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若いということ、そこにみる希望

 

 若さは一般的に素晴らしいものでそれだけでうらやましがられたりもするし、一つのステータスになったりする。このテーマは、人間という生き物を考えるうえで一度は深く考えてみるべきものだと思う。

では、若さの根本的な良さや尊さというものはどこにあるのだろうか。
たとえば、身体機能という点で考えるなら確かに若いということは特別だろう。多少の寝不足やケガなど、ものともしないタフさがある。
しかしながらここではそんな表面的で分かりやすい側面から考察したいのではない。もっと内面的な部分からアプローチしてみたい。

考察するにあたってアリストテレスの「可能態」と「現実態」という考え方を用いたいと思う。この二つの関係を分かりやすく説明すると、椅子に加工される前の木材が「可能態」、加工された後のものが「現実態」である。
加工する前は、椅子ではなくドアになるかもしれないし、木箱になるかもしれないという可能性があるが、加工後には単に椅子としてそこにある。そんな状況である。

これがどう人間に関連しているのか。
私たちは生まれたときは完全な「可能態」である。スポーツ選手になることも学者になることもヴァイオリニストになることも、全て可能性として内包されている。しかし、時間がたつにつれてそれらは減少していく小学生くらいならまだサッカー選手を目指せるが、大学生からなら難しい。そんなことが増えていく。そして、行動を起こさなければ知らないうちに自らの望まない現実態が私たちのもとにやってくるのだ。そんなときに「こんなはずじゃなかった」「もっと違う人生があったはずだ」そう人間は口にするのだ。「現実態」は必ずしも希望的なものではない。いくら頑張ったとしてものぞんだ「現実態」になることができるとは限らない。誰もが自分が欲している才能や能力を得ることができるわけではない。

ここから考えるに若いということの素晴らしさは「可能態」にあると思う。若さを素晴らしいといいそれをまた欲する人は「可能態」が欲しいのではないか。そこから生まれる「現実態」がどんなものであったとしても何者にでもなれるかもしれないという可能性が私たちを生き生きさせている。ちょうど結果が出る前の宝くじを胸を高ぶらせて握りしめているのと同じように。
しかしながら、「可能態」というものは人間を苦しめたりもする。将来の夢がないというやつだ。選択肢がただ多いというのは時に人を苦しめる。その苦悩こそが若さの特権なのかもしれないが。

ただ、何度若返ろうが訪れる結末は同じだと思う。
私は運命論者寄りの考えであるため、生まれたその時にすべてが決まっているように思えてならない。これは、別に悲観することではない。生きていくうえで訪れる良いことも悪いことも、努力することもそこから生まれる結末も決定されているとしたなら、自分の人生というものを映画を見るような気持で客観視できるのかもしれない。それとなく幕が開け、派手ではないかもしれないがそれなりの盛り上がりを見せて終わる。その中で起こることや尺はもう決まっているがそれを知らないだけ。

そう考えるならいくつもあるように見える「可能態」は実際のところまやかしにすぎず、いずれ訪れる「現実態」というのは私たちと運命の糸とやらですでにつながれているのかもしれない。「可能態」というもつれた糸のその先で。

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