布都美神社と石上布都魂神社(岡山県赤磐市)
1 はじめに
「布都美神社は布都美村中央道路より西へ二三丁入った風呂の谷山の中腹にある。」と昭 和 28 年の『赤磐市名鑑』にあるのが、石上布都魂神社(イソノカミフツミタマ)の正式名 です。「一説には崇峻の朝備前から大和に移されたと云うがそれを証する資料は無い」と あります。石上布都魂神社の調査研究報告を検証し、先史学と地名学にて報告します。
2 『ふつみたまの剣をめぐって』吉崎志保子氏
昭和 48 年の『おかやま同郷』に、郷土史研究『ふつみたまの剣をめぐって』として吉崎 志保子氏が詳細に報告しています。
明治 7 年の石上神宮禁足地発掘の経緯、神剣と玉類 270 数個の出土、権宮司の富岡鉄斎氏が禁足地の榊を使用して二口を模造、明治 8 年刀匠月山氏が鉄で二口を模し、神社宝物として今日に至っていること。
岡山県の八岐の大蛇伝説備前説の紹介。『日本書紀』神代巻の「今吉備の神部の許にあり」 「此は今石上に在す」を備前の石上布都魂神社とする説が古くからあり、寛文十年(1670)刊行の『神社啓蒙』説と備前の延宝元年(1673)の石上神社社記を比較報告しています。 石上布都魂神社を訪問しての物部宮司の聞取り調査も詳細です有りません。物部家は野村姓であったが池田綱政の命により旧姓物部に複したとされ、その前は不明です。神社 の辺りに物部氏が住んでいたという伝承はありません。
① 延喜式所載の古社である当社が衰退して、知る人もなくなったのを綱政公が嘆き、こ こに社を建て、社領を定めて斎き祀った。
② 御神体は昭和 9 年に東京青山の福島氏によって寄進された。寄進状に、明治 7 年に大 阪の月山貞一氏が鍛えた二口の内の一口の奉納経緯が書かれていた。
③ 大正年間(1912~1926)に大和の石上神宮より当社との関係について問い合わせがあ った。
④ 元禄 17 年(1717)の『備前記』に、社記の写しが全文掲載されている。社記は『日本 書紀』と『神社啓蒙』によって書かれており、新しい発見は皆無と報告しています。
吉崎志保子氏の疑問点は2点です。
「池田綱政公が何を根拠にして、布都美神社を石上 布都魂神社と決定したのか。」と、「韴霊剣は本当に、この地より大和石上神宮に移された のか」です。
纏めとして、「結局、綱政公がかの地に石上神社を再建したのは光政公である。光政公の意向も大いに関わっていたと想像される。光政公の神社淘汰は、社記より 7 年程前の事である。恐らくその前後に領内の神社の由緒等の調査が行われたと思う。延喜 式神名帳所載の古社である布都魂神社が、備前国赤坂の地にあったことは間違いない事実 です。
現在の石上神社が、果して延喜年間(901~923)に存在した石上神社であろうか。 疑問がない訳ではない。」と。報告は詳細であり、大和石上神宮と物部氏との関係、『和名 抄』の「備前岩梨郡に物部郷があった」等、検証すべき事項はすべて網羅されています。
3 「石上布都魂神社とスサノオ」 平津豊氏
2012 年 5 月 1 日付のリポートがホームページ「日本にあった古代文明を訪ねて」に公開されています。平津豊氏の名詞には古代史探索家とあります。イワクラ学会のホームページ担当です。吉崎志保子氏報告の石上社記と由緒書を写真公開されています。古代史探索家としての報告です。
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4 元禄 17 年(1717)の『備前記』掲載の社記写
初めと終わりを紹介します。地名学上、注目すべきは石上村の「古ハ西上村ト唱」です。 石上村は古代からの地名では無くて、池田綱政公が石上布都魂神社と決定した延宝二年(1674)以後の地名変更です。『式内社調査報告第二十二巻』の人見彰彦氏は古代からの 石上地名と思い込んで報告しています。
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5 まとめ
池田綱政公が布都美神社を石上布都魂神社と決定したのは延宝二年(1674)です。 岡山藩主による正式決定です。
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石上村の地名も 1717 年の『備前記』で「古ハ西上村」を変更しています。しかし、1721年の『備陽記』は「大松山村之内」であり、1823 年の『撮要録』で「石上村」が定着しました。『神道体系 古典註釈編延喜式神名帳』には、備前国の調査に伴信友氏は、『備前国式社考』を引用しています。『備前国式社考』は所在不明であり正確さを検証できません。伴信 友氏の『延喜式神名帳註釈』は、書写が 1804 年から4年間、1813 年迄の交合研究です。 備前国については池田綱政説を正しいと報告しています。しかし、1674 年以前の石上布都魂 神社の調査が必要です。
6 参考文献
① 『赤磐市名鑑』昭和 28 年 赤磐市名鑑発刊所
② 『ふつみたまの剣をめぐって』吉崎志保子 「おかやま同郷」昭和 48 年 岡山同郷社
③ 2012 年 5 月 1 日 「石上布都魂神社とスサノオ」 レポート 平津豊
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/isonokamifutsumitama/isonokamifutu.htm
④ 備作之史料(四)『備前記全』石丸平七郎定良 平成 5 年 備作史料研究会
⑤ 『岡山藩政史の研究』谷口澄夫 昭和 56 年 山陽新聞社
⑥ 「石上布都魂神社」人見彰彦 『式内社調査報告第二十二巻』
⑦ 『備陽記』昭和 40 年 石丸定良 日本文教出版
⑧ 『撮要録』昭和 40 年 日本文教出版
⑨ 『神道体系 古典註釈編 延喜式神名帳』昭和 61 年 神道体系編纂会
⑩ 『寸簸乃塵 下巻』土肥経平 「吉備群書集成(二)」昭和 45 年 歴史図書社
平成 28 年 1 月 19 日 寄稿