京都・街の湧水10
34深草・瑞光寺、白龍銭洗弁財天の財運水
瑞光(ずいこう)寺は同じ深草丘陵にある茶椀子(ちゃわんこ)の井戸、深草聖天(しょうてん)・嘉祥(かしょう)寺の井戸とほぼ同じ標高にある。瑞光寺の門から続く参道を進むと白龍銭(ぜに)洗弁財天の手水場(ちょうずば)のわきに銭洗弁財天と帝釈天の小さな祠(ほこら)がある。
井筒の上に祠
2つの祠は石組みの古井戸の井筒の上に乗る。瑞光寺本堂のわきに別の古井戸があり、銭洗い手水場の水はこの3本の井戸をまとめて出しているという。
3本の井戸水を集めて、水道の蛇口を絞り加減にした分しか龍口から出ていないので、3本の井戸にたまった水量はそれほど多くはないと思った。深さがせいぜい2㍍程度で、地中からジワジワと水がしみ出る浅井戸の「閼伽(あか)井」と推測した。手洗いと同時に備え付けの柄杓(ひしゃく)で飲んでみたら、うまい水だった。
浅井戸と推測したのはもう一つの手がかりは水温。外気に影響されやすい浅井戸だけに厳冬期の水は口に含むとやや冷たい。深井戸だと水温は夏冬ほぼ同じなので、厳冬期は温(ぬる)く感じる。銭洗い手水場の水はやや冷たかった。
「白龍銭洗弁財天」の説明書きによると、「ザルの中にお金(千円、五千円、一万円の札)を入れ、白龍の神体から出る水で願いごとをお祈りし、お金を洗います」とあった。水をかけたお札を乾かし、瑞光寺特製で500円の神体袋に納めて財布などに入れておくと財運、金運、幸運を授かるといわれる。あいにく千円、五千円、一万円の札を持ち合わせていなかったので、小銭を洗った。
本堂は茅ぶき屋根
瑞光寺は元々、真言宗・極楽寺薬師堂の旧跡。1467年から1477年まで続いた応仁の乱で荒廃した。1655年(明暦元)年に江戸時代初期の日蓮宗の高僧・元政上人が日像の創建した日蓮宗の大本山「妙顕寺」で修行をした後、日蓮宗の寺として庵(いおり)を結んで再興し瑞光寺と名付けた。門前に元政上人の石碑などがある。
清そで古趣な境内
本堂は「寂音堂」と呼ばれ、江戸時代初期の建造で、大寺の多い京都では珍しい茅(かや)ぶき屋根。本堂の前に池があり、境内は整えられて清楚(せいそ)で古趣なお寺だ。本堂には秘仏の如意輪観音が祀(まつ)られ、厄除(やくよ)け、病難退散にご利益があるといわれている。
35深草聖天・嘉祥寺、華榮井の盥漱水
通称・深草聖天(しょうてん)と呼ばれる嘉祥寺の古井戸「華榮井(かえい」からわく「盥漱(かんそう)水」は、うまい水だった。石の手水桶に「盥漱(かんそう)水」、井筒に「華榮井」と刻んだ彫り込みがある。
華榮井は浅井戸で、地中から浸(し)み出すようにわいた水がたまり、ポンプでくみ上げている。保健所から「飲用しないで」といわれているというが、飲んでうまかった。別に煮沸(しゃふつ)しないでも飲用できるように感じた。
陵寺として12帝陵の東隣
「盥」(かん)は音読みで、「たらい」とか「すす(ぐ)」「(そそ)ぐ」とかの読み方もする。盥(たらい)は顔や手足を洗う平たい桶(おけ)の一種。嘉祥寺の西隣は深草北陵(持明院統・北朝系の天皇12人の陵墓で12帝陵ともいう)。元々、御陵の法会などを行う付属寺として建立された後に清和天皇の世に勅願寺となった。寺の西隣が北陵。陵墓と一体の寺だけに寺固有の門がなく、御陵と寺の間に塀などの仕切りはなかった。
御陵の付属寺だから檀家がない。その名残が境内のモミジのわきにある法華塔と刻まれた石柱。宮内庁の管理だが、国からは管理料の支出は一切ない。檀家が無いうえ参観無料だし、公的な財政的支援もないので寺の運営・維持費だけでも大変だ。
時代に翻弄
明治新政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で伽藍(がらん)の多くが破却された。わきに北朝系天皇12人の墓地「十二帝陵」が設けられ、境内が縮小された。時の政治、政府の考え方や時代に翻弄(ほんろう)され続けてきた。
井戸は門から入った場所に古くからあった。数年に一度、保健所の水質検査があり、近くに農薬散布の畑があるので「水は手洗いだけに」と言われ、寺では生活用水には一切使っていないという。
門は原則、平日以外も開けっ放し。急用時以外は閉めることはない。「いつ、急用で出かけて留守にすることがあるかもしれないので、訪問の時は電話連絡を」という。
初の歓喜天
嘉祥寺は天台宗寺院で大聖歓喜天がご本尊。通称「深草聖天」と呼ばれ、近在近郷の人々の信仰を集めてきた。寺伝などによると平安時代の850(嘉祥3)年、文徳天皇が父・仁明天皇の陵墓近くに建てた「陵寺」が始まりという。
「陵寺」は山陵に付属して追善法会など儀式を行う寺。文徳帝の清涼殿が移され堂宇とした。歴史が古いだけにさまざまな紆余曲折があって、現在に至っている。
36深草・大雲寺と圓妙寺の井戸
日蓮宗・宝塔寺の塔頭(たっちゅう)、大雲寺の井戸水も真向かいにある同じ宝塔寺塔頭「圓妙寺」の井戸水もうまかった。両方の井戸とも茶椀子(ちゃわんこ)の井戸や銭洗弁財天、深草聖天の井戸よりもやや高い場所にあり、丘陵の上に近い場所にある。
浅井戸の典型
大雲寺の原光司住職の案内で、大雲寺位牌(いはい)堂の下にある井戸をのぞいた。丸い鉄板の蓋(ふた)を開けると、底が見える浅井戸だった。水をポンプでくみ上げて蛇口をひねると水が出るようになっている。原住職は「井戸水は深草丘陵からの伏流水。生活用水は水道局の勧めで水道水を主に使っている」と話したが飲める。
伏見稲荷のある稲荷山から東に深草丘陵、桃山丘陵が続く。稲荷山の東隣、宝塔寺・七面山の丘はスダジイやカシ類の常緑広葉樹が茂り、水を涵養する。この丘陵からの水が数年から数十年かかってふもとの方にわき出る。
深さ1~2㍍ほど手掘りすると地中からジワジワを水が浸み出す。これ以上掘ると、水が噴き出すようにわくという。井戸の土壁、底から浸み出した水は仏前に供える閼伽(あか)水そのものだ。
水を飲むと、水温で井戸の深さがだいたい分かる。地中深くボーリングしてわき出た水は厳冬期、温(ぬく)い。盛夏にはひんやりする。水温が夏冬問わず、年間を通じて一定している。
浅井戸の場合、外気の影響を受けやすく、冬場でもやや冷たく、夏場は温かい。深草の寺々を訪ねて井戸を探しては水を飲んだ。ほとんどのお寺の井戸が「閼伽井」だった。
浅井戸なので水量は多くなく、1本の井戸では庭水や手水場水に足りず、2,3本の井戸水を1本の井戸にまとめて電動ポンプでくみ上げて利用しているところもあった。
40余年で整備
大雲寺は京都市伏見区宝塔寺山町32にある。1536(天文5)年の建立。宝塔寺の総門(室町時代建造の四脚門、国指定の重文)を入った参道のすぐ左手にある。
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宝塔寺は当初、平安時代の嘉祥年間(848~851)に創建された。当初、真言宗の「極楽寺」として創建された。極楽寺は「源氏物語」に登場する。鎌倉時代後期の1300年代初めごろ、法華宗(日蓮宗)に改宗。日蓮から「都での布教を」と言われ、京で法華宗を広めた宗祖・日蓮の孫弟子で三世の日像が入寂(にゅうじゃく)して葬られた。
宝塔寺は現在、日蓮宗大本山「妙顯寺」(京都市上京区)に所属する大寺。京都で一番古く、姿形の美しい多宝塔(室町時代の建造)があることで知られる。
妙顕寺は鎌倉時代後期、1321(元亨元)年に日像が創建した。洛中では日蓮宗最初の寺院。1582(天正10)年に織田信長が焼き討ちに遭った本能寺の変後、豊臣秀吉の命令で、諸堂が上京区の現在地に移転した。琳派を代表する尾形光琳なじみの寺。江戸時代の1788(天明8)年大火で伽藍(がらん)の大半を焼失したが間もなく再建された。
大雲寺は1590(天正18)年の建立。6坊ある塔頭の中で「第一坊」とされ、「西之大坊」とも呼ばれている。創建時、まだ宝塔寺の本堂はなかった。原住職によると、宝塔寺本堂の建立に年月がかかり、25年間は大雲寺本堂が宝塔寺として使われたという。
1467(応仁元)年から1477(文明9)年まで戦乱が続いた応仁の乱と1536(天文5)年に起きた法華一揆の兵火で、宝塔寺は国指定重文の多宝塔(室町時代の建立)と総門(四脚門)を除く全山の伽藍(がらん)が焼失。塔頭も焼失した。
本堂はかつて宝塔寺の仮本堂
豊臣秀吉の伏見城建設で家臣の伏見普請奉行の庇護(ひご)があって、京都にあった方広寺大仏殿の余材で1608(慶長13)年に現在の宝塔寺本堂などが建立されと伝えられている。
日像が生まれた千葉県松戸市平賀の本土寺で修業した原住職が1976(昭和51)年に大雲寺に入り、堂宇(どおう)と庭などを少しずつ整備。京都で指折りの庭師、中原正治氏が1970年代後半に庭を大改修した。原住職が寺に入ったとき、雨漏りのする本堂しかなく、その後徐々に書院や茶室など19カ所の建造物を設けたという。
茶室が2つも
庭に数種類の苔や北山杉特有の代杉を植え、五輪塔なども新設。飛び石は赤っぽい鞍馬石を多く使った。赤石も緑がかった鞍馬石も今では採取できない。5基ある灯篭(とうろう)はすべて高さや形状が異なる。本堂の廊下に張り出して東の空をながめられる月見台がある。
庭の中に丸窓のある「黙庵」と北山杉のさび丸太をふんだんに使い、手洗い用として緑色の鞍馬石で製作された四方仏つくばいがある「宝珠庵」の2つの茶室も設けた。どの部屋からも庭が望める工夫がされている。庭木の刈込など手入れは原住職自らが行う。
11世紀初め、中国・宋時代の景徳鎮で造られた青磁と白磁を合わせた大型花瓶や桑の大木で造った楽器の琵琶(びわ)など国宝、重文級の書画骨(こっとう)が多くある。2019年に一般公開されたとき、二千余人が見学に訪れ、住職婦人が「宝珠庵」で抹茶をふるまった。
圓妙院も管理
大雲寺の真向かいにある塔頭「圓妙(えんみょう)寺」は1597(慶長2)年の建立。住職が高齢となり、2001(平成13)年に原住職が荒れた寺の管理を任された。老舗百貨店「大丸」の礎となった京都・伏見の呉服店「大文字屋」を1717年(享保2年)に創業した下村彦右衛門正啓ら下村家代々の菩提寺。代々の位牌を納めた位牌堂がある。
下村家は財政的に圓妙寺を支え、若冲が杉板に鶏を描いた板戸を寄贈した。
コンコンと水がわく古井戸
原住職が管理を任されたとき、本堂は雨漏りがしたり、天井をつっかえ丸太で支えるなど荒れていた。原住職はまず圓妙寺の土間を改修した。土間は京都で「おくどさん」と呼ぶ「竈(かまど)があり、古井戸があった。古井戸はふたをかぶされて改修された。
井戸をのぞくとコンコンを水が湧き出ていた。水面が光り輝いていた。深さは3㍍ほどある。水が湧出するといっても、井戸口まで水があふれるようなことはなく、「閼伽(あか)井」そのものの古井戸だ。井戸水はポンプでくみ上げられ、玄関先の掃除用などに使われる。きれいな水で飲用しても腹痛など体調に全く影響はなかった。(つづく)(一照)
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