ベンツ?それとも? ~整形外科病棟~
私の働いている病院では、メルセデスベンツやBMW、フェラーリが用意されていて、患者さんのその日の好みによって、好きな車種が選べます。とはいっても、リクライニング車椅子っていう正式名称があるけどね。
脊髄損傷をして入院した大野吉雄さんは、全身状態が落ち着いてきたので、車椅子へ座るための離床練習が始まりました。
脊髄損傷は、交通事故や高い所から落ちたりした際に、背骨の中を通る脊髄神経が傷ついてしまったことで起こります。大野さんも、自宅で植木の手入れをしていて、はしごから落ちてしまい、救急車で運ばれてきました。
損傷部位や程度によって違いはありますが、脳からの命令が届かないため、思うように手足が動かせないし、触っている、触られていることを感じることもできません。酷い場合では、自力で呼吸ができなくなるなど、生命に関わることもあります。大野さんは、呼吸器の問題は生命に関わるほどではありませんでしたが、循環器の合併症でもある、血圧のコントロールが難しくなるという症状がでてしまいました。現在の大野さんのもっぱらの課題は、この血圧コントロールです。
大野さんのリハビリでは、ベッドの角度を30度、45度、60度、90度と少しずつ上げて、ベッドを上げた直後と、その5分後に血圧を測り、それでも血圧に問題がなければベッドから足をおろし、最終的には車椅子に移乗するという練習を行っています。元気な時なら簡単に行えることも、血圧のコントロールが上手にできないため、急激に血圧が下がることで、意識が朦朧としてしまい、思うようにベッドから起き上がることが出来ません。大野さんの様子をみていると、かなりの疲労と息苦しさを感じているようです。それに、手足が思うように動かないことで、自分で自分の体が支えられない恐怖とも戦っています。しかも大野さん、83歳という、かなりの高齢です。
私は女性であることもですが、147㎝という小柄な身体のため、脊髄損傷の患者さんには不安を与えてしまうようで、以前に担当した患者さんとその奥さんに、揃って担当になることを遠慮したいと言われたことがありました。これはもう、持って生まれた性別だし、身長だし、どんなに望んでも、どうにも変えられないこと。ではあるけれど、そんな理由で担当を断られることは悔しくて仕方ありませんでした。このハンディキャップは、他の人の何十倍も努力をしてカバーするしかない。とはいえ、私が不安そうにしていたら、どんなに小柄なおばあちゃんだって、心配になりますよね。それは、努力や技術の問題ではない。だから、私はいつも胸を張って、堂々と、でも優しく声をかけるようにしています。
「大野さん、今日も座る練習しましょうね。辛くなったら、すぐに教えてくださいね。」
「はい。」
声掛けをする私に、大野さんは小さな声で返事をしてくれます。
「ベッドを上げて行って、血圧が安定していたら、足を下ろして座りましょうね。」
「…。」
「大丈夫、私がしっかり支えるし、必要なら、私が人間椅子になって、大野さんの背もたれになってあげるからね。」
「大丈夫だよ。」
大野さんは不安でいっぱいのはずなのに、私が気遣っているのをわかってか、小さな声だけど、『元気だよ』って伝えてくれているみたい。
「でもって、座れるようになったら、今度はベンツに乗ってお散歩しましょうね。」
「ベンツ?」
病院に似つかわしくない高級車の名前が出てきたからなのか、いつもは話すことも一苦労の大野さんが、思わず聞き返してきました。
「そう、ベンツですよ。あれ?もしかして、他の車がいいですか?BMW、それともフェラーリにしますか?」
大野さん、何やら考えている様子です。
と、私には聞こえないほど小さな声で、何かを呟きました。
「え?なに?」
聞き返す私に、大野さんは可能な限りの力を振り絞ります。
「カローラ」
「え、カローラ?」
庶民的な車の名前が出てきたことで、今度は私が聞き返してしまいました。そんな私の問いかけに、今度は首を小さく縦に振って返事をしてくれます。
「カローラがいいの?ベンツじゃなくていいの?カローラなの?」
「そう、カローラがいい。」
そうなんです。大野さんはきっと、乗り慣れた車が一番安心なんです。
車椅子に乗るまで、本当に長い道のりなので、私はいつも、リクライニング車椅子を高級車に例えます。お金持ちの方にとっては、さほど難しいことではないのかもしれませんが、私のような一労働者にとって、ベンツやフェラーリなんて、夢のまた夢。宝くじでも当たってくれないと、一生乗れないかもしれません。血圧コントロールが難しくなった大野さんにとっても、車椅子に乗ることは、決して容易なことではありません。まさしく、夢のような乗り物に例えたつもりでした。でも、大野さんにとって大切なのは、どんな高級車よりも、乗り慣れて、安心できる乗り物だったのです。
大野さんの思いがけない一言に、こんな当たり前の事にも気付けなかった自分を情けなく感じてしまいます。でも、いつも受け身の大野さんが、自分の希望を伝えてくれたことに、少なからず前向きにリハビリに取り組み始めてくれたようで、心があたたかく締め付けられました。
「そっか…、じゃあ、カローラに乗るために、今日も頑張ろうね。」
私は祈るような気持ちで、大野さんの腕に巻かれた血圧計の計測ボタンを押しました。
絶対に、血圧が下がったりしませんように。
「気づかなかったなぁ。」
リハビリを終えた私は、次の患者さんの部屋へ向かう廊下で、思わずつぶやいてしまいました。窓の外を見ると、そこにはたくさんの国産車が駐車されています。
「確かに、外国の高級車はないな。」
でもなぁ、カローラ目標にリハビリって、ちょっとテンションが上がらないんじゃないかな。とはいえ、大野さんのご希望のカローラ、私がきっと、乗せてみせるからね。
はやる気持ちをおさえ、大野さんの血圧が書かれたメモをみて、気持ちを引き締める私でありました。
それから一週間、カローラ乗車を目指して、大野さんの離床練習は今日も続いています。地道な血圧コントロールの毎日です。
「大野さん、こんにちは。リハビリの永野です。今日も来ましたよ。」
「おお」
「今日は、ご機嫌はいかがですか?」
「まぁまぁだ。」
「そっか、じゃあ、大丈夫ですね。今日も少しずつ、身体を起こしていきましょうか。」
「はいよ。」
体力がついてきたお陰もあり、少し大きくなってきた声で、大野さんは元気に挨拶を返してくれます。だからと言って油断は禁物。この元気な声に惑わされないように、大野さんの血圧だけではなく、表情や息遣い、額の汗も見逃さないよう、全身に注意を払い、時間をかけて少しずつ身体を起こしていきます。二人とも、真剣勝負です。
ベッドアップ60度での大野さんの血圧は、以前に比べて安定してきました。これなら、ベッドを起こして食事が出来るようになるのも、もうすぐです。そして、大野さんご希望のカローラ、という名前のリクライニング車椅子に乗って、短時間ではあるけれど、病棟の廊下を散歩ができるかもしれません。
「大野さん、だいぶ血圧も落ち着いてきたし、これなら来週には乗れるかもね、カローラ。」
元気になっていく大野さん。私は嬉しくて仕方がありません。話しかける自分の声が、思わず、ぴょんぴょんと飛び跳ねているようにも感じます。すると大野さん、間髪入れずに答えます。
「え?ベンツじゃないの?」
思いがけない言葉に、私は大野さんの顔を二度見してしまいました。
「あれ?カローラに乗りたいって言ってませんでしたっけ?」
驚きを隠せない私は、目を真ん丸に見開いて、大野さんの顔を凝視します。
「ベンツ、ベンツがいいよな。」
大野さん、とぼけた表情で繰り返します。大野さんの答えに順応できない私の頭の中は、カローラとベンツがぐるぐると回っています。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、大野さんは更に続けます。
「それからさ、乗る前に、髭剃ってもらいたいな。」
うんうん、確かに少し無精髭が…、って!大野さん、すっごく元気です!!
カローラを目標に気持ちを引き締めていただけに、突然のベンツ発言に拍子抜けしてしまいます。そして、ちょっぴり裏切られた気分で悲しくもあります。でもね、自分の容姿にまで気が回せるようになってくれたことが、何よりも嬉しくなってしまいます。だって、それだけ元気になったって言うことですものね。
それにしても、覚えていてくれたことだけでも嬉しいのに、リハビリ以外の時間に、私との会話を思い出して、どんな車に乗ろうかと、考えてくれていたのでしょうか。もしかしたら、ベンツに乗る自分の姿を思い浮かべて、色々とシュミレーションをしていたのかもしれません。病院の看護師さんをナンパしようと思っていたのでしょうか。それとも、奥さんとの久しぶりのデートを満喫しようと思っていたのでしょうか。大野さんの真意はわかりませんが、私は感動で胸がいっぱいになりました。
冗談など言わなかった大野さんが、今はベッドを起こして、笑顔で座っています。入院直後よりも少しばかり体力もついた大野さんは、無精髭も伸びて、頼りがいのある83歳にみえます。きっと、情に流されやすい私の欲目かもしれませんが…。
とにかく今日の大野さん、本当に最高です。