルマトゥイ(カザフスタン)以外は主にレニングラードやモスクワの約1000㎞圏内でしかコンサートをしていなかったので、この遠征は特徴的だ。この3都市はいずれもモンゴルに近いバイカル湖に注ぐアンガラ川沿いに位置する。
現場には路肩走行の跡が残っていた。そしてタイヤがスリップしたということは、道路のコンディションは悪かったのか、路面が滑りやすかったのか、障害物があったのか。事故後タイヤがひとつ見つからなかったのは、その痕跡がタイヤに残っていたからだろうか。いや、単にタイヤは金目のものなので拾った誰かが盗んだのかも知れない。路肩走行しながらもスピードを上げたのは、早くその場を去りたかったのだろうか。いや、エンジンブレーキも効かなかったとすれば、路肩走行してでもどうにか車を止めようと試みることも考えられる。そうこうしているうちに直線道路からカーブに入ってしまった、ということだろうか。道路の傾斜はどうだったのだろう?そしてブレーキ痕はなかったとのことだったが…
方や、バスの運転手はどうだっただろう。彼も家路を急いでいたに違いない。なぜなら、その日は妻の誕生日か結婚記念日で、特別な日だったからだ。仕事は普段通りで、空港へ客を届けてからの帰路、乗客はいなかった。仕事終わりに妻に花を買うつもりだったが、途中で買い物に立ち寄ったため少し予定が狂っていた。なぜ、まじめな彼が仕事の途中で買い物をしたのか。その時代、ソビエトは深刻な物価高と物不足が始まっていたため、品薄になることを危ぶんで早く花を買っておこうと思ったのかもしれない。いずれにしても、彼はインタビューで、事故現場付近は「木立が続いて視界の悪いところだった。」と言っているように、注意して運転しなければならないと経験値から知っていた。たとえ彼が急ぎながらも安全運転していたとしても、猛スピードでスリップした乗用車を避けるのは土台無理な話だったであろう。
彼は、運転手が有名なロックミュージシャンであったことは知らなかった。おそらく当時のツォイは、まだ世代や階級を超えて認知されていなかったかと思われる。その死が大きく報道されてはじめて知った人も多かったのではないだろうか。今もロックンローラーが音楽愛好家以外の人々に知られているかと言われれば、そうでもない。
かくいう私自身も、今年の6月、ツォイの誕生日頃までは、彼とそのバンド「キノー」のことを全く知らなかった。私が彼を知ったのは、偶然のことだった。ここ数年youtubeで、英語と日本語以外のロックを楽しんでいた私は、Enrique Iglesiaから始まり、楽曲「Despacito」が驚異の80億回再生のLuis Fonsi feat. Daddy Yankee、モンゴルのThe Hu、ドイツのRAMMSTEIN等を聴き、イタリアのMåneskinに行きついていた。そしてMåneskinのファンが書き込みに貼ってあったURLを見てクリックし、キノーの「Кончится лето 夏が終わる」を初めて聞いた。やらなければならない課題を抱えていた私は、これまでと同じように、キノーの音楽をバックミュージックで聞いていた。しかしこのバンドと、ボーカルの未知の魅力と、彼の短期間での変わり様に、なぜか、どうしてもただ聞いていられなかった。色々やっていても考えてしまい、これならキノーのことを自分で知った方がいいのではないかと思い、アップされている動画や音楽にくぎ付けになった。それでも、何かもやもやしたものが頭を離れず、キノーに関する記事を探すようになった。同時に、歌の歌詞を日本語にすることを始めた。AIがあるとはいえ、まったくロシア語の知識がないのではどうしようもなく、にわかにロシア語も調べてみた。とにかく、まったく取りつかれてしまった、という経緯である。
ではなぜツォイは事故を招いたのか、に話を戻そう。ツォイのパフォーマンスは1986年の録音を聞いてみても既に完成していると思う。1987年のビデオを見ても同様だ。おそらくあれを見聴きすれば、欧米のミュージシャンを軽く凌駕するカリスマ性があることは誰の目にも明らかであっただろう。正式な論文でもないので仮説として物言うことをお許し願いたいが、主な要因は、かつての東インド会社のように「勝つためにはどんなことでもした」ある種のビジネス界の連中の思惑だろうと思われる。そしてたとえ政治権力が絡んでいたとしても、実行するのはそういうところの者たちかと思う。
もしくは他の国、例えばツォイの先祖の国のほうが問題になる可能性のほうが高い。1937年から実施されたソ連における少数民族強制移住の犠牲になった人々でもある。1983年には民間の大韓航空007便がソ連の領空内に入り、戦闘機に撃墜されるという事件も起こっている。ツォイがその死と同年に訪問しているアメリカや日本は、この国とは敏感にならざるを得ない関係でもある。また、当時のツォイの恋人ナタリア・ラズロゴワは政治的な意味を持つ家系の出身であった。(父方の祖父は、ブルガリアの有名な革命家ニコラ・ラズロゴフ、母方の祖父はソビエト政権下スパイ容疑で処刑された)そして当時のプロデューサー、ユーリ・アイゼンシュピスは刑期(経済活動による)を終え出所したばかりのユダヤ人だった。ちなみに私は少女時代にアンネ・フランクの日記を読んで育ち、今はアンネ・フランクの薔薇の咲く都市に住んでいる日本人なので、特にユダヤ人差別意識はないと思う。そもそも、ソ連はユダヤ系ドイツ人カール・マルクスの共産主義思想をベースに創られた最初の国である。事故死後に各方面に山積した仕事、葬儀、埋葬、直前までのコンサートの取引処理、死後のスケジュールの処理、ラストアルバムの作成と資金調達等、警察や保険会社とのやり取り等をこなしたのもアイゼンシュピスいればこそだっただろう。その報酬が誰にどのように支払われたのかという疑問は残るが、政権崩壊前後の魑魅魍魎の芸能界に関わって残された者が、借金や薬物、暴漢等のトラブルに巻き込まれずに守られたことは評価に値すると思う。
また、ツォイが休暇を過ごしていたラトビアは、一年前にバルト3国で「人間の鎖」による平和抗議デモを行っていた。この年3月にはお隣のリトアニア共和国が独立を宣言したばかりであり、その当時政治的に難しい立場の国だった。そのため、交通事故処理が今後「外国」で行われるという事態になることは予想されており、これがツォイの事故の不明瞭さに拍車をかける遠因にもなったのだろう。「運命」とは、よりによってこんな時にそんなところへ避暑に行くことを許すのだろうか。
いずれにしても、ツォイが何重にも「運命」を抱えていたことだけは確かである。そして現在、ツォイの車は残っていないし、記録も残っていないそうだ。今更真実が明らかになったからといって、幸せになる人はどれくらいいるのだろうか。【桃と紅茶】
1990年8月19日
レニングラードのボゴスロフスキー墓地にて葬儀、埋葬。
похороны Виктора Цоя Богословское кладбище 19 08 1990
ご両親、妻子、キノーメンバー、恋人はもちろん、無言で佇む人々の呆然とした様子に胸が詰まる。
ツォイを心理的に追い込んだのは「ショービジネス」にも一因はあったかもしれない。もともと内向的なツォイは、仲間内で温かい雰囲気の中で(西側から見たら)小規模なコンサートで活動していく方が向いていたのだろうか。だから、ロバート・デニーロが自分のコンサートに来たとき、アメリカに連れていかれるのではないかと心配して動揺しただろう。坂本九の歌の歌詞のように「上を向いて」歌うようになった彼は、アメリカ(ハリウッド)に行くことなど、少なくともその時は望んでいなかったのではないだろうか。
ツォイは、1990年の大規模コンサートの最中に、取材の女性インタビュアーに(コンサート会場の人だかりを見て)「あれは僕を愛してくれている人たちだろうか?」と、ナイーブな発言をしていたとのことである。その時のツォイに伝えてあげたい。あなたを愛してくれている人たち「も」いると。
社会心理学者の言うには、ある集団を見た場合、あなたがどんな人物であれ、あなたのことが本能的に嫌い、無条件に好き、好きでも嫌いでもない人たちは確実に存在する。その中で上手く立ち回るには、あなたを嫌いな人々に気を付けなければならない。味方は放っておいても味方であるから何をしてもしなくてもあなたにとって害にはならない。あなたの労力は、ニュートラルな人々、敵にも味方にもなる可能性を秘めた人々をなるべく味方につけることに使うのである。コンサート会場まで来てくれたのだから、嫌いな人はほとんどいないと考えても、多数のニュートラルな人々がいる。好きにも嫌いにも変わる人々をたとえその場だけでもつなぎ留めておくのがエンタティナーの腕の見せ所、ということだろうか。
「ある人間をにくむとすると、そのときわたしたちは、自分自身のなかに巣食っている何かを、その人間の像のなかでにくんでいるわけだ。自分自身のなかにないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの」引用:『デミアン』(ヘルマン・ヘッセ 岩波書店)
エンターテイナーは、マーケットを舞台として人々のあらゆる内面を投影する象徴である。それを知っているといないとでは、精神的耐性に大きな差が生じる。ツォイは当時のソビエト国民同様、そのような西側の「洗礼」を満足に受けていなかった。その影響を無防備に浴びてしまった。そして、彼を守る人はその時隣にいなかった。
犯罪予防の理論、コーエンCohen, L. E. とフィルソンFelson, M. の日常活動理論によれば、犯意ある行為者、格好の標的、有能な監視者の不在の条件が同時に存在する時、犯罪が起こるということだ。有能な監視者の不在を狙って、行為者は標的、ツォイという星を落したのだろうか。【桃と紅茶】
1991年
1991年8月19日~22日 ソ連8月クーデター未遂 Августовский путч
1991年9月 モスクワ郊外のツシノ飛行場で、Monsters of Rock Moscow という伝説のイベントが開催された。人類史上最大のライヴのひとつにも数えられ、160~200万人ともいわれる同志達が押し寄せ、ソ連軍総動員で警備した。(これは、日本のある1県の県民が全員集合したくらいの人数!)
流行の心理メカニズムによると、大規模ロックコンサートは大きければ大きいほど以下の欲求をすべて満たすことができると考えられる。
1. 同調化への欲求:コンサート会場という社会に同調する。
2. 差別化の欲求:コンサート会場外との差別化。
3. 新奇性の欲求:自己に刺激を与える。【桃と紅茶】
91年12月8日 ベロヴェーシ合意。ソ連の構成国だったロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国「ソ連消滅と独立国家共同体設立」を宣言。
1991年12月26日 ゴルバチョフはソ連大統領を辞任。1922年成立したソビエト社会主義共和国連邦の崩壊とロシア連邦建国。
この後もロシアは怒涛の90年代が続く。92年のインフレ率はなんと2600%!
参照
・ナタリア・ラズロゴワ Источник https://vk-spy.ru/ja/
・RUSSIA BEYOND:1980年代ソ連の栄光と没落(写真特集)Boris Yusupov https://jp.rbth.com/
・コムソモリスカヤ・プラウダ:ヴィクトル・ツォイの伝記 https://www.kp.ru/putevoditel/istoriya/biografiya-viktora-tsoya/
・Kultura.RF:Виктор Цой https://www.culture.ru/persons/7664/viktor-coi
・uznayvse.ru : Виктор Цой https://uznayvse.ru/
・キノポイスク:Виктор Цой https://www.kinopoisk.ru/name/290123/
・フリー百科事典ウィキペディアより Цой, Виктор Робертович
https://ru.wikipedia.org
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