何も遺さなくていいし、遺そうとしなくていい
長年仕事をしてきて、結局何も遺らなかった。
そう知人に打ち明けられて返す言葉に詰まってしまいました。
私たちは生きてる中で何かを遺さなければいけないのでしょうか。んーーー難しいですが、私自身はそんなこと考えたこともなかったので、新しい視点を頂いたな、と思いました。
結論としては題名の通りなんですが、そもそも私たちって何かを遺すために生きてるんですかね?何か壮大なテーマや使命があって生まれてきたとしたら、それってどこにあるのか探すところからスタートしなきゃいけません。
もしかしたら前世からの使命を引き継いで今世を生きている、という方もいるかもしれませんが・・・。
しかし、知人の言う「遺す」とはいわゆる周りからの賞賛の有無を指しているようでした。自分の仕事を通して関わってきた人たちからの感謝や労いが思ったほど無かったのかもしれません。
感謝や労いは自分自身に伝えてあげると良いのでしょうね。外側の誰かにしてもらうのではなく、自分が自分にしてあげる。そうすると、あっという間に欲しかったものは手に入ります。
感謝されたかったら、自分にありがとうと言う。今日も元気に体が動かせた、ご飯をおいしく食べられた、一日無事に過ごせたことにありがとう。それで十分自分を大切にできているし、褒められています。
何かに期待するなとか、求めるなとは言いませんが、自分以外の外側に求めて落胆するくらいなら、初めから求めず、自分が自分に与えればいいですよね。
そして、見返りを求めて仕事なんてしなくていいんじゃないかと思います。無心で無欲で取り組んだらいいのです。「働く=傍を楽にする」こと、周りの人が楽になるよう奉仕することが仕事です。
周りの人に自分を幸せにしてもらうんじゃなくて、自分から勝手に幸せになればこんなに楽なことは無いです。
” 私は今日も元気に自転車をこげました。道中、冬の風が冷たかったですが季節を肌で感じることができました。職場への道のり、近道を探していますがどれが近道かまったく分かりません。そして分からないことも楽しいですし、このままでもいいかな?とも思います。”
という平凡な今日という日も自分次第で幸せを感じていいのです。(※上記は今日の私の日記です)
見返りを求めると辛いです。見返りが目的になってしまうから。
例えば私がヨガのレッスンで「〇〇円稼ぎたい!」って思ったら、もう生徒さんそっちのけになってしまい、数字しか追いかけなくなってしまいます。それはとても虚しいし悲しいことです。
いくら稼ぎたいとか、生徒さんに感謝されたいとか、そういう外側にある些細なことに翻弄されず、ただ淡々とクラスに来てくれる生徒さんとヨガをして、ニコニコ笑い合えたら十分なんですね。その一期一会に感謝したいです。
私にとってのヨガの本質は、生徒さんが自分の役割を脱いで身一つでヨガに浸り自分自身に還っていくということです。
――― 体を信頼して、心が休まって、思考がシンプルになる。俗世から離れるヨガの時間が俗世で生きる私たちの心と体をバランスしていく。
生まれてから死ぬまでの間にたくさんの人に出会い、沢山の経験を積んでいきますが、死ぬ時は生まれてきた時と同じように身一つでこの世を去って行きます。
だから無理に何かを遺そうとせず、この身を使って自分のできる仕事を淡々とこなしていけばいいのではないでしょうか。それが傍を楽にし、自分の喜びとなっていれば、もう見返りを考える必要もなくなりますしね。
私たちは今この時から幸せになっていいんですね。それを許してあげましょう。
皆さんの幸せをお祈りしています。