死装束を選んでくれた人
よしもとばななさんのエッセイを読んでいると、今まで自分の人生で色々出逢った人が浮かんでくる。
たった一度しか人生で会っていなくても、凄く感謝している人。
名前も分からないけど、一緒におばあちゃんの死装束を考えてくれた方。
温かい笑顔で元気だったおばあちゃんの人柄や様子を聞いてくれ、一緒に衣装を選んでくれた。
当時、私は息子を妊娠中で28週くらいだった。病院で息を引き取ったおばあちゃん。92歳。
脳内出血を繰り返し、約13年間寝た切り生活。
初めて脳内出血した時は、私は看護学生だった。
手術を受けて、ICUで大暴れしていた。
その時は、まだ、話が出来て、歩く事が出来たけれど、前頭葉あたりの出血だったので、人格が変わってしまった。
怒った事がないおばあちゃんが、わめき散らし、怒鳴って、病院スタッフ中を困らせていた。
私の事は忘れて、ずっと母の名前を叫び続けていた。
『こんな風になりたくないわ。』
病棟看護師に言われた時、
『私はあなたみたいな看護師になりたくない。』と思った。
その数年後、再出血した時、私は脳外科の看護師をしていた。
老健施設で嘔吐をして、運ばれた先で肺炎と診断され、寝たきりになった。
数日後にCTを撮ったら、出血していた事が判明した。そこから、完全に寝たきりになった。
納得できなかった私は、大阪から岡山の病院に説明を求めて出かけた。
まだ、20代前半の看護師なりたての私の剣幕に、
医師は丁寧に
『この様な状況になり非常に残念です。』と言った。
私の表情や発言は一字一句聞き逃さぬ様、師長が隣に立ち、記録をしていた。
どれだけ怒っても悲しんでも、おばあちゃんは寝たきりのままで、口から食べる事も話をする事も出来なくなった。すぐ脳内出血した事が分かっていても、手術をしたかは微妙な所だったと説明された。自分の病棟の脳外科医にも相談したが、CTも持って帰れないし、同情しかされなかった。
毎日、畑仕事をして真っ黒だったおばあちゃんの皮膚は色白になった。
施設では、季節ごとにレクレーションをし、寝た切りのおばあちゃんも車椅子に乗せて刺激を与えてくれるが、目を開ける事も声を出すこともない生活が続いた。
その間に、おばあちゃんの息子が同じく脳内出血で先に亡くなり、姉や私は結婚して子どもを授かった。
寝た切りのおばあちゃんのベットに出産したら、子どもを転がそうと思っていたが、叶わなかった。
13年間は時代が変わる。
私は脳外科の看護師から留学をした後、助産学校に行き、助産師の道を選んだ。
おばあちゃんはお洒落な人ではなかった。
田舎で目立たぬ様に生活をしていた。
出る釘は打たれる。そんな田舎だった。
だけど、若い頃の写真は綺麗な人だった。子どもの頃、おばあちゃんの写真を見て、美人過ぎる!と騒ぎ立てた事がある。
おばあちゃんになると、こんなにも変わるんだと衝撃を受けた。
そんな話も聞いてくれたお店の方。
はじめはご懐妊⁇
どんな服を探しているの?
と聞いてくれた60代半ばくらいの方だった。
おばあちゃんの服を…とだけ伝えたが、色々聞いてくれて、結局、
死装束を探していることを伝えたら、更におばあちゃんの事を聞いてくれた。
綺麗だった事、優しかった事、色黒だったのが、今は真っ白になった事。
兄弟が多い8人の長女で他は皆んな弟だったこと。
年末に亡くなったが、お葬式は新年を跨いで行った。おばあちゃん家で一緒に過ごす時間ができた。
一緒に選んだのは、春を迎えられるような綺麗な薄いピンク色の上下の服。
葬儀屋さんの綺麗なお化粧のおかげで、物凄く綺麗なおばあちゃんが誕生した。
13年間寝たきりだったとは思えない、92歳とは思えない、色白でピンクの服が似合ってた。
あぁでもない、こうでもない。
って一生懸命選んでくれた彼女の笑顔に救われた時間。
おばあちゃんを見送ってくれた皆んなが綺麗だね〜って言ってくれていた。
きっと彼女はこの光景を描きながら服を選んでくれていたんだと思う。
たった一度しか出逢ってないけど、
感謝している。
私も新しい土地で新生児訪問をスタートし始めた。たった一度しか訪問する事はないけど、今の現状だけを解決するのではなく、先を見越して親になった人、誕生した赤ちゃんが笑顔で生活していける様、サポートしたいと思う。彼女がそうしてくれた様に。