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ベティブルーといた日々 2015 冬の日記
某日
ベティブルーを観る
あんな風に愛し通せるなんてすごい
ベティがキスしてと言うと 必ずベティの胸を触りながら
するところがにくい
女の感じさせ方をよく分かっている
今までいろんな映画のsexシーンを観てきたけど
どんな男優のそれより この人の演技にやられてしまった
ベティの着てる服のファスナーをおろし 胸に手を入れながらキスするとこで
きゅんきゅんした
ベティが妊娠したと喜んでいたのに 実はしてなくて
陰性の通知が届き
ベティがまた狂乱して 自分の顔に奇抜なメイクをほどこす
それを見て 驚いたり罵ったり 一切せずに
テーブルにあったトマトスープに手をつっこみ 自分の顔にも
ぬりたくる
なんか このシーンでも
前に純ちゃんの悲しみを共有した、と言っていた彼を思い出した
ベティがどんな突拍子もない行動に出ても
彼女を突き放さず 周囲の人からも守ろうとする
その愛し方にしみじみ憧れる
あんな風に愛せるのがすごい
そして いつも自分に疑問を抱くのだ
実際は すべてを許すと言い愛してくれる人がいるのに
それを自ら手放す自分自身の矛盾に
じゃあ自分は愛されるより自分が愛したいということ?
ただのないものねだりなのか
自分の未熟さなのか
他人に言わせれば肉欲だけに支配されてるとか
純が彼といて楽しいのは非日常の喜びを与えてくれるからじゃなくて
その逆で
一緒に純の作った食事を食べるとか
そういうつつましくも愛おしい日常を与えてくれるからだ
純が欲しいのは刺激なんかじゃない
彼が19歳も年下なので 世間とか一般の人から見たら
刺激を求めた結果に見えるかも知れないけど
刺激が悪いわけではない
特に知的好奇心から派生する渇望は
むしろ 大人としてのよりどころでもある
それらは 日常というbasicを 揺るぎないものに構築させたうえでの
枝葉である
大切なのは いつも穏やかな日常だ
某日
生理と満月
大けがしたかのようにドバドバ出る
出かけたくなかったが 高円寺に買い物へ行く
思わず大人用オムツを買いたくなった
(いつか そのうち、、、)
帰り道 ニット帽の男の子の足をひいてしまった
男の子「いて」
純「すいません」
男の子「いえー気にしないで下さい」
うー
優しい人で良かった
ペダルを漕ぎながら 頭の中で
「彼女はいるんだろ 大切にしろよ」と壮大なストーリーを繰り広げながら走る
壮大でもなければ ひいておきながら
上から目線の純であった
彼ももし 街中でこういう事があったら
あの青年のように優しいんだろうな
でもあの青年のような 明るく弾むような声は出さないだろう
どこまでも きっと物静かだ
夜中にちょっと涙がこぼれた
神さま、純はいつも自分だけを可愛がってもらいたいと
泣き続ける子供です
ほんとはもっと感謝しなくちゃいけないのに
だから 自分を叱り続けた
某日
彼が「純ちゃんと一緒に暮らすの楽しい」と言ってくれた
嬉しい
人生は楽しいのが一番だ
そのうち ただの年寄りになるよと言ったら
ただの?
と言うから笑った
ただの年寄りではなく やっかいな年寄りってことか
秋よりもブルーを濃くした空に
イチョウのコントラストが美しかった
今日から海辺のカフカを読む
今日、一緒に小説を書こうと言われた
純に書けるかな
高円寺から歩いて帰ったら疲れてしまって布団に寝転んでたら
「純ちゃんが元気出ますように」と言って乳首をくりくりした
乳首で元気がでると思われているとは
我ながら笑える
南口にヴィレッジヴァンガードがあった
写真集の女の子が乳首見えたけど スタイリッシュで可愛かった
オシャレ
某日
誰だったかイケメン俳優に
「まだ結婚しないんですか?」とインタビュアーが訊ねると
「歳をとってもお茶目な女の人がいたら
すぐにでもしたい」
と、答えていて
純だってお茶目ってよく言われるけど?って思ったけど
どうせ その俳優の答えなんて
やっつけ仕事だろう
そして 彼が冷静に言う
「歳をとってもお茶目な女の人と暮らすのは 破滅の道ですよ、、、」
小説について、少し考えた
例えば、小説の中で人は自分の考えを登場人物を通して
言わせることができる
それが アフォリズムという形で読み手の心に響くことだってある
でも、もし自分が小説を書くなら
そのような手段は ちょっとうーんという気がしてしまう
純はそんな人格者ではない
ノンフィクションしか書かないのも ちょっとそれに関係している
誰かに何かを伝えたいとか
そういうのは 自分に相応しくない
文字のなかにあるのは 想いだけでいい
その想いに味はない
甘いとか酸っぱいとか そういう舌触りは読み手により
はじめて生まれるもので
書き手は味をつけたらいけないような気がする
けれども
文字は生きている
頁をひらいて 読み手がそれを読んでいる時は
どんなに 書かれてから時間が流れていても
文字はドキドキと その脈を打っている
それが 純の考える小説であり 時を経ても
文字が生きているという点においては 日記も同じである
純が彼のことを日記に書くのは
その「脈拍」を残しておきたいからだ
ドキドキと呼吸している
それは命であり 生きることが愛だから
彼はきっとそのことが分かる人だ