務川さんのラヴェル/ト長調に寄せて~ラヴェル幻想
ただ美しい時間があった。これほど、周囲のものが形を失い自分の身体さえ消え去り、意識のみが音を追ったことがあっただろうか。
〈務川慧悟のラヴェルト長調〉、ずっと呪文のように唱え続け、夢見ていた。それがそこにあった。まさに夢のような時間、私はほんとうにそこに存在していたのかな。。でも、あの美麗なトリルを、華麗なグリサンドを、目にもとまらぬたしかな打鍵を目も耳も覚えている!
第2楽章 。きっと息もできないだろうと、想像していた。けれど違ったのだ。
我々は親しき友人としてラヴェルその人のサロンにいた。
務川さんは椅子の背にもたれ、左手のみで弾くときは右腕をだらりと下ろしてさえいた。晩年のラヴェルは体が弱り、思うように動けないこともあった。ラヴェルも自宅ではこうして弾いていたのかな。。…そんな視覚的効果(演出)のために務川さんがそうしたのでないことは分かっている。おそらくわりとシンプルに、このほうがしっくりきたのだろう、心情的にも、音の有り様としても。※1
彼の(ラヴェルの)体調を案じて集った仲間たち、その一人一人に時には微笑みながら、時には慈愛の眼差しを送りながら、彼は弾くのだ、
死すら見据えて衰えぬ音楽への炎を燃やして。。
ジョゼフ、あなたって人は。。と泣く友に、
大丈夫だよ、僕は。心配ないよ。これもまた人生だね。と。※2
務川さんの音を通してラヴェルの言葉を聴いていた……浄化と諦念と慰めと。。。
そのとき流した我々の涙はラヴェルの友人としてのものだったのかもしれないし、
作曲家の魂に同化するほどの務川さんの音楽への献身に寄せる涙だったのかもしれない。そして、生きることの美しさと苦しさと崇高さと、そんなことにも、今となっては、思いを巡らす。聴いているただ中では感覚のみが働き、思考は無だったのだけれど。
つまり、
第2楽章のあまりの美しさに、胸苦しさで息も絶え絶えになるのではと身構えていたけれど、違ったのだ。そうか、これが、務川さんの思う第2楽章なのだな。それは目を見開かれるような新鮮な、それでいて元から当たり前のようにそこにあった解釈というか…この曲の本然本質だった。
親密な空気が流れていた……
この時の務川さんの奏でる音を聴いていると、自分というものが、特に身体性が無くなり、ただ意識が中を漂うような感覚を覚え、務川さんのラヴェルとの同化というのか、務川慧悟を聴いているのかラヴェルを聴いているのかわからないような感覚??いや……もはやラヴェルその人すらいなくなり、ただ美しい時の流れだけが漂っているような……このままこの流れのままに永遠の眠りに就きたい、、、とすら……!
死と眠りは同じだろうか……
務川さん あまりに美しいよ。。。
折しも同日別の所でコンサートを行っていたヴァイオリニスト郷古廉さんが以下のように投稿されていて……
〈名前も人格も無くなって、ただ作曲家の精神と音楽そのものが浮かび上がっていく瞬間。皮膚と大気の境界が曖昧になり永遠の環のなかに組み込まれていく瞬間。音楽はそれを可能にする。〉!
(語彙をそのままお借りし勝手に要約させていただいてます。本来このような要約は良くないのだろうけど、個人的なnoteのことゆえお許しください。)
これは奇しくも私が務川さんのこの日の演奏をお聴きして思ったことそのものではないのか?!(上に書いたこととなにげに一致してませんか?)いや、優れた音楽家さんが演奏中に感じた高邁な感覚を、私ごときリスナーの未熟な感覚と重ねて考えるなんて、分をわきまえない事とは思うけれど、でも、素人の聴き手にもある種このような特別な時間が降ってくることがあるのは、多くの?リスナーの同意を得られるのではないかと思います。(まして、この日フォーレを弾いた郷古さんとラヴェルを弾いた務川さんは、前日お食事会をした仲ではないか!(笑)私の勝手な思い込みを今回ばかりはお許しいただきたいのです、伏して。)
第2楽章のことを主に書いてしまったけれど、他の楽章のことを。
第1楽章、第3楽章は時代そのものだ。と言いつつ私には想像することしかできないけれど。20世紀初頭のフランス、パリ、都会。どんなだったのだろう……(務川さんはとある一問一答でタイムトラベルするなら20世紀初頭のパリとおっしゃってた。この時代に心を寄せてらっしゃる。)とにかく噎せかえるほどに芸術文化の花開いた時代、おしゃれで小粋で、喧騒と倦怠、葉巻やお白粉や香水の香り、旧弊と侮蔑と新奇と自由、職人気質と機械文明、才気煥発な芸術家気取りと生活力旺盛な下町育ち、欧州の矜持と所謂新大陸への憧れ、ありとあらゆる物や人が巨大なうねりとなって進んでいく、壮大な万華鏡だ、とかなんとか、勝手に想像している。大戦の影はもちろんまだ癒えてはいないけれど、傷ついているからこそ享楽を求めるのかな。
そんな世界にあって、ストイックなラヴェルの視線には冷徹さと温かさ、アイロニーと子供のような好奇心が、特にこの協奏曲(第1、3楽章)からは、あるように感じられる。
そのめくるめくような万華鏡の世界を主としてオーケストラが受け持ち、務川さんのピアノは、その混沌とした世界を生きるラヴェルさんその人を表しているかのような、純粋で、少し孤独で、限りなく美しいきらめきをもって弾かれるのだ!!(言っとくけど、務川さんの第3楽章にゴジラはいない!w)
〈務川慧悟のラヴェルここにあり〉
あぁ、でもなんて儚くて強くて貴い……!!!!!
次の演奏会の迫っている務川さんは、すでにこの時のことを
おもひで
と、投稿された。この美しい4つの平仮名は務川さんのために取っておくとして、私は何と??
ともしび
かな。。
ありがとうございます😭😭
豊中文化芸術センター大ホール、木の香りのするような素敵なホールで、残響もまぁまぁ良い感じ。でも自然な空気の流れを重視したのかな、開放的過ぎて、ぎゅっと緻密な空気感、真の静寂のようなものが感じられず、その点は難しいホールなのかな、なんて。素人の戯言です。
※1 務川さんは作曲当時の手触り的なものを大事にされる方だと思う。バッハフランス組曲全曲を演奏されたリサイタルでも当時の手書き譜面のコピーを置いての演奏だった。暗譜はしてらっしゃるはずで、その譜面は当時の記譜法で、見ていると逆に幻惑されるような感じがあるにもかかわらず、その手触りを大切にされてそこに置かれたのだった。
※2 インスタグラムで読ませていただき、務川さんの亡きお祖父様の最後の言葉というのを知った。「だいじょうぶだ」という言葉だったそうだ。意図は私などにはわからないし、変な解釈などここに記すのは失礼と思うのだけれど、色々なふうに読める。ただ、そういう言葉を残して旅立てるのってすごいなぁと。書きながら、この時の務川さんの文章を思い出してしまったのです。。
https://www.instagram.com/p/B-XGkbYp400/?igsh=a3hldHRsaTk5YzJw