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決別、遺る物

※一部北村薫『太宰治の辞書』のネタバレが含まれます。


積読していた北村薫『太宰治の辞書』を漸く読んだ。

以前、呟きで『女生徒』の中のこんなセリフを引用したことがあった。

"美しさに、内容なんてあってたまるものか。いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。"

太宰治『女生徒』

今回の『太宰治の辞書』の「花火」中で登場する、「近代文学とロココ」という組み合わせで、すぐに『女生徒』が浮かんだ。ついでに言うと、芥川の作品で『舞踏会』は私も非常に好きな作品だった。孫引きになるが、「わたし」が引用する三島が書いた『舞踏会』についての文章に、このようなものがあった。


"美しい音楽的な短篇小説。芥川の持つてゐる最も善いもの、しかも芥川自身の軽んじてゐたものが、この短篇に結晶してゐるやうな感じがする。それは軽やかさと若々しさとうひうひしい感傷とである。時代思潮に毒された擬似哲学的憂鬱ではなくて、青春の只中に自然に洩れる死の溜息のやうなものである。この短篇のクライマックスで、ロティが花火を見て呟く一言は美しい。実に音楽的な、一閃して消えるやうな、生の、又、 死のモチーフ。"
"この小説の中に一寸ワットオのことが出てくるが、芥川は本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ。時代と場所をまちがへて生れてきたこのワットオには、本当のところ皮肉も冷笑も不似合だつたのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかった。「舞踏会」は、過褒に当るかもしれないが、彼の真のロココ的才能が幸運に開花した短篇である。"

北村薫『太宰治の辞書』

もしこれが真だったのなら、そして「皮肉と冷笑の仮面」を外した作品ばかり芥川が残していたら、私はもっと彼の作品に傾倒していただろうと思う。

話を戻して、『女生徒』に、元となった日記があることを私は知らなかった。それを突き止めに行く「わたし」に、私は敵わない。文学に学んでいる身で、大学図書館も自由に使わせてもらえるなのだから、もう少し探究心と行動力を身につけたい所だ。けれど、偶然とはいえ小説の中で明かしてもらえて有難かった。思いがけない出逢いだった。




「太宰治の辞書」の中で、太宰が奥さんを残して心中する遺書に「お前を誰よりも愛してゐました」とあったことが触れられていた。

"「他の女と心中なんかされたら、ーー客観的にはそんな遺書、八つ裂きにしてやりたくなるでしょうね。・・・・・・でも、主観になったら・・・・・・違うかも知れません」
 手紙の文字を前 にしている自分の姿が、闇の中にぽっかり浮かぶ。私は続けた。
「――その言葉のおかげで、この後、生きていける・・・・・・かも知れない」
「すがれますか?」
 私は、思いがけないことを口にしていた。
「だって、――死んでくれたんだから・・・・・・。もう残っているのは、彼じゃあない。その言葉だけじゃないですか。その言葉は、もう・・・・・・どこに出掛けて行くことも、誰に会いに行くこともありません。そうなったらもう、それは《本当》です」"

北村薫『太宰治の辞書』

太宰は、客観的に見れば身勝手だったかもしれない。けれど、繊細で、臆病な人だったのだ。

あの人と、同じように。
可哀想な人だった。初めはそれも全て受け止めてあげたいと思っていた。
でも、それほどの力は私にはなかった。

ただ、それだけなのだ。

今この季節にこの小説を読むことになったことに、何か運命めいたものを感じてしまった。
私に残ったのはあの人ではない。最後に残してくれた、きっと、《本当》の言葉だけ。




私の元にはもう、あの人の連絡先も、写真も、声も、温度も、ない。

私は、生きていける。


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