virtual lover(ミステリ小説第2話 まさかの展開)
愛斗は思わずギョッとした。
事前にヲタスケから聞いていたが、実際にカグラが誰もいない方へ向かって話しかけるのは背筋の凍るような光景である。
カグラが話しかけているのはイマジナリーフレンドだった。イマジナリーフレンドとは通常児童期に見られる空想上の友達の事である。
普通は児童期に消失するそうだが、父親に受けた虐待の影響か、カグラは今でもイマジナリーフレンドを有していた。
しかも現在のイマジナリーフレンドは『ユメカ』である。
ヲタスケの話ではユメカのイベントを出禁になって以降空想の友人が『ユメカ』になったそうなのだ。
「ともかく、中へお入りください」
カグラは3人の来客を促した。そして3人は応接室に連れて行かれる。その部屋の壁には大きなユメカのポスターが貼ってある。
カグラは一旦席を外すと、再び現れた時にはでかいお茶やジュースのペットボトルとグラスに、チョコやせんべいの入った袋を持ってきた。グラスは全部で5つある。
カグラはグラスを今いる4人の前だけでなく、彼の座った席の隣の誰もいないソファーの前のテーブルにも置き、オレンジジュースを注ぎはじめた。
それがユメカの好物なのは、無論愛斗も知っている。
「こんなものしかないけどよければ。以前いた家政婦さんはやめちゃってね。もう歳だからきついって」
「それは、残念」
ヲタスケが返した。
「あのおばさん、いい人でしたね」
「僕にとっては母親のような人でした。本物の母親は子供の頃に死んじゃって。本物のお母さんが生きてれば、父親に虐待される事はなかったかもしれない」
目を伏せながら、カグラがそう述懐する。
「明日ビッグサイトでやる握手会には参加しないの?」
カグラに聞いたのは、リナである。
「僕のそばには、常にユメカがいてくれるから行かないよ」
笑顔になって、カグラがそう返答した。屈託のないスマイルだ。本当に幸せそうだ。
彼の視点では、本当にユメカと同棲しているわけだから、当たり前だが。カグラが虐待された過去も忘れて嫉妬すら抱いてしまった。
翌朝日曜日の8時30分に、愛斗はビッグサイトに着いた。朝9時から始まる『2020』の握手会に参加するためだ。
赤羽駅を朝7時43分に出発する埼京線に乗り、朝8時22分に国際展示場駅に着く。
ここから徒歩で2分の場所にビッグサイトがあったのだ。
握手会は大型感染症の影響もあってしばらく中止になっていたが、最近復活していた。会場に行くと、すでにリナとヲタスケの姿がある。
2人とは金曜のオフ会で初めて会ったつもりでいたが、多分握手会やサイン会で見かけたと思う。
リナの方は昨日と違いマスクをしていた。最近大型感染症にかかった人がまた増えているので、そうしたのだろう。
会場は以前AKBのメンバーが襲撃された事件があったため警備員が大勢配置されていた。
たくさんのファンが並んでる列の方は、今日やはり来る『2020』のセンターをつとめる女性の推しである。
ユメカの列はいつも同様閑散としていた。人気のあるなしが露骨にわかる瞬間だ。
少し遅れてユメカの列に、白い帽子に赤く染めたチリチリのロングヘア、茶色のサングラスに、ピンクのマスクをつけた身長160センチぐらいの女性が並ぶ。
直接話した事はないが、ユメカの握手会でよく見かける女性である。確かユメカに『ムナ』と呼ばれていた記憶がある。
その時だ。突然盛大な拍手と歓声があがった。『2020』のメンバーが現れたのだ。
センターのファン達の熱狂ぶりはものすごかったが、愛斗達もかれらに負けないように声援を出す。
当然ユメカの姿もあった。今日は虹色のイヤリングを両耳にしている。愛斗には、彼女にだけ後光がさしているようにすら見えていた。
笑顔の中にもどこか寂しげな表情が『守ってあげたい』という気にさせる。ユメカの握手会はヲタスケから始まった。
その次がリナ。買ったCDの枚数で話せる時間が決まり、たくさん買うほど長時間喋れるのだが、リナは経済的に余裕があるらしく、かなりの時間歓談していた。次に愛斗の番が来る。
「マナトさんでしょう! いつもありがとう!」
ありったけのスマイルを浮かべてユメカが感謝の言葉を述べた。思わず顔が熱くなる。
多分ゆでダコかリンゴみたいに真っ赤になっているだろうと愛斗は感じた。
無論彼女が名前を覚えているのは、握手会に並ぶファンが少ないからというのはわかっているのだが、それでも嬉しい。
ユメカにのめりこんだのは、以前つきあっていた恋人と別れてからだ。
それ以来、いつかこんな相方ができれば良いなと感じるようになっていた。短いが、愛斗には至福の時間である。
やがて別れる時が来た。やわらかな握手。
「頑張ってください。応援してます」
「ありがとう。まだまだ人気のないあたしだけど、これからビッグになりますから」
ユメカが返した。その時はまだ、あんな事態が起きるだなんて、予想だにしなかった。